第千五百十二話 望みの彼方(一)
違和感があった。
あらゆる感覚が途絶したかと思うと、内臓を激しく揺さぶられた。世界から隔絶され、すぐさま復帰する――空間転移の際に感じる感覚に極めて似ている。そしてそれにより、自分が空間転移させられたのだということを認識した彼女は、それが黒き矛の空間転移とはまったく異なるものであるということも理解した。黒き矛の空間転移は、もう少し甘美で、もう少し官能的だ。
少なくとも、ミリュウ・ゼノン=リヴァイアにとっては。
(ここは……?)
視界を塗り潰した白が消えてなくなると、彼女の目の前に現れた光景は、紛れもなくさっきまで立っていた門の広間とは異なる空間だった。空間転移が起きたのは間違いなかったし、それがセツナが黒き矛によって引き起こしたものでないことも明らかだった。セツナの空間転移ならば、側に彼がいなければならない。
床以外が真っ白な空間には、彼女以外のだれもいなかった。
どこまでも続く白い空に、地平の果てまで続くような白い世界。床だけがこの空間があの遺跡と地続きであることを主張しているようなのだが、その主張も限りなく弱気に見える。たとえばここがまったくの別空間であったとしても、なにひとつ驚きようがないくらいに淡白な主張だった。床の材質以外、共通点が見当たらないからだ。
白く濁った空間は、それ自体が異空間であることを示しているような気さえする。
(セツナは、どこよ?)
彼女は、それだけが気がかりだった。レムやシーラ、ウルクに調査団員たちの安否も気にはなるものの、レムたちがそう簡単に死ぬとは思えないし、調査団員がどうなろうと知ったことではない。セツナを満喫する時間を作ってくれたことには感謝こそするが、それだけだ。彼らよりも、セツナのほうがこの上なく大事だった。
自分だけが空間転移現象に巻き込まれたとは、考えにくい。
おそらくあの遺跡の仕掛けかなにかであり、あの場にいた全員が巻き込まれたと考えるべきだった。セツナもレムもシーラもウルクも、非戦闘員たちも、空間転移させられたはずだ。
だとすれば、この近くにいてもおかしくはないのだが、しかし、ラヴァーソウルで強化された感覚で探れる範囲には、だれひとりとして存在しなかった。
もしかすると、それぞれまったく別の場所に転送されたのかもしれず、そうとなればいてもたってもいられなかった。すぐにでもこの場を離れ、セツナとの合流を急ぐべきだった。ほかの連中はともかく、セツナがいなければ、自分は生きていけない。
「へえ、そこまで想ってくれていたのか」
聞き慣れた声には、殺気が込められていた。
振り向くと、だれもいなかったはずの空間にひとりの少年が立っていた。もはや少年という年齢ではないものの、彼女の中では、彼はいつまでたっても少年のままだった。少年という印象を覆すには、彼が積極的にならなければならないし、そのような日が来るとは、想えない。
「セツナ?」
ミリュウは、その少年の見慣れた姿に疑問を抱いた。いや、その疑問自体に疑問を抱くという奇妙なことが起こっていた。セツナは、セツナだ。さっきまでと変わらぬ姿で、そこに立っている。漆黒の頭髪に血のように紅い瞳、相変わらずの童顔は戦歴によって凄味を帯び始めている。その不均衡とでもいうべき容貌は、彼女にとってこの上なく魅力的だ。身長はミリュウよりは低いものの、決して低いほうではない。均整の取れた体躯。黒き矛を使いこなすために鍛え上げられた肉体は、いまや並の軍人では太刀打ち出来ないほどのものへと成長していた。ただの高校生の少年だった人物の肉体とは想えない。その上に《獅子の尾》の隊服を纏い、新式鎧・改を装着している。手には、黒き矛。相も変わらぬ禍々しさを見慣れることはない。
「なんだ? 俺がどうかしたのか?」
セツナは、セツナだった。
なにひとつ不自然な点はなかった。
それなのに、ミリュウはラヴァーソウルの柄を握る手に力を込めなければならなかった。違和感がある。しかし、その違和感の出所がわからない。目の前にいる少年はセツナだ。紛れもない。どこをとってもセツナそのものだ。まったく同じ姿でもニーウェとは、明らかに違う。ニーウェは、セツナと同じ容姿をした別人だったが、いま目の前にいるのはセツナなのだ。
セツナそのものが、そこにいる。
白く濁った世界は、まるでこの世の果てのようだ、とレムは想った。
床以外なにもかもが白く染まった空間で、彼女はただひとり、立ち尽くしている。周囲にはだれもいない。セツナもいなければ、ミリュウ、シーラ、ウルクも存在せず、ましてや調査団員のひとりとして見当たらなかった。
突如起こった空間転移現象によって、遺跡内部の別空間へと転送されたらしい。同じ遺跡の別の場所だと判断したのは、床の材質が門の広間まで見てきた床や壁とまったく同じもののようだったからだ。壁はなく、天井も見えないが、床が一緒という一点だけで同じ遺跡内に飛ばされたと考えている。まったく別の、地続きですらない空間に転送された可能性もあるものの、想像したくもなかった。それでは、どうやって主の元に帰ればいいのかわからない。
(そもそも、ここから御主人様を探すというのも困難を極めそうですが)
レムは、“死神”の弐号を呼び出すと、状況の把握に努めた。死神弐号ことトゥーレは、視覚と聴覚に優れ、ほかの“死神”よりも遥か彼方まで見渡すことができる。情報収集に特化した“死神”であり、他の“死神”に比べれば非力なのが玉に瑕、といえばそうなるのかもしれない。もっとも、常人相手にはトゥーレのような非力さですら凶悪極まりないものとなる。
トゥーレの眼を通して見回したところで、なにが見つかるわけでもなかった。なにもない。だだっ広い空間が、静寂の中にあるだけだ。トゥーレの視力を持ってしても壁や天井の位置を確認できないところを考えると、もしかすると壁も天井も存在しない空間なのではないか。ふと、そんな考えに至るが、ありえないことだと思い返す。遺跡は、地下にあったのだ。天井がなければ、どうやってこの空間を作り出しているのか。
世界の果てのような空間の中で、レムは、意識を集中させた。“死神”の参号から陸号までを追加で呼び出し、周辺の調査を始める。
空間転移が起きたことは、間違いない。ただの勘違いでもなければ、思い過ごしでもない。実際にレムはいま、別空間にいるのだ。空間転移がなぜ起きたのかは不明だ。おそらくは、門に仕掛けられていた罠かなにかだろう。“埋葬された文明”の遺跡には、そういった仕掛けが隠され、訪れたものを容赦なく死地に追いやるという話を聞いたことがある。
(これも……その一種?)
弐号から陸号までの五体の“死神”は、レムの目となり耳となって周辺の調査を行っているが、“死神”たちの目に映る光景に変化はなかった。硬質な床に白く濁った空間――代わり映えのない風景だけがどこまでも続いている。
(だとすれば、あたしにはぴったりの罠かもね)
レムは、目を細め、“死神”たちを招集した。どこまでいっても変わらない風景が続いているということがわかった以上、調査を続ける意味はない。
この異様な空間そのものが、遺跡の侵入者に対する罠なのかもしれない。
であれば、用心に越したことはなく、レムは“死神”たちをひとつにし、本来の姿に戻した。闇色の少女のような外見を持つ“死神”。真壱号とでもいうべきか。セツナの闇人形と、レムの“死神”が融合した結果誕生した“死神”であり、以来、彼女の“死神”の基本形となった。
「なにを警戒しているんだ?」
気配が生じたのは、声が聞こえたのと同時だった。
「レム」
慣れ親しんだ声に振り向くと、彼女が忠誠を誓う主がそこにいた。
なにが起きたのか、すぐにはわからなかった。
全身を包み込み、意識を苛んだ違和感に吐き気を覚えたのも束の間、気がつくと、一瞬前とは異なる場所にいた。それが空間転移現象だということを理解できたのは、これまで何度か黒き矛の空間転移を経験しているからだろう。強引に空間転移させられたばかりでもあった。そのときの感覚は、いまさっき感じたものとよく似ている。巨人の手で乱暴に握りしめられ、どこかへ投げ出されたような、そんな感覚。
(そんな経験はねえがな)
シーラは、自分以外だれもいない空間に佇み、神経を研ぎ澄ませた。ハートオブビーストは失っておらず、いまも握りしめている。召喚武装を手にしていることによる副作用が彼女の五感を強化しており、それによってシーラは自分の置かれている状況というのを完璧に近く把握できていた。
周囲四方には、セツナはおろか、ミリュウ、レム、ウルク、調査団の連中さえも見当たらなかった。かなり広範囲の気配を探ったが、なにも引っかからない。セツナたちだけでなく、ほかの気配もまったくなかった。シーラ以外の生き物がいないのだ。空気は、遺跡内と変わらず淀んでいる。おそらく、遺跡内の別の空間なのだろう。遺跡は、地下に埋もれていた。皇魔が出入りしていたことからどこかに抜け道があり、空気が循環しているのは間違いないのだが、だからといって新鮮な空気で満ちているような場所ではなかった。
それは、この謎の空間も同じだ。
謎、というのは天井と壁が見当たらず、天の彼方、地平の果てまで白く濁って見えるからだ。
「なにか問題でもあるのか?」
声とともに生じた気配に、彼女は全身で警戒を露わにした。
「シーラ」
しかし、振り向いた先にいた人物の姿を見た瞬間、警戒を緩まずにはいられなかった。
彼女の主であり、すべてを捧げるべき人物がそこにいたからだ。
ウルクは、自分の身に起きた異変について、考えていた。
紛れもなく、空間転移現象と呼ばれる類のものだった。セツナの召喚武装カオスブリンガーの代表的な能力のひとつであり、彼はその能力によって複数人の対象とともに別空間に転移したという記録がある。また、ジゼルコート配下の武装召喚師シャルティア=フォウンの召喚武装オープンワールドは、大軍勢をそのまま転送することができた。
複数の対象を別空間に転送することは、決して不可能ではないということだ。
もっとも、あの門が召喚武装とは考えられなかった。
門の形をした召喚武装は実在する。セツナやファリアと関わりの深い武装召喚師アズマリア=アルテマックスの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンは、門そのものだという。ゲートオブヴァーミリオンも空間転移能力を有しているというが、それと、この遺跡の門とは関わりがあるわけもない。
武装召喚術がアズマリア=アルテマックスによって発明されたのは、この百年以内の出来事だ。そして約五十年前、アズマリアは、ファリア=バルディッシュら四人の弟子に術を伝えている。それが武装召喚術の始まりとされ、アズマリアが始祖召喚師と呼ばれる所以となった。
遺跡は、少なくとも五百年は、この地下に埋もれていたはずだ。遺跡が地上に存在していたのは、五百年前の大分断以前でなければ辻褄が合わない。大分断以降、様々な記録が歴史として残っているのだ。このように大規模な建造物が存在していたのであれば、歴史に刻まれているはずであり、ウルクの知識に入っているはずだった。
ミドガルド=ウェハラムら魔晶技術研究所の研究員たちは、ウルクに古今東西、ありとあらゆる情報を叩き込もうとしていたのだ。神聖ディール王国の歴史、地名、人名、事物のみならず、大陸全土の様々な出来事、小国家群の国々の些細な記録までも、ウルクに記憶させるべく必死になっていた。そうすることで、ウルクに人間とはどういう生き物なのかを教え込もうとしたのだ。
結局、ウルクには人間とはどのような生物で、魔晶人形である自分にとってどのような存在なのか、よくわからないままだった。
ただひとつわかっていることは、人間がどのような歴史を歩み、どのような記録を残していようと、ウルクにはほとんど関係がないということだ。
ウルクは魔晶人形であり、人間ではない。
そこに絶対の隔たりがある。
自分はそもそも、生命体ですらない。
「ということは、俺も、そうなるのかな」
不意に聞こえてきた声は、聞き慣れたものだったが、どこか奇妙だった。音の反響が違う。
「セツナ?」
ウルクは、振り向いた先に立ち尽くす人物に疑問を感じた。
それは確かにセツナなのだが、微妙に違っていた。
顔の形、体格、身長、身につけている衣服、防具、黒き矛に至るまで、さっきまで見ていた彼そのものだ。しかし、違う。
違う、と、ウルクは判断する。
ウルクは、右腕を掲げた。
「なんの真似だ?」
セツナの姿をした魔晶人形は、無表情かつ無感情でもって、こちらを見ていた。




