第千五百五話 リノンクレアとルシオン
大陸暦五百三年五月二十日。
謀反が終息して十日以上が経過し、王都ガンディオンは平穏な日常を完全に取り戻したといってもいい状態にあった。
論功行賞、大刷新の発表もあり、様々な物事が動いているものの、マルディア救援から続く長期の戦いが終わったことで、戦争に参加したものたちには長期休暇が与えられていた。戦争に直接参加しなかったものの多くも休暇を満喫しているはずだ。国土防衛に必要な戦力さえ確保できていれば、当面の心配はないだろう。
ガンディアは国難を乗り越え、危機を脱したのだ。
戦力や人材は数多く失われたものの、それでも小国家群最大規模の国家であり、圧倒的な軍事力を誇ることに違いはない。レオンガンドと敵対したアザーク、ラクシャ、ジベル、イシカのうち、アザーク、ラクシャは戦力の大半を失い、戦後の休息期を突いてくるといったことができるわけもなかった。それは、ジベル、イシカにも同じことが言える。ジベルは主力として期待していたであろう真死神部隊を失っていたし、イシカも最強部隊であった星弓兵団と弓聖を失っている。
それらが力を合わせたとしても、疲弊したガンディアを攻め滅ぼすには物足りないのだ。
それになにより、それら国々がレオンガンドを倒す大義名分は、ジゼルコートの謀反が失敗に終わったことで失われた。彼らは敗北したのだ。その事実は重く受け止められているだろう。
また、レオンガンドは、ジゼルコートの謀反に与した国々に対し、報復を行うことを検討していることを公表した。
当然の措置だ。
アザーク、ラクシャはガンディアに従属を誓っており、ジベル、イシカは同盟を結んでいた。それら国々の裏切りを許せば、ガンディアの国家としての立場や威厳は見事に失墜することだろう。今後、ガンディアとなんらかの約定を結んだ国が裏切った場合、なにもいえなくなる可能性さえある。ここは、毅然とした対応をしなければならない。
その一方で、ルシオンとベレルには寛大な処置を取っている。
ベレルに関しては、エリウス=ログナーの対応がすべてだった。エリウスは、イスラ・レーウェ=ベレルを人質に取り、ベレルに対し不動であることを厳命した。そうすることで、戦後のベレルの立場を確保しようとしたのだ。ベレルがもしレオンガンド軍に対し攻撃を行ったりしていれば、ベレルにも報復的措置を取らなければならなかっただろう。それをせずに済んだのはエリウスの機転のおかげであり、ベレル王も王妃も彼に感謝していた。ベレルとしては、レオンガンドのガンディアだからこそ従属していたのであり、ジゼルコートを推戴するつもりなど毛頭なかったのだろう。
ベレル王は、エリウスとイスラの結婚を推進し、ふたりを婚約させた。王女と国王側近では釣り合いが取れているのかどうかというと、従属国の王女と支配国の国王側近と考えれば、問題はないだろう。むしろ、ベレルにとってはこれ以上の政略結婚はないというべきだ。
これによりガンディアとベレルの紐帯はより強くなるだろうという政治的配慮もあるにはあったが、なによりもふたりの幸せを願ってのことだったのは、ベレル王の言動を知れば明らかだ。
ベレル王イストリアは、最愛の娘イスラを人質に出したからこそ、彼女にとって最高の幸せを望んでいた。それがエリウスとの結婚というのであれば、それがたとえ政略的価値が皆無であったとしても構わないとさえ想っていたようだ。それほどまでに愛する娘ですら、人質にしなければならなかった苦悩を思えば、エリウスが彼女のためにベレル存続に一役買ったことは、イストリアにとって感激するほかない事柄かもしれなかった。
ルシオンについては、長年の同盟国であり、南の守りの要ということもあって即座に切れないという理由があったが、なにより、国の代表が国王レオンガンドの実妹リノンクレアになったということも大きかった。
ルシオンがジゼルコート軍についた事実については、そうせざるを得なかった理由をでっち上げ、それを真実として流布させた。ガンディア国内では、長年の同盟国であるルシオンの裏切りに憤る声がもっとも大きかったものの、ガンディア政府が吹聴した真実によって、リノンクレアを同情する声が圧倒的となった。元より、リノンクレアに対しては同情を寄せる声が多かった。
ルシオン王妃リノンクレアは、白聖騎士隊を率い、マルディア救援軍に参加していたのだ。ジゼルコートが謀反を起こしたときには、レオンガンドたちとともにマルディアの地にあり、ハルベルク率いるルシオン軍がジゼルコート軍として行動をともにしているという事実を知ったとき、天地が晦冥したかと思えるほどの衝撃を受けていた。
ルシオンの裏切りは、リノンクレアにとっても信じがたいことだったのだ。
彼女は、ログナー方面でルシオン軍と対峙するまでハルベルクの裏切りを信じなかったし、ハルベルクがレオンガンドに敵対したという事実を目の当たりにしても、最後まで説得を諦めなかった。彼女は、ハルベルクとレオンガンドが戦う理由などないと想っていたのだ。
それは、レオンガンドにしてもそうだっただろう。
ハルベルクは、レオンガンドにとって義弟であり戦友であり親友でもあった。ともに夢を語り、ともに夢を追うことを誓いあった間柄でもあった。
そんな彼に裏切られたレオンガンドの心中は想像に余りある。
リノンクレアは、そんな兄の想いも理解していたに違いない。だからこそハルベルクを説得しようとしたが、失敗に終わっている。
ハルベルクは、バルサー要塞を巡る戦いにおいて戦死した。レオンガンドが、手を下した。リノンクレアはその瞬間を目の当たりにしたものの、そのことでレオンガンドを責めるようなことはなかった。それがレオンガンドには辛かったらしい。
『責めてくれたほうがいくらかましなのだ。なにもいわず、ただ受け入れられることのほうが遥かに辛い』
とはいえ、リノンクレアとしても、レオンガンドを責めることなどできるはずもなかったのかもしれない。
リノンクレアは、レオンガンドを責めるどころか、バルサー戦後、ルシオン軍を纏め、マルダール、ガンディオンの戦いに参加している。そうすることでルシオンの罪を少しでも軽くしようという判断だったのは間違いない。実際、それによってルシオンが完全に敵対国ではないという印象が生まれ、戦後のリノンクレアへの同情が強くなった。
そんなリノンクレアがハルベルクに代わって頂点に立つルシオンならば、同盟国として問題はないだろう――だれもがそう考えていた矢先、ルシオンから大勢のひとびとがガンディアを訪れた。
リノンクレアが、ガンディアに帰ってきたのだ。
「陛下、ご機嫌麗しゅうございます」
謁見の間に入ってきたリノンクレアは、以前となにひとつ変わらぬ様子であり、レオンガンドは、安心するよりも妙な不安を感じずにはいられなかった。
「長旅、ご苦労」
「長旅、というほどでもありませんよ」
リノンクレアは、なにがおかしいのか、くすくすと笑った。その明るさが妙に痛々しい。確かにセイラーンからガンディオンまでは、それほどの距離ではない。七日もあれば辿り着けるほどの距離だ。ガンディオンから龍府より格段に近い。しかし、笑うほどのことか、と彼は思わざるをえない。
無理をして、明るく振る舞っているのではないか。
レオンガンドは、妹の心情を想い、目を細めた。
「話は聞いている。そなたをガンディア王家に復帰させることに問題はない。が、本当にいいのか?」
「はい」
リノンクレアは、静かにうなずくと、睫毛を伏せた。ただそれだけで、彼女の表情が暗くなる。
「ルシオンにわたくしの居場所はありませんので」
彼女がガンディアに帰ってきたのは、彼女がルシオンにおける立場を失ったからにほかならない。
傷心の彼女を気遣い、レオンガンドは謁見を早々に打ち切ると、自室に彼女を呼んだ。アーリアもまだ帰ってきておらず、室内にはレオンガンドとリノンクレアのふたりだけしかいない。こうでもしなければ、彼女の本音を聞き出すことなどできないという彼なりの配慮だった。
ルシオンで政変があったのだ。
国王ハルベルクが自国の軍勢を率い、あろうことか同盟国の王であるレオンガンドを討とうとしたことに対し非難する声明文を王弟たちが発表。ハルベルクの妻であるところの王妃リノンクレアに国を任せることなどできないといい、リノンクレアに退位を迫った。旧ハルベルク派ことリノンクレア派は抵抗しようとしたが。リノンクレアはあっさりと王妃の位を捨て、王弟たちに任せることにした。
王弟つまり、ハルベルクの弟たちは、しかし、みずからが王位につくことはしなかった。自分たちもまた、ハルベルクの暴走を止められなかったのだから、王位につくことはできないというのだ。王弟たちは先代の国王ハルワール直系ではなく、先々代の国王ハルディオスの末弟、つまりハルワールの弟ハルクロアの子ハルディムを国王に推戴することにした。
「彼らの気持ちも汲んでやるべきだ」
「わかっています」
リノンクレアは、いわれるまでもないとでもいいたげな表情だった。実際、その通りの感情が彼女の中にあるに違いない。数年あまり、ルシオンで満ち足りた生活を送っていたのだ。彼女のほうがレオンガンドよりも余程ルシオンの実情について詳しく、ルシオンのひとびとの想いを理解しているはずだった。
「皆、気持ちのいいひとたちばかりです。ハルベルクによく似て」
「そうか」
「わたしも、納得したからこそ、ルシオン王家を離れることにしたのです」
彼女は、ゆっくりと、なにもかもを受け入れたかのような穏やかさで、告げた。
「そのほうが、ルシオンにとっても都合がいい」
都合がいい、ということがすべてだった。
ルシオンは、新国王ハルディムを迎えるに当たって、ガンディアとの関係性を変えようとしていた。ガンディアは、ジゼルコートの謀反に同調し、レオンガンドの敵となったハルベルクの行為に正当性を持たせ、戦後もルシオンとの同盟関係を続けるつもりだったが、ルシオン側は、それでは納得できないというところがあったようだ。
ハルベルク率いるルシオンがガンディアを裏切った事実を帳消しにすることなどできない、というのだ。そしてそのままでは、ガンディアとの同盟関係にもいずれ問題が生じる可能性もある、とルシオン政府は判断した。そこで導き出されたのが、同盟関係を解消するとともに、ルシオンがガンディアに従属するということだった。
つまり、同盟国ではなく、従属国になることにより、ガンディアを裏切ったことを贖罪するつもりなのだ。
そのためにも、ルシオンの代表者がリノンクレアであってもらっては困るのだ。それではまるで、リノンクレアとハルベルクの結婚が、ガンディアがルシオンを属国にするために仕組んだ陰謀のように取られかねない。後々ルシオンの国権を得るためにリノンクレアを嫁がせ、ハルベルクをジゼルコートの謀反に同調させ。レオンガンドに討たせた――などという不名誉な噂は、リノンクレアとハルベルクが愛し合い、信頼し合っていたという事実を蔑ろにするものだ。ふたりの仲睦まじさを知っているルシオン国民がそのような噂を立て、信じることはないだろうが、実情を知らない他国は、そうとは限らない。不名誉な噂が事実のように語られ、リノンクレアやルシオンのひとびとの心を踏み躙るようなことは、ルシオン政府の望みではない。
ハルカールたちは、そこまで考えた上で、リノンクレアに王妃の座から降りることを進言したのだ。そして、リノンクレアも義弟たちのそういった想いを知ったからこそ、ルシオンの代表者という立場を返上している。さらに、自分の存在が今後、ガンディアの従属国となるルシオンにとって邪魔になるかもしれないということから、ルシオンを去ることとしたのだ。
彼女がガンディアに戻ってきたのは、そういう複雑な理由からだった。
彼女としては、ハルベルクの遺志を継ぎ、ルシオンをより良い国にしようと考えていたようだが、そのために無理をしてもいたのだろう。レオンガンドの元に戻ってきたリノンクレアは、以前よりも随分痩せているように見えた。
ハルベルクを失い、精神的に参っているはずなのに、ルシオンの代表者という立場の手前、そういった様子を他人に見せることもできず、泣くことも甘えることも許されないまま、謀反の終わりを見届けなければならなかった。彼女は王妃であり、王なき後の国にとっては頂点に立つ人物だ。泣き暮らすことなどできるわけもなかった。それは、ジゼルコートを討ち、長い戦いに終止符が打たれた後も変わらなかった。彼女が宴もそこそこにルシオンに引き上げたのも、そういう理由からだった。
ハルベルクの亡骸をルシオンの地に埋葬した後、彼女はルシオンの王妃として、女王の如く振る舞った。振る舞わねばならなかった。彼女こそがルシオンの頂点に立つものだからだ。そしてそれが彼女の残りの人生となるはずだった。
ハルカールたちがガンディアへの従属を心に決め、リノンクレアを王妃の座から降ろしたのは、そういう彼女の姿があまりに痛々しかった、というのもあるのかもしれない。ハルベルクの弟たちは、リノンクレアのいうとおり、気の良い人物ばかりだった。彼らは、ハルベルクの妻にして義理の姉に当たるリノンクレアを愛し、尊敬してもいたのだ。そんな彼女が最愛の夫に裏切られた上、目の前で失い、心に深い傷を負ったまま、国の代表として立ち続けなければならないという状況を痛ましく思わないわけがなかった。
レオンガンドは、ハルカールたちに感謝していた。
リノンクレアは、決して弱い心の持ち主ではない。子供の頃から剣を習い、男顔負けの訓練によってガンディアでも一二を争う剣の達人となった彼女は、心身ともに類稀な強さを持っていた。十代半ばで戦場に立ち、部隊を率いて采配を振るうこともあった。彼女は、レオンガンドよりも強い心の持ち主だったかもしれない。しかし、それでも、限界はあるだろう。
彼女は、最愛の夫であるハルベルクに裏切られた上、その夫を目の前の兄に殺されたのだ。
精神的に参ってしまっていてもなんら不思議ではなかった。
それなのに彼女はそういった素振りを一切見せず、ルシオン軍を取りまとめ、戦いが終わるまで従軍し続けた。気丈に振る舞い、凛然とし続けたのだ。それは、彼女の誇りがなせるものに違いなかったものの、彼女の心に負担を強い続けたのもまた、間違いなかった。
あのまま、ルシオンの女王として在り続ければ、彼女はいつか壊れたかもしれない。
「……ルシオンのことは、ルシオンのものたちに任せるのが一番だろう」
「わたくしも、そう想います」
リノンクレアが穏やかにうなずく。彼女がそういう表情を見せるのは、随分久しぶりだった。ジゼルコートの謀反にハルベルクが同調したという報せが届いて以来、彼女の心は休まることを知らなかったに違いない。常に焦燥と不安が、彼女の心の中に渦巻いていたのだ。
ルシオンの王妃という立場から解放された彼女は、ようやく、人間らしい感情を取り戻すことができたのかもしれない。
「おまえは、しばらくはなにも考えず、ゆっくりと静養するといい。そうだな……エンジュールかバッハリアにでもいってみたらどうだ」
「エンジュール……?」
「我が国最大の温泉地なのだ。規模としてはバッハリアのほうが上だが、おすすめはエンジュールだ。エンジュールはセツナの領地だからな。おまえのような立場のものでも、気安く行けるだろう」
レオンガンドが誇らしげにいうと、リノンクレアがくすりとした。
「兄上」
「なんだ?」
「相変わらず、お優しいのですね」
「……優しいだけでは、国王は務まらんがな」
そして、優しいだけの人間というわけでもない。
「いいではありませんか。優しいだけの国王がいても」
リノンクレアが、微笑みを浮かべてきた。
「わたくしは、そういう兄上が好きですよ」
彼女の肯定的な言葉には、様々な想いが含まれている気がして、レオンガンドは、なにも言い返せなかった。
リノンクレアにとってのレオンガンドとは、どのような男なのか。
そんなことを考えさせられた。