第千五百三話 神々の座へ(三)
ワーグラーン大陸に関する疑問。
その疑問を解決するには、どうすればいいのか、彼は考えに考え抜いた。ただひとり、神子の座において、考え続けた。思考すること、それ自体に問題がある。思考は、いまや神に筒抜けだからだ。その想いが強くなれば強くなるほど、神に伝わる。
クオンは神子となったのだ。
ヴァーラと合一したことで、ヴァーラの魂に刻まれた役割も引き継がなければならなかった。ヴァーラは、クオンに意識を譲ってくれたのだ。彼の役割を引き継ぐくらい、なんてことはなかった。
ヴァーラの意識は、クオンの中に溶けて消えてしまった。クオンの意識だけが融合した肉体の中にあるのだ。それもこれも、ヴァーラがそのようにしてくれたからだ。もし、ヴァーラが自分を優先する人間であれば、この肉体に残っていたのはヴァーラの意識かもしれない。
そうなったとしても、現状に大きな変化はあるまい。
ヴァーラもまた、クオンと同じように行動しただろう。
クオンの記憶、立場を引き継いだヴァーラは、クオンと同じように《白き盾》の元幹部たちを寓し、側に置いたに違いない。クオンとヴァーラの違いなど、だれにわかるわけもない。同じ魂、同じ肉体、同じような思考法を持つ、同一存在だったのだ。彼がクオンを演じれば、だれもが騙されただろう。イリスたちなどは喜んで騙されてくれたかもしれない。
きっと彼女たちは、クオンがこの世から消滅したことを受け入れようとはしないのだ。たとえ些細な違和感があったとしても、ヴァーラ・クオンをクオンとして受け入れるよう、努力したにちがいなかった。特にイリスなどは、クオンなくして生きていけるような精神状態ではない。
だから、ヴァーラはクオンに意識を譲ってくれたのかもしれない。
もちろん、ヴァーラが疲れ切っていたというのも、大きい。
神子は、十中八九、早逝するという。
二十代半ばまで生きられれば御の字といわれるほど、神子の命は短い。
それほどまでに神子の役割というのは負担が大きいのだ。
神子は、ヴァシュタラ神と人間の間を取り持つ存在だ。ヴァシュタラの意向を教主に伝えるのがその役割の大半なのだが、そのためには神との交信をなさねばならず、神との交信とは、精神を擦り減らす行為そのものなのだ。精神だけではない。命を削り取っているといっても過言ではなかった。そんなことを度々続けるのだ。
命が擦り切れ、若くして死を迎える神子が続出するのは道理といってよかった。
だからこそ神は、神子のある程度の自由を許しているという面がある。
神は、人間との間を取り持つ神子の存在があってこそ、自身がひとびとに崇められているということを理解しているのだ。
ヴァーラは、クオンに出逢うまで、散々ヴァシュタラと交信し、精神を擦り減らしてきていた。合一のころには、もはや限界寸前といったところであり、だからこそ彼は合一を急いだのだ。合一前に命を落としては、クオンに想いを託すこともできなくなってしまう。そして、合一とともに意識をクオンに移譲したのは、これ以上、神のために自分を失いたくないという彼なりの想いもあった。
神は、神子の精神を覗き見ることができる。そのたび、神子は精神を削り取られるも同然であり、つまり神子が早逝するのは、神が神子を道具のように扱っているからでもあるということだ。
そして、ヴァーラがクオンとの合一を急いだのは、クオンならば神の視線を遮断することができるということが判明したからでもあった。
白き盾シールドオブメサイアは、神の視線をも遮断した。
シールドオブメサイアを持つクオンならば、精神を擦り減らし、命を落とす前に目的を果たすことができるかもしれない。
そういったヴァーラの想いは、合一とともにクオンの魂に刻まれた。
クオンは、考え事をするとき、シールドオブメサイアを召喚した。シールドオブメサイアの能力によって己の精神を守り、神の視線から逃れたのだ。ヴァシュタラは、交信のたびにそのことを疑問とするが、そのたびにクオンは武装召喚術の修行だといって言い逃れている。武装召喚術の修行を怠れば、途端にその力を発揮しなくなるのは事実だ。日々、鍛錬を怠ってはならない。さらなる力を引き出そうと思うのであれば、なおさらだ。嘘ではないのだ。
ただ、修行の傍らで考え事をしている、というだけのことだ。
クオンの中で結論が出たのは、つい最近のことだった。
もっとも悩んだのは、イリスたちを巻き込むかどうかについて、だ。
ひとりでやるべきではないのか。
彼らを巻き込むべきではないのではないか。
散々悩み抜いた末、彼らとともに歩むことに決めた。
今日まで彼らとともに歩んできたのだ。ここで彼らを置いて、ひとりで行動することはない。それは、彼らへの明確な裏切り行為だ。
彼らは、クオンとともにあろうとしてくれている。これまでも、そしてこれからも、クオンとともに行動してくれるだろうし、クオンとともにあることこそがすべてであるかのように想ってくれているのだ。そんな彼らの想いを無碍にするわけにはいかなかった。
もし、彼らの身に危険が及ぶようなことがあれば、そのときはクオンが守ればいい。それだけのことだ。クオンには無敵の盾がある。これまでもそうだった。シールドオブメサイアがあるかぎり、彼らを失うことはない。
やがて、教会本部からヴァシュタリア大神殿へ至る。
大神殿は、その名の通り、神が祀られた建物であり、レイディオン最大の建造物だった。
神子クオン・ヴァーラ=カミヤが神殿騎士団幹部を連れて大神殿を訪れたことに、大神殿の守護者たる神殿騎士団員たちは驚くこともなかった。神殿騎士団員たちにしてみれば、つい先日まで自分たちの組織の頂点に立っていた人物が神子になったことのほうが不思議だっただろう。
クオンとヴァーラの合一は、教会によって神が起こした奇跡として喧伝されており、そのことを知らない信徒は少なくともこのレイディオンにはいない。クオンがヴァーラの名を取り、クオン・ヴァーラ=カミヤと名乗り始めたということも、いまや知らぬものはいない。
ちなみに神子となったクオンに代わり、神殿騎士団長を務めているのはなにを隠そうスウィール=ラナガウディであり、彼は今回同行させてはいなかった。年齢のこともある。
スウィールは、老齢でありながらこれまでクオンに尽くしてくれた。彼無くしては《白き盾》は存在しなかっただろうし、彼がいたからこそクオンはこれまでやってこられたのだ。彼には感謝しているし、これからも感謝し続けるだろう。だからこそ、今回の道行きには連れてこなかった。スウィールには、これ以上の苦労をさせたくないという想いが強い。
それにはウォルドたちも同意してくれていた。
大神殿は、至高神ヴァシュタラを祭り給うた場所であるとともに、神子の居所でもある。
神子クオン・ヴァーラ=カミヤの居所も大神殿の中にあり、クオンは普段、この神聖な空気の漂う巨大な建造物の中で過ごしている。神との交信も、教主との対話、指導も大神殿で行われるのだ。普通、神子が大神殿を出ることはない。
神子は、普通、死ぬまで大神殿で過ごすものだ。神子として選定されたのだ。神の聲に耳を傾けることに生涯を捧げなければならない。それがヴァシュタリア信徒として当然の義務であり、疑問を抱くものなどひとりとしていなかった。神子に選ばれることは幸運であり、祝福され、賛美されるほどのものだ。神のため、教会のために人生を捧げることこと至福であると考えるのは、信徒として当たり前のことだろう。
歴史上、大神殿を自由に出入りしている神子など、クオンくらいのものだった。
クオンは、生粋のヴァシュタリア信徒ではないからこそ、そのような真似ができる。身も心もヴァシュタリア信徒であれば、ヴァーラのように大神殿から一歩も出ず、神子としての役割を果たそうとしただろう。事実、ヴァーラの想いはそうだったし、そうしたい部分も大いにあった。しかし、クオンとしての意識、想いが彼を自由にさせた。神子として振る舞いながらも、クオンという人間としても振る舞い続けた。そうしなければならなかった。
そうすることでしか、クオンという自分を保つ方法がなかったのだ。
そうやって神に抗わなければすぐにでも自分を見失うのではないかという恐怖が、彼の中に生まれていた。
ヴァシュタラの力は、それほどまでに絶大だ。
大神殿の奥へ。
だれの制止も受けず、ただひたすら奥へと進んでいく。
クオンは、とっくにシールドオブメサイアを召喚している。シールドオブメサイアの能力によって、自分を保護しなければ神威によって胸中を覗き見られることになるからだ。さらに同行者たちの精神も守っていた。もしかすると、彼らの心まで覗き見られるかもしれない。
肉体を持たざる神は、波長の合うものとしか話し合えないという。
しかしそれが本当のことなのか、判断のしようもないのだ。ヴァシュタラがそういっているだけのことかもしれない。
神の力は偉大だ。
レイディオンを極寒の地にありながら常春の楽園へと変え、維持し続けていた。それだけでも凄まじいというほかないのに、レイディオンだけではなく、ヴァシュタリア共同体内の大都市の多くは、神の加護によりそれぞれに恩恵を受けていた。ヴァシュタリア共同体が一大勢力をなすのも、当然といってよかった。
そんな神の力が神子以外の人間に及ばないとは言い切れないのだ。
だからこそクオンは彼らを連れて行くか散々悩んでいた。悩み抜いた末、自分で守ればいいという結論に至っている。
やがて、大神殿最奥、神子の間に辿り着く。
クオンが普段、神子として起居している部屋は、神子が健やかに日々を過ごすためだけの部屋であり、天蓋付きの寝台や調度品の数々が取り揃えられている。
神聖不可侵。教主ですら立ち入ることが許されない領域であり、本来ならば神殿騎士団幹部など目にすることもない部屋だった。
クオンが大神殿を抜け出さなければならないのは、そういう理由もある。
イリスたち、《白き盾》時代の仲間と触れ合うには、大神殿を抜け出さなければどうしようもないのだ。
「ここが神子の間。ぼくは普段、ここで起居しているんだ」
「ここで……か。居心地は悪くなさそうだ」
「神子様ですもの」
マナがイリスに笑いかける。神子は、教会にとって必要不可欠な存在だ。神子がいなければ神の声を知ることなどできないのだ。神子が住みやすい環境を作るのは、教会としては当然のことだと彼女はいいたいのだろう。実際、神子の間の様相は、神子によって大きく変わる。女性の神子ならば女性らしい部屋になるし、男性の神子であっても趣味によって様変わりする。教会は、神子の意向に従って模様替えを行うのだ。
クオンは、なにも指示していない。ヴァーラの趣味は、クオンの感性によくあった。同一存在なのだ。感性は完璧に近く合っている。
「それで、こんなところにきて、どうするんです?」
「実は、ここからさらに奥があるんだ」
「奥?」
疑問を背に受けながら、クオンは神子の間の奥へ進んだ。奥の壁には、書棚が並び、無数の書物が収まっている。書物はヴァーラが用意させたものであり、クオンは、彼と合一を果たしたおかげでほとんどすべての内容が頭の中に入っていた。つまり、ヴァーラがそれらを読破しているということだ。
クオンは三つ並んだ書棚のうち、真ん中の書棚の前に立つと、中段中央の二冊を手に取った。ウォルドに手渡し、書物が抜けたことで生まれた空洞の中に手を突っ込む。すると、指先が硬質ななにかに触れた。ただそれだけのことで、クオンは手を引き抜くと、反応を待った。
「なんなんです?」
「まあ、見ていよう」
クオンは、ウォルドから本を受け取りながら、いった。そうする間にも、書棚に異変が生じていた。書棚が淡い光に包まれたかと思うと、クオンたちの眼前から消失し、書棚の後ろにあった通路が明らかになる。ふたつの書棚の間にあった通路は、ひたすら奥へ向かって続いているようだった。
「消えた?」
「ほほう……面白い仕掛けよな」
「仕掛けっていうか……」
「奇跡?」
「魔法?」
「なんにしても、ただごとではなさそうですな」
グラハムが仲間たちの話をまとめる傍らで、クオンは目の前に現れた通路に意識を集中させていた。
「ああ……」
クオンは、記憶の中にある通りの出来事が起きたことで、自分の中のヴァーラの記憶が正しいことを理解した。合一によって生じた記憶の齟齬でも、ヴァーラの妄想でもなんでもない。ただの事実。事実としての記憶。ヴァーラは何度となくこの書棚の仕掛けを起動させ、通路の奥へ進もうと試みている。
「神子にしか立ち入ることの許されない領域が、この先に続いている。いや、正確には、神子にしか知らされていない、というべきか」
大神殿を建造したのは、人間だ。ヴァシュタリアの信徒たちによって何百年もの昔に建造され、改修や改築を繰り返しながら現在へと至っている。その最初の改修が行われたのは、建造直後のことであり、おそらくそのとき、神子の間にこの通路が作られたのだろう。
神の御業によって。
「それは神子にとっても禁忌とされている。ヴァーラですら、奥へは行かなかった。行けなかったんだ」
ヴァーラの記憶では、通路の途中まで踏み込んではいた。しかし、彼は最奥へ行くことはできなかった。彼を支配するものによって止められたからだ。神の聲には従わなければならない。神は、ある程度の自由を神子に許しているが、だからといってあらゆる行動を許容してくれるわけではないのだ。
神が作り給うたこの通路の先になにがあるのか、歴代の神子のだれひとりとして知ることができなかったのは、そういう理由からだ。ならばなぜ、神はそのような通路を神子の間に作ったのか。
きっとなにかしら意味があるのだろう。
神には神の考えがあり、それはただの仲介者に過ぎない神子にわかるはずもない。わからなくていいことなのだ。神子は、神の意思をヴァシュタリアの信徒に伝え、ヴァシュタリアの平穏と安寧に尽力するだけでいい。それ以上のことはなにもしなくていい。神子は、教会にとっての象徴であればいいのだ。
だが、ヴァーラは、それだけではだめだと考えていた。
彼は、夢を視た。
彼の夢において、この世界は破滅的な危機に曝され、ついには破局を迎えた。
神子は、予知夢を視るという。
神意の影響によって、未来を夢に視るというのだ。
ヴァーラは、己が視た夢の破局が現実に起こりうる可能性を考え、そのためにもなにかできないかと苦慮した。ヴァシュタラは、彼の問いには答えない。彼が破滅的な未来を夢に視たと声を荒げても、神は沈黙し続けていた。
実力行使に出るしかない。
ヴァーラは考え、そのためにもクオンとの合一を望んだ。
「ヴァーラ様でさえ行けなかったのに、クオン様ならば、行けるというのですか?」
「ぼくにはこれがある」
クオンは、抱え持ったシールドオブメサイアを示した。
真円を描く純白の盾は、絶対無敵の守護領域を形成する能力を持つ。その力は、神にも及び、神の視線を断ち切ることに成功した。それによって、クオンはヴァーラとじっくりと話し合う機会が持てたのであり、合一にも邪魔が入らなかった。
ヴァシュタラは、ヴァーラとクオンの合一を望んではいなかったのだ。
異世界から召喚されたクオンは、この世界において異物に過ぎない。神にとっても異物は異物なのだ。ヴァーラという純粋な存在に不純物が混ざることをヴァシュタラは極端に嫌った。もしクオンがシールドオブメサイアを使えなければ、ヴァーラとの合一は果たせなかっただろう。神が実力行使したはずだ。それほどまでにヴァシュタラはクオンとヴァーラの合一に否定的だった。
だが、ヴァーラはクオンとの合一を果たし、その上で意識をクオンに差し出した。
クオン・ヴァーラ=カミヤとなった彼は、神子というヴァシュタラと人間の仲介者の役割を引き継ぎ、ヴァシュタラの聲を聞いた。
ヴァシュタラは、やはり合一に不快感を示していたが、起きてしまったことは仕方がないと諦めてもいた。クオンがこれまで通り、神子として振る舞うのであればなんの問題もない。ヴァシュタラはそうも考えたに違いない。
「確かに、それがあれば我らは無敵ですな」
「ああ、間違いないな」
「頼もしい男よ」
「まったくです」
「では、行きましょうか、クオン様」
「……ああ」
クオンは、一瞬、彼らをここに置いていくべきではないかと迷ったが、やめた。彼らをここまで連れてきたのに、いまさら置いていくというのは、彼らの信頼を踏み躙る愚行に過ぎない。彼らは、クオンとともにあろうとしてくれている。クオンと一緒ならば、その道行きがたとえ地獄につながっていたとしても喜んでついてきてくれるようなものばかりだ。ここで彼らを置いていくことのほうが、彼らにとっては辛いことになるだろう。
たとえこの通路の先になにが待ち受けていても、だ。
クオンは、どこまでも続く通路の暗闇へと足を踏み入れた。