第千五百十六話 望みの彼方(五)
「……嘘でしょう」
レムは、危うく素の自分を出しそうになって、慌てて言葉を続けた。
「どうしてわたくしがそのようなことを望まなければならないのです?」
なぜ、自分がセツナに従順さを求める必要があるのか。なぜ、そんなセツナを心の奥底で望んでいるといえるのか。そんなことあるわけがない、と言い張ろうとするものの、そう言い切れない事実に衝撃を受ける。言葉が出ないということは、そう想い、そう望む自分がどこかにいるということでもあった。
「どうして……」
「さあな。どうしてなのかなんて、俺にはわからないさ」
そういう彼の仕草のひとつひとつが、セツナそのものであり、混乱を呼ぶ。彼が偽者であることは明らかだ。彼がセツナ本人であるわけがない。だが、だからといって、まったく同じ容姿、同じ声、同じ表情で、彼そのままの反応を見せられると、多少なりとも混乱するものらしい。人間というのは、完璧な生き物ではない。
「ひとついえることがあるとすれば、おまえが望む俺がここにいるということだ」
「わたくしが望む……セツナ」
「そうだよ。俺は、おまえの望みそのものだ」
「望み……」
「どうした? レム。俺はおまえがいなければなにもできないんだ。おまえだけが頼りなんだ。さあ、早く、俺にどうすればいいか、いってくれ。教えてくれ」
どこか頼りのないセツナの言葉、反応は、新鮮といえば新鮮だった。セツナは、部下や配下を頼りにすることはあっても、それは実力や能力への信頼であり、弱さの現れなどではなかった。しかし、いま目の前でレムに頼ろうとする偽セツナの姿からは、弱さゆえの情けなさを感じずにはいられなかった。それがレムの望みなのだという。
(あたしはあんなセツナを望んでいるというの?)
考えれば考えるほど、深みに嵌っていく。
確かに、そう望んだこともあるかもしれない。
レムにとってのセツナとは、極めて特別な存在だ。従僕としての主人というだけの間柄ではない。そもそも、主人と従僕という関係は、彼と彼女の関係の本質を象徴するものでしかない。本質は、魂の隷属といってもよかった。レムは二度、死んだ。三度目の生をいま、生きている。その三度目の生を与えてくれているのがセツナであり、そのためにレムはセツナに隷属しているのだ。そして、その関係を表すかのように従僕として振る舞っているだけに過ぎない。無論、セツナのことを主として認識しているのは事実だったし、彼ほど自分に相応しい主もいないと想うのもまた、事実だ。
だというのに、心の奥底ではセツナが自分に従順であることを望んでいるというのか。
(あたしのセツナ……)
胸中で言葉にして、心が震えたのを認める。心の奥底で、わずかでもそうなることを望んでいる自分がいるという事実に震えるのだ。主従の契りを結んだまま、立場が逆転することを深層心理で望んでいる。それは、日頃の言動にも現れていることかもしれない。主であるセツナをからかうことに喜びを覚えるのは、そういう心理の現れなのではないか。
しかし、だからといって、それを認め、受け入れることはできない。
それは、決して叶わぬ望みだ。
セツナを彼女ひとりのものにすることは、絶対にできない。
彼には最愛のひとがいる。その事実はだれもが認めることだろう。ミリュウだって、シーラだって、マリアだって、知っていることだ。彼の彼女への愛情は、徹底的に純粋で眩しいほどだ。彼はその想いを隠そうとはしない。隠す必要もないからだ。だからといって、積極的に表現することはないのだが、それでも、だれの目にも明らかだった。
彼女は特別なのだ。
彼女がいる限り、彼を独占することはできない。そして、レムが彼に支配されている限り、彼女を排除することなどできるわけもない。そんなことをすれば、レムは彼の愛を永遠に失うだろう。たとえ命が結ばれ続けていたのだとしても、心はすれ違い、空々しさの中で孤独を味わうことになるかもしれない。
無論、だから、というわけではない。
レムは、いまの自分が嫌いではなかったし、自分の置かれている状況や環境、立場も気に入っていた。セツナだけではない。セツナを取り巻く女性たちのことも、好きといってよかった。彼女たちとの毎日が幸福を与えてくれる。それはこの上なくあざやかで、絶望の縁にいたころには想像もできなかった世界だ。
「レム」
声に、意識を引き戻される。
白濁した空間で、セツナの姿をした偽者がこちらを見ている。その表情はあまりに情けなく、ガンディアの英雄と謳われた彼女の主に似つかわしいものではなかった。
「さあ、俺を導いてくれ。おまえだけが頼りなんだ」
「……悪くは、ありませんね」
レムは、彼の表情に満足感を覚えずにはいられなかった。セツナならば決して見せないような表情だからだ。セツナがだれかに助けを求めたことなどあっただろうか。少なくとも、レムの記憶の中にはない。どのような絶望的な状況にあっても、彼は決して諦めなかったし、助けを求めようとはしなかったはずだ。腹を貫かれ、いまにも死にそうな状況でも、彼は絶望の闇に落ちるようなことはなかった。
だから、なのだろう。
偽セツナの表情はきわめて新鮮で、それがどうにも愉快だった。庇護欲をそそられるのだ。彼を護り、彼を支え、彼を導きたいという欲求が湧き上がってくる。母性本能というべきものなのか、どうか。レムにはよくわからないが、ただ、偽セツナを助けてあげたいと思ったのは、本当だ。それはきっと、それこそが自分の望みだからだろう。
本物のセツナがそういう表情でレムに縋り付いてきたらと想像すると、それだけでどうにかなりそうだった。
「御主人様に頼られる瞬間というのは、従僕としては至福のとき。格別なものでございます。御主人様がなにかしらの命令をくだされれば、それだけでわたくしは幸福を感じるのです」
本心を告げるというのは、少しばかり照れくさいものだ。しかし、相手がセツナの偽者で、本人がこの場にいないというのであれば、問題はないだろう。この気恥ずかしさも、記憶の奥底に消えてなくなる。
この偽者とともに。
「その延長なのでしょう。この望みも。この願いも。この祈りも」
偽セツナの情けない、庇護欲を駆り立てる表情を見つめながら、彼女はみずからの影に手を掲げた。影から闇が噴き出したかと思うと、彼女の右手に纏わりつき、上下に伸長する。先端から伸びた闇が巨大な鎌の刀身を形成し、死神の大鎌が完成する。
「ですが、そんなものは、現実に叶えてこそのもの。偽者のあなた様を相手にそんなことをしても、みずからを慰めるのとどう違うというのでしょうか。それは心地よいことなのかもしれませんが、そこにはなにもありません」
断じ、鎌を両手で握る。偽セツナは、表情を変えた。情けないものから、黒き矛のセツナに相応しい凄みのある表情へ。それは彼女にとってきわめて見慣れた表情であり、だからこそ、彼女は鎌を持つ手に力が籠もった。従僕たる彼女は、セツナの訓練に付き合うことがよくあったのだ。
「わたくしに必要なのは、御主人様や皆様方との日常でございます」
いつから、そうなった。
いつからなのか、覚えてはいない。しかし、確かにそれこそが彼女にとって大切なものとなっていたのだ。セツナを中心とするひとびととの生活にこそ、彼女は安住の地を見出した。当初は、ただ、セツナが光を見せ、仮初にも命を与えてくれたから側にいようとしただけのことだった。ファリアやミリュウのことは嫌いではなかったが、この先上手くやっていけるのかどうかなど、わかるはずもない。
それがいまや、上手くいっている――そう想えている。
失ったものは、ある。ラグナという掛け替えのない存在を失ってしまった。その事実は、どうしたところで取り消せないことだ。命に変えてでも主を守れと、レムが命じたことでもある。それこそが従僕の使命だと強くいったのだ。故にラグナは命をかけてセツナを護り、セツナは生還することができた。そして、セツナが生還したからこそ、レムはこうしてい生きている。
ラグナという尊い犠牲があったからこそ、だ。
とはいえ、ラグナはきっとまた蘇る。セツナは、ラグナを迎えに行くと約束したという。そのときには、レムも一緒に迎えに行くつもりだった。
そのときようやく、すべてがもとに戻る。
「俺のことは、どうだっていいっていうのか?」
「失礼ながら、その通りにございます」
レムは、満面の笑顔で返答すると同時に踏み込んでいた。大鎌を大上段に掲げ、間合いを詰める。相手は、セツナとまったく同じ姿をしているが、斬ることに躊躇はなかった。彼はセツナではない。魂がそういっている。セツナは別の場所にいて、レムのことを案じてくれているに違いない、と。
「レムおまえっ!?」
偽セツナが大鎌の一閃を紙一重でかわすなり、非難の声を浴びせてきた。そういう情けなさも、願望だというのだろうか。
「あなた様は、わたくしの願望であって、わたくしの御主人様でも」
さらに踏み込み、胴を薙ぐように鎌を振り抜く。偽者は、今度はやすやすと回避する。後方に飛び退きながら、矛先をこちらに向けた。切っ先が白く膨張し、光線となって発射された。矛の能力も完璧に近く再現されているようだった。レムは気にせず、突っ込んだ。光の奔流が右肩を吹き飛ばす。激痛が生じた。夢などではない。現実的な痛み。だが、彼女は止まらない。肩から吹き出す血と熱にも、表情ひとつ変えず、突き進む。
「あたしのセツナでもなんでもないもの」
あっという間に復元した肩が右腕と繋がり、彼女のさらなる猛攻を援護する。間合いを詰め、連続的に斬りつける。大鎌の斬撃が奔るたびに偽セツナは後退する。レムの思い描く通りの軌道を辿り、戦場を移動する。
「俺は……!」
偽者が反撃に転じようと足を止めた瞬間だった。偽者の背後で待ち侘びていた“死神”が偽者の背を鎌で切り裂き、彼が驚いた刹那、レムの大鎌が偽者を縦一文字に両断した。
「あなたは偽者でしょう」
肉と骨を斬り裂く手応えの中、セツナを切ってしまったという実感があり、レムは、心が痛みを訴えてくるのを認めた。偽者は偽者でも、本物に限りなく近い偽者だったのだ。セツナ本人を殺してしまったという感覚はしばらく拭えないだろうし、セツナが絶命する瞬間の表情を目の当たりにしてしまったことには、後悔せざるを得ない。後味の悪さは、なんともいえず、強烈だ。
ただ、大鎌で切り裂いた偽者の肉体がその場に残らず、跡形もなく消え失せてくれたことには感謝した。彼の亡骸を見たいとは、まったくもって想わないからだ。




