第千五百十五話 望みの彼方(四)
セツナの腕に抱かれながら穏やかで幸福な朝を迎える、そんなありふれた望み。
叶えたい。
けれど、叶えることはできない。
無理にでも叶えようとすれば、いまあるすべてを破壊してしまうかもしれない。
彼女にとってはセツナだけがすべてだったが、セツナにとっては彼女だけがすべてではなかった。セツナの世界を壊したくはなかった、踏みにじりたくはなかった。穢したくはなかった。そんなことをすれば、彼がすべてを失ってしまうから。
彼の不幸を望んではいない。
自分の幸福よりもむしろ彼の幸福の確保こそが重要であり、自分はその一部で十分だと想えている。それもまた、幸せだからだ。
だから、少しだけ離れた位置に留まり、彼に甘えたりするだけで満足感を得ていた。
本心は、違う。
本当は、セツナに抱きしめられたかった。それも過不足なく、全力で、全身全霊で抱きしめられて、なにもかもを委ね、魂まで溶けてしまうほどの出来事を待ち望んでいた。それですべてが終わってもいい。きっと、そう想えるくらいの幸せを感じることができるはずだ。
「そうね。これは、あたしの望んだことよね」
ミリュウは、セツナに抱き竦められながら、目を瞑った。彼はセツナ本人ではない。断じて、セツナなどではない。セツナそっくりの偽者だ。しかし、ここまでなにもかも似ていると、それでもいいのではないか、と想わなくもない。それで自分の望みが叶うというのなら、その腕の中で眠るのも悪いものではないのではないか。
本当の幸せとは程遠いが、真の幸せが決して叶わないものであるのならば、このまがい物の幸せで妥協してもいいのではないか。
そうすれば、少なくとも、セツナの負担は減る。ミリュウという重荷から解放されるのだ。
「ああ。おまえが望んだことさ」
セツナの声で囁かれる言葉。目を閉じて聞いていると、本当にセツナ本人がそういっているように思えた。
「だから、このまま俺にすべてを委ねればいい。俺が、おまえのすべてを抱いてやる」
「ふふ……」
「どうした?」
「おかしすぎるわよ」
ミリュウは、瞼を上げ、苦笑を漏らすとともに彼の腕の中で身じろぎした。右手に握る刀に命令を送る。ラヴァーソウルの刀身の切っ先が砕け散ったかのように無数の破片となり、刃片はセツナの偽者に襲いかかった。セツナの偽者は、即刻ミリュウを解放し、後方に飛び退く。刃片が空を切ったのは、相手の反応が凄まじく早かったからだ。
黒き矛の補助を得たセツナの実力を完璧に近く再現している。
彼女は、その偽者を見据え、ラヴァーソウルを両手で握りしめた。
「セツナにそんな台詞、似合わないわ」
真紅の太刀が元通りに戻るのを見届けてから、構え直す。相手は、相も変わらずセツナの表情でこちらを見ていた。なにもかもセツナそのままの偽者。本物では決してありえないのは、彼がそんな言葉を吐くような人間ではないからだ。そこまで甲斐性があれば、彼を取り巻く人間関係は違ったものになっていただろうし、もっと多くの女が彼の虜となっていた可能性がある。そういう意味では、彼が天然の人誑しでしかないことに感謝するほかない。人誑しの上、女を侍らせることに躊躇のない人間であったならば、ミリュウはますます身の置き所に困っていただろう。
「なにをいっている。これが俺だ。おまえの望んだ俺だろう」
偽者が、観念したように黒き矛を構える。その表情、仕草がいかにもミリュウの知っているセツナそのもので、呆れるばかりだった。どこまでセツナを再現すれば気が済むのか。どこまでミリュウを馬鹿にすればいいのか。頭を振る。そういうことでは、あるまい。
「……そうなのよね。あたしはセツナにそういうのを望んでいるのよね。それが結局、あなたを生み出した。そうなんでしょ。あなたは、あたしの望みが生んだセツナの幻影」
「だから、俺がおまえの望みを叶えてやるといっているんだ」
セツナの姿でセツナらしくないことをいうのは、つまり、そういうことだ。彼は、ミリュウが頭の中に思い描く理想のセツナなのだ。いま眼の前にいるセツナこそ、ミリュウの望みそのものだ。ミリュウだけを見て、ミリュウを抱くことになんの躊躇もない。そんな積極的なセツナこそ、どこかで望んでいたのだ。
ゆっくりと息を吐き、認める。
確かに、そうなのだろう。そういう望みがどこかにあったのだろう。セツナのあるがままを受け入れ、彼との日々に幸福を感じながらも、心の何処かで、それだけでは満足できない自分がいたのだ。
「なぜ、どうしてそんなことが起きたのかは知らないし、どうでもいいことだけれど、ひとつだけ確かなことだあるわ」
ミリュウは、ラヴァーソウルを振り下ろした。
「あたしは、セツナにそう望んでいるけれど、でも偽者に叶えてもらおうとは夢にも想っていないの」
ラヴァーソウルの真紅の刀身が無数の刃片となって飛散し、前方広範囲に散乱するかのように飛んでいく。偽セツナは、黒き矛を振り回して自分に迫ってきた刃片だけを叩き落とす。そのセツナの身体能力もまた、ミリュウの思い描く彼そのものであり、黒き矛の力もまた、そうだった。故にラヴァーソウルの刃片は容易く撃ち落とされ、破壊される。もちろん、黒き矛の届く範囲の刃片だけではあるが。
「あたしにとってはセツナがすべて。セツナさえいればそれでいいの。それだけで、十分に幸せなのよ」
「そう思い込もうとしているだけだろう? 本当は独り占めしたいんだろう」
その言葉は、まるで研ぎ澄まされた刃のように心に刺さる。
「本当は、自分だけのものにしたいんだろう」
ざくり、ざくりと言葉が刺さる。否定できないから、刺さるしかない。受け流すことも、無視することもできず、ただ心で受け止め、血を流すしかない。
「そのために俺を望んだはずだ。自分だけを見て欲しいから、俺を召喚したはずだ」
「そうね。そのとおりよ」
否定はしない。
「でもね。あたしが好きなのは、あたしが愛しているのは、セツナ本人だけなのよ」
脳裏に浮かぶのは、本物のセツナの、決して積極的とは言い難いものの、愛情に満ち溢れた態度であり、言動であり、表情だった。そこにこそ、本当の幸せがある。
「偽者はお呼びじゃないの」
ラヴァーソウルの刃片を偽セツナに集中させる。偽セツナは、黒き矛をくるくると旋回させ、暴風のように振り回してすべての刃片を叩き落とすなり破壊するなりすると、床を蹴った。こちらに向かって飛びかかってくる。
「ミリュウ!」
獰猛な獣のような表情。
それもまた、自分の望んだセツナの表情なのだろう。襲われたいのだ。彼に。そして同時にそんなことは決してありえないということも理解している。ありえないからこそ、心のどこかで望み、願うのだろう。
「あたしを抱いていいのは、セツナだけよ」
彼女は告げ、魔法を発動した。
周囲に待機させていた刃片が紡いだ魔法の光は、偽セツナをたやすく包み込み、一瞬にして消し炭にした。黒き矛だけが残った。人間の肉体では決して耐えきれない熱量。低威力、低精度とはいえ、魔法の威力とはそのようなものだ。
床に落ちた黒き矛を見やりながら、ミリュウは途方もない疲労感に苛まれた。
「わたくしの望み……でございますか」
レムは、偽セツナを見つめながら、小首を傾げるような仕草をした。
偽者は、本当に本物のセツナそっくりだった。そっくり、というより、そのものといったほうがいいだろう。頭の先から爪の先までセツナそのものであり、だれがどう見てもセツナ本人と思うだろう。レムですら感心するほどによくできている。ただ、魂の繋がりまでは再現できるわけもなく、故に彼女はそれを偽者と見抜くことができた。もしレムがセツナの魂を感じることのできない存在であれば、あっさりと騙されていたかもしれない。
それほどまでによく似ている理由もまた、いまの言葉で明らかになった。
「つまり、わたくしが望むままの御主人様なのでございますね」
「そういうことだ。そして俺なら、おまえの望みを叶えられる」
「わたくしの望み……」
先ほどと同じ言葉をつぶやく。
望み。
自分の望みとは一体なんなのか、望みを元に再現されたのであろう偽セツナを見ても、いまいちよくわからない。自分がセツナに望むこととはなんなのか。
人間だれしも、自分の心を完全に理解できるわけではない。人間は、様々な感情を複雑に抱え込む生き物だ。それら多様な感情がそれぞれに望みを抱く。明るい望みもあれば、暗い望みもあるだろう。それら様々な望みや願いのうち、どういったものが選ばれ、目の前の偽セツナを象ったのか、想像もつかなかった。
「俺はおまえのいう通りにするよ。おまえがいうとおり、おまえが望むとおりに、しよう。なんでもな」
「……いうとおり」
反芻して、なるほどと彼女はうなずいた。そういうことなのか、と理解する。自分の望み。自分の願い。セツナに求めるものとはなんなのか。偽セツナの言動のおかげでわかる。それがどれだけ強い望みなのかはともかくとして、セツナが自分の言葉に対し素直に従う様は、確かに見てみたい気がした。
「そう。俺はおまえのものさ」
偽者だとわかっていながら、セツナの姿、セツナの表情、セツナの言葉でそんな言葉を吐かれると、多少なりとも動揺しないわけにはいかなかった。魂の繋がりはなく、身も心も許しているわけではない。だが、それでも、目の前の彼は、レムが望んだセツナだというのだ。その一言が、心に響かないわけがない。
「わたくしが心の何処かでそう望んでいる、ということなのでございますね?」
「心の何処か?」
偽セツナが微笑みを浮かべたまま、頭を振った。
「違う違う。もっと根源的なものだよ」
そして、優しくも穏やかなまなざしで、レムを見据える。
「おまえが心の奥底で真に望みながら、目を逸らしてきた想いそのものだ」




