第百五十一話 片鱗
『獅子に、誇りを!』
階下からの大音声が、部屋を揺らした。
レオンガンドの演説が終わったのだということがわかったのは、しばらくして、テラスからレオンガンドが戻ってきたからだ。聴衆の歓声や怒号、悲鳴のような叫びを振り切るように悠然と歩いてくる。大きな戦を終えた男の姿だった。
ハルベルクたちは、レオンガンドの演説を特等席で拝聴していた。レオンガンドの身振りこそ見えなかったものの、彼の気迫に満ちた演説は、ハルベルクの胸をも打った。病床のシウスクラウドを見舞った記憶が蘇り、義憤が沸いた。シウスクラウドの病がザルワーンの策謀だというのは、以前から実しやかに囁かれていたことではある。南進を目論むザルワーンにとって、英雄然としたシウスクラウドの存在は邪魔者でしかなかったのだ。彼ひとりを退ければガンディアは瞬く間に瓦解するとでも思ったのだろうし、実際、崩壊しかけたこともあった。有能な人材が流出し、国の存亡も危ぶまれた。それでもなんとか持ち堪え、ここまできたのだ。
レオンガンドを影に日向に応援してきたハルベルクにとっても、感慨深いものがある。
テラスの裏で待機していたのは、錚々たる面々だった。
ハルベルク・レウス=ルシオン、リノンクレア・レーウェ=ルシオン、ミオンの将軍ギルバート=ハーディ、ガンディアの大将軍アルガザード・バロル=バルガザールに左眼将軍デイオン=ホークロウ、レマニフラの姫君ナージュ・ジール=レマニフラ。
王族と将軍だけが、この狭い空間に集まっている。
レオンガンドが戻ってきた時、真っ先に声をかけたのはアルガザードだった。
「陛下、素晴らしい演説でした。このアルガザード、陛下の幼き日の記憶が蘇りましたぞ」
アルガザードは、この中では、レオンガンドともっとも長い付き合いをしている人物だといっていいはずだ。先王の時代から将軍だったのだ。ハルベルクが子供の頃から変わらぬ姿で、ガンディオンに遊びに行ったときは、リノンクレアともどもアルガザードに遊んでもらったものだった。
「ありがとう、将軍。あなたが常に見ていてくれたから、わたしはいま、こうしていられるのだ」
「わたくしには過分な御言葉」
「将軍、たまの褒め言葉だ。素直に受け取ってくれ」
レオンガンドは、アルガザードの硬い態度に微笑を浮かべた。彼との会話で緊張がほぐれたのか、すっきりとした表情になっている。
「皆も、よく聞いてくれた。我ながらいい演説だったと思う。まだまだ至らぬところもあるが、今回の戦に向けての演説としては及第点はいったかな?」
「わたしの胸にも響きました。父上の無念、必ず晴らしましょう」
リノンクレアは、レオンガンドに歩み寄り、手を握った。彼女の目には涙が溜まっていた。いまにもこぼれそうだったが、それを拭うことは憚られた。不器用な兄妹が、見つめ合い、家族愛を確かめ合っている。そこにハルベルクの入り込む余地はなかったし、そんな野暮なことをしたいとも思わない。将軍たちも空気を壊さぬよう、微動だにしない。
ナージュ姫ですら、黙っていた。
ナージュ・ジール=レマニフラ。南方の国レマニフラの姫君だといい、将来のレオンガンドの妻となる女性だと聞かされた時には度肝を抜かれたものだ。リノンクレアは勝手に結婚を決めたことに怒り心頭といった有り様だったが、ナージュの人柄に惹かれたのか、すぐに許してしまっていた。ガンディアとレマニフラの同盟、その紐帯を強くするための政略結婚ということで、リノンクレアとは立場がよく似ている。どちらも姫であり、王位継承権を持たないために他国に嫁ぐしかなかったのだ。幸い、リノンクレアはハルベルクのことを気に入ってくれたようだし、ルシオンという国も愛してくれている。
ナージュは、どうなのだろう。少なくとも、レオンガンドに惚れてはいるようだし、レオンガンドもまんざらではなさそうではあるが。
「リノン、父上はおまえをルシオンに嫁がせるとき、苦心し、悩みぬいた末に決断なされた。おまえを心から愛し、将来を案じていたのは、父上だったのだからな」
「わたくしも、父上を愛し、尊敬しておりました」
「ならばこそ、ともに力を合わせ、無念を晴らすのだ」
「はい、兄上……!」
ハルベルクは、力強く抱き合う兄妹の姿に感動すら覚えていた。リノンクレアがレオンガンドに抱いていたわだかまりは解消されたように見える。彼女は、子供の頃から兄に期待し、夢を重ねていた。兄が“うつけ”だと誹られても、信じることをやめなかった。そして、いつかレオンガンドが王位を継いだ時のために、剣を取り、勇を振るった。彼女はレオンガンドの剣でありたかったのだ。
しかし、運命は彼女にルシオンの王子妃となることを迫った。リノンクレアとすれば、悔しかっただろう。だから彼女は、ルシオンに来てからも剣を振るい続けた。ハルベルクはそれを許した。白聖騎士隊を結成したのも、リノンクレアの行き場のない感情を思ってのことでもあった。
彼女は、そういうハルベルクの心遣いを察してくれているようで、いつ頃からかハルベルクの剣として振る舞ってくれるようになった。リノンクレアは変わったのだ。
だが、それでも、魂の本質までは変えようがない。
やはり彼女の根底にはレオンガンドへの愛があり、夢があるのだ。
抱擁を終えると、レオンガンドがハルベルクに歩み寄ってきた。
「ハルベルクも、ともに戦ってくれるな?」
「もちろんです、義兄上」
返答に迷いはなく、交わした握手も確かなものだった。力強く、揺るぎない約束。ハルベルクは再び、レオンガンドとともに戦場に立てることを、心の底から喜んでいた。今度こそ、レオンガンドの雄姿をこの目に焼き付けたいものだが、作戦がどうなるかはまだわからない。ルシオン軍は本隊と行動を共にするというのはわかっているが、配置次第では、レオンガンドの戦いぶりを見ることはできないだろう。
そもそも、王が前線に立つ事自体避けてしかるべきであり、振るうべきは勇ではなく采配なのだ。それを思い出して、ハルベルクは胸中で苦笑した。戦場を駆け抜ける王子と王子妃など、そうそういるものではない。
「いい演説でしたな。ログナー方面軍にも聞かせるべきだったのでは?」
「いや、ログナー人に先王の無念を話したところで意味はあるまい。それに、ログナーはザルワーンへの恨みの深い国だ。五年もの間支配され、されるままになっていた。彼らのザルワーンへの敵愾心は我らの比ではないよ」
レオンガンドが、デイオン将軍の言葉をやんわりと否定する。
ハルベルクは、レオンガンドの発言で、ログナー方面軍を先発させた理由のひとつを知った。ログナーという国がなくなったとはいえ、ガンディア人として完全に同化したわけではない。歴史も記憶も違う。ザルワーンに対する感情もまったく異なるものであり、そういう事情を考慮すれば、全軍集結を待たずに進軍させたのは間違いではないといえるのだろう。
「それに、ログナー人がこの国で生きていくためには、敵国と死に物狂いで戦い、結果を残すしかない。それが勝者と敗者の違いだ。敗者は、勝者に従うしかない」
ハルベルクは、そう告げるレオンガンドの眼の冷ややかさに薄ら寒いものを感じた。
「――ログナー平定後、レオンガンド陛下に逢われましたかな?」
マルス=バールの声は、いつも地の底から響くようだとハルベルクは思った。
それはミオンの首都、ミオン・リオンに訪れたときのことであり、マルスはミオンの国政の一切を取り仕切る人物だった。宰相と呼ばれているのだとか。まだ若すぎる王に代わって采配を振るう彼を悪人のように誹る声もあれば、身を粉にして働いているという事実に心打たれるものもいるという。見方によって評価の変わる人物であることは間違いないだろう。
「もちろん」
「さすがは殿下ですな」
マルスは薄く笑った。それは、ハルベルクがレオンガンド信奉者だという噂への言及なのか、それともリノンクレアの夫であることへの嫌味なのか。考え過ぎかもしれない。ハルベルクはくだらない考えを振り払うと、細身の宰相に問い返した。
「……陛下がどうかされたのか?」
「陛下は、どこへ向かわれるのかと思いましてね」
「どこへ……」
「陛下はログナーを飲み込んだことで、大きく変わられた。わたくしはあのとき、王位を継いだばかりの新王としての薄弱さは失われ、堂々たる獅子王の姿を見たのです」
あのときとは恐らく、ログナー平定直後のことだろう。ガンディア軍によるログナー制圧の報が同盟国に届いたのはほぼ同時であり、両国とも祝勝の使者をマイラムに送った。ルシオンからはハルベルクとリノンクレアが、ミオンからはマルス宰相とギルバート=ハーディ将軍がそれぞれの特使として、マイラムでレオンガンドと逢ったのだ。
ハルベルクには、マルスの言葉を否定する要素も見当たらなかった。
あの日、戦勝祝賀の席で見たレオンガンド・レイ=ガンディアは、獅子の国の王に相応しい威容を備えていた。バルサー要塞奪還直後からなにか大きく成長したように見えたのだ。それがハルベルクの贔屓目でも、気のせいでもないというのは、レオンガンドに対して辛口なところもあるマルス=バールの口から語られた言葉でもわかる。レオンガンドはログナーとの戦いの中で間違いなく成長し、着実に前に進んでいるのだ。
ハルベルクは、その背に追いつくために、懸命に食らいついていかなくてはならない。でなければ、彼に置き去られてしまうだろう。
「いずれ、比類なき獅子王としてこの少国家群に君臨するときがくるのではないかと、そう思うと震えが止まらなかったものです」
(それはどういう……)
問えなかったのは、言葉にするのが恐ろしかったからかもしれない。言葉になって吐き出されたものは、無意味に消え去るわけではない。互いの心に後味の悪いものを残し続ける。
「殿下は、どうです? レオンガンド陛下とお会いになられて、どう思われました?」
「そうだね……わたしはいつか、あの方と並び立ちたいと思ったよ」
獅子王の隣に並ぶには、どれほどの努力と前進が必要なのか。それを考えるだけでも武者震いがする。立ち止まっていてはいけない。走り続けなければならない。でなければ、獅子の尾を掴むこともさえできない。
「並び立つ、と」
マルスが怪訝な顔をしたのは、ハルベルクにとってはむしろ不思議だった。ハルベルクにしてみれば当然の帰結であり、余人の感傷が入り込む余地はなかったのだ。
「変かな?」
「滅相もございません。ただ……」
「ただ?」
「この時代、なにが起こるかわからぬ乱世にございますゆえ、夢はもう少し大きくてもよろしいかと」
マルス=バールの言葉に不穏なものを感じて、ハルベルクは眉根を寄せた。
「……ミオンはなにを考えている?」
「我々はガンディアへの感謝と恩返しのために全力を尽くすまで。次の戦いでは多くの兵を供出しますとも」
マルスの表情に変化はなかった。硬直するわけでも、色をなすわけでもない。だからこそ、宰相などをやっていられるのだろうし、国をうまくまとめられるのだろう。心の中を読まれるようでは、国政を仕切ることもままならない。
そして、彼の言に嘘はあるまい。彼ほどガンディアに感謝している人物がいないのも事実だ。彼は、ガンディアの先王シウスクラウドの後援によっていまの地位についたも同然なのだ。
ミオンの前王ケイウスは、後継者を指定せずに没した。王位継承権を持つ王子はふたりいて、年齢から考えて兄王子シウスこそが王位を継ぐべきだと主張する一派と、弟王子イシウスこそつぎの王になるべきと主張する一派が権力を巡って争ったのだ。内乱は外患を呼びかねない。いや、外患によって収束したも同じだろう。弟王子イシウスを担ぎ出した張本人であるマルスは、独断でガンディア王シウスクラウドに協力を取り付け、ガンディアはルシオンにもイシウス派の後援を要請した。一方、兄王子派は国内戦力と掲げた大義のみを信じて戦った。
結果は、火を見るより明らかだったのだろう。
イシウス派が勝利し、ミオンの内乱は収束。当時八歳だったイシウスが新たな王となり、イシウスの後見人だったマルスが宰相として国政を仕切ることになる。マルスの実力が本物なのは、ミオンの経済が前王時代よりも安定している点で見ても明らかであり、そういう意味では、イシウスが王になって正解だったのだ。シウスクラウドがそこまで見通していたというのなら、ハルワールがシウスクラウドを指して英雄というのも頷ける話だ。
そういう経緯を思えば、ミオンがガンディアを裏切るようなことは考えにくい。
(いまのところは……だ)
乱世になにが起こるかわかったものではない、とはマルスの言葉だが。
その日、空は晴れていた。小さな国々が麻のように乱れ、毎日のように小競り合いを繰り返している世界の空とは、とても思えないほどに晴れやかで、穏やかな色彩だった。流れる雲も綺麗で、日差しも激しすぎない。
ミオン・リオンの王宮は、内側に庭園を備えており、ハルベルクとマルスは、その庭園を見下ろすテラスで語り合っていた。庭園では、若き王イシウスとリノンクレアが花々に囲まれて戯れている。
そこには確かな平穏があり、安寧がある。
こんな日がいつまでも続けばいいと思うのだが、そうもいかないのだろう。戦乱の足音は、どの国にも聞こえてきている。ルシオンだって、小競り合いや中規模な戦いを繰り返しているし、ミオンも同じだ。ガンディアや北の国々の躍進に触発されたからか、それとも別の理由なのか、さまざまな国が動き出しているのだ。
時代が、大きく動いている。
「身の丈に合わぬ野心は身を滅ぼすと申しますが、身の丈とともに野心を拡大し続けるものがいれば、それはすべてを喰らい尽くしますでしょうな」
「……マルス殿」
ハルベルクが彼を一瞥すると、細身の宰相は薄く笑っていた。底冷えのするような笑みだ。マルスという男の得体の知れぬ闇を垣間見た気がする。そしてそれを認識したときから、ハルベルクはミオンを警戒するようになったのだ。
「なに、獅子は己が身を弁えるもの。であればこそ、我らも安心していられるのです」
彼はそう言い残して、テラスを去った。しばらくすると、庭園に現れ、イシウスの元に歩み寄り、なにごとかを話した。と思ったら、イシウスがこちらを仰ぎ、満面の笑顔で両手を振ってきたので、ハルベルクも笑顔を返さざるを得なかった。
(身を弁えなければ……どうする?)
ハルベルクは、胸中で問いかけながら、イシウスに頭を垂れた――。
「どうした? ハルベルク」
レオンガンドに声をかけられて、彼は意識を現実に引き戻された。ハルベルクははっとしたが、なんとか表情には出さずに済んだ。レオンガンドが不思議そうな顔でこちらを見ており、リノンクレアは心配そうな目をしていた。どれくらいの間、夢想していたのだろう。
数分から十数分、動かなかったのかもしれない。
ハルベルクは、慌てたように言い訳するふりをした。
「……いえ、ザルワーンでの戦術について考えていまして」
「気が早いな、我が義弟は」
レオンガンドはハルベルクの肩に手を置くと、朗らかに笑った。そこには薄ら寒さの影すら残っておらず、ハルベルクが感じたのは気のせいだったのではないかと思うほどだった。
「だが、悪くない。期待しているよ」
「はっ」
まるで臣下のような返答をしてしまったことに気づいたのは、レオンガンドの靴音が部屋の外に消え、室内にリノンクレアとともに取り残されてからだった。
将軍たちもナージュ姫も、レオンガンドに追従していったのだろう。
いまだ喚声の聞こえる室内に残ったのは、ルシオンの王子と妃だけだった。
「リノン、義兄上は変わられたようだ」
「ええ……強くなられました」
リノンクレアの潤んだ瞳は、彼女がレオンガンドの変化を喜び、受け入れていることの証だったが。
ハルベルクの胸中には、漠然とした不安のようなものが生まれていた。