第千五百二話 神々の座へ(二)
「不思議なこと?」
イリスが、それこそ不思議そうな口調でいった。
ウォルド=マスティア、マナ=エリクシア、イリス、グラハム、ミルレーナら《白き盾》の幹部たちは、クオンが神殿騎士団長に抜擢されたとき、同時に神殿騎士団幹部に抜擢されており、現在も神殿騎士団幹部として活動していた。イリスもウォルドも最初の頃はその堅苦しさがたまらなくつらかったようだが、いまでは神殿騎士としての立ち居振る舞いにも慣れ、レイディオンでの生活にもなんの不満もないというまでになっているという。
《白き盾》は、クオンとヴァーラの意向によって、神殿騎士団に吸収されたのだ。そのことからもわかる通り、神殿騎士団を始めとする教会の騎士団への参加資格はだれもが持っており、血筋や出自などまったく考慮されなかった。教会という組織が血縁に拘りを持っていないことが大きい。現在の神子も教主もこれまでの神子や教主となんの繋がりもない。エクスメリア三世も、歴史上、共同体を上手く運営してきた教主の名にあやかってそう名乗っているだけであり、エクスメリア二世、初代エクスメリアとの繋がりはなにもなかった。
大事なのは、ただ受け継がれる血よりも、ヴァシュタラへの信仰心だ。
とはいえ、《白き盾》の団員が全員、ヴァシュタラを深く信仰していたかといえばそうではないし、イリスなどはいまでもヴァシュタラを信じてはいない。それでも《白き盾》を神殿騎士団と合流させる必要がヴァーラにはあり、彼は神の威光によって教主にその意思を飲ませた。
以来、《白き盾》は神殿騎士団そのものとなり、全団員が神殿騎士としてヴァシュタリアでの日々を送るようになった。全団員、ひとり残すところなく、神殿騎士団への編入と立場の激変を受け入れたのだ。それもそうだろう。ヴァシュタリアの極寒を歩き抜いてここまできたのだ。ヴァシュタラを信仰していないからといって、いまさらクオンの元を離れることなどできるわけもない。
ここはレイディオン。
大陸最北部の都市であり、極寒の地なのだ。
数十人が無策で歩き回れるほど生易しい地域ではない。
たとえ、神殿騎士になることが嫌でも、受け入れるしかないのだ。
クオンは、団員たちにそのような変化を強いなければならなかったことを苦しんだが、目的のためならば仕方のないことだとも思えた。この苦痛を耐え抜いた先に輝ける未来があるのであれば、耐え抜く以外の道はない。それに、神殿騎士という地位ともなれば、生活そのものが苦しくなることは絶対にないのだ。収入は安定し、教会・共同体内での立場も保証されている。傭兵集団《白き盾》の一団員でいるよりもずっと安定した生活が送れるはずであり、実際その通りだった。当初難色を示していた団員たちも、一月もすれば神殿騎士団の職務にもなれ、生活も安定しているということもあり、明るい表情を見せるようになった。そのことでクオンは少しばかり報われた。
《白き盾》時代よりもいまのほうがいいというものも、少なくはない。
《白き盾》は、傭兵集団なのだ。生活費を稼ぐために戦場を求めて東奔西走しなければならなかったし、クオンが皇魔撲滅を理念として掲げ、そのための費用は《白き盾》持ちであったこともあり、生活が安定しないことはしばしばだった。それでもクオンについてきたのは、クオンとともにいれば夢を叶えることができるに違いないという確信が団員たちの中にあったからであり、クオンはそういう想いを無意識に利用してきたのだ。
神殿騎士になることが夢だったわけではないだろうが、神殿騎士という地位につき、地上の楽園とでもいうべきレイディオンで安寧に満ちた生活を送れるのは、夢の様なものかもしれない。少なくとも、《白き盾》のままではこのような生活は送れなかったに違いないのだ。中でも、ヴァシュタリア信徒だった団員たちは、毎日のようにクオンへの感謝の言葉を述べてきたものだった。
それはともかく。
神殿騎士団幹部としての日々を送っていたイリスたちはいま、さらなる立場の変化の中にいた。
クオンが神子ヴァーラと合一を果たしたことで、ただの神殿騎士団幹部ではなくなったのだ。
神子クオン・ヴァーラ=カミヤは、神殿騎士団幹部を神子の近衛として運用することを教主に願い出て、了解を得ている。教主は、神子の意向には逆らえない。たとえそれが神の意向とは異なるものであったとしても、彼にはわからないからだ。
神は、神子にしか言葉を伝えることができない。
神子は、神と人間の間を取り持つものだ。歴史上、自分の考えを神の意向として教主に伝えた神子は、何人もいる。そのたびに神ヴァシュタラは苦笑をもって神子の行動を容認してきたという。ヴァシュタラにとって神子は人間との間を取り持つ重要な存在であり、ある程度の自由は許さなければならないと考えているのかもしれない。
故に、クオン・ヴァーラ=カミヤの勝手な行動もある程度容認されており、いま、教会本部を堂々と歩いているのもそれだった。
クオンは、ある目的のためにイリスたちを連れ、教会本部から大神殿に向かっていた。
「この地はなぜ、突如として極寒の地獄と化したのか。極寒の地獄と化した地で、なぜ、神は降臨なされ、神子をお遣わしになったのか。なぜ――」
その疑問は、この大陸そのものに波及するものだ。
大陸。
ワーグラーン大陸という。
ワーグラーンは竜言語でひとつの大地という意味を持つ。ワーがひとつ、グラーンが大地という意味らしい。
ひとつの大地。
その言葉が意味するところについては、彼は、神子ヴァーラとの合一を果たし、神の視線を持つことでようやく理解できた。
言葉通りの意味なのだ。
イルス・ヴァレと呼ばれる世界――いや、イルス・ヴァレと呼ばれる惑星における唯一の大地、それがワーグラーン大陸だった。イルス・ヴァレのワーグラーン大陸以外の部分はすべて海で覆われており、まさにたったひとつの大地という言葉に相応しかった。ほかに大陸もなければ、小さな島も見当たらない。ワーグラーン大陸は広大とはいえ、ただひとつ、大いなる海に浮かぶ孤島のようであり、そのことに不可思議さを覚えずにはいられなかった。
もちろん、地球とは異なる星だ。
大陸がひとつしかなかったしても不思議ではないはずなのだ。それがこの世界の常識ならば。それがこの世界の有り様ならば、当然と受け入れるべきことだ。
だが、彼は奇妙なものを感じずにはいられなかった。
不自然に思えた。
たったひとつの大地と惑星の大半を埋め尽くす蒼茫の海原。このワーグラーン以外の大地が海に沈んでしまったのかと考えたりしたものの、そうでもなさそうだった。ワーグラーン以外の大地が懐中に没したのであれば、海底にその名残が見えるはずだ。
それもなかった。
ただ、茫漠たる海が広がっているのみであり、ほかに大地があったという様子はどこにも見当たらなかった。
ワーグラーンの大地だけがこのイルス・ヴァレに存在している。
そのことが実に奇妙に見えて仕方がないのだ。
もっとも、それは神の視線を通して視た世界であり、実際の世界とは細部が異なるかもしれず、ただの勘違いで終わる可能性もある。神は絶大な力を有しているが万能ではない。全知全能ではないのだ。全知全能の存在であれば、神子を遣う必要など生まれるはずもない。
「それこそ神様の御心ゆえ、わらわのような凡人にはわからぬことよな」
ミルレーナが扇子を開き、口元を隠すようにして、いった。ジュワインの元王女の発言に、ウォルドが目を細める。
「姫様が凡人、ねえ」
「神様の前では、王家の血筋など凡人そのものじゃ」
「それもそうか」
「うむ。これでわらわとそなたらは同じ。嬉しいことよな」
「……ま、姫様がそういうなら、それでいいが」
ウォルドは、ミルレーナの心底嬉しそうな笑顔に毒気を抜かれたような顔をした。ミルレーナは、神殿騎士団幹部となってからというもの、笑顔になっていることが多かった。元王女であり、気を使われることが多かった彼女は、ほかの《白き盾》幹部と同列になれたことが嬉しかったらしい。《白き盾》幹部のままであれば、同列に扱われることのほうが難しい。
「確かにクオン様の仰る通り、不思議では、あるんだよなあ」
「そうか? わたしにはなにが不思議なのかまったくわからん」
イリスが憮然とすると、グラハムが口を開いた。
「レイディオン一帯はかつて温暖な地域だったのだよ」
「……それは聞いた」
「それが突如として氷に閉ざされ、多くの生き物が死に絶えた。人間もその限りではなかったが、そこへヴァシュタラ神が神子をお遣わしになされた。クオン様はそのことを不思議がられている」
「それも聞いた」
イリスが難しい顔でグラハムを睨んだ。
「それのどこに疑問を持つのかがわからん。その程度のこと、この世のどこにでもあることだろう」
「それもそうですね」
マナがイリスの意見を肯定したのも、わからないではなかった。
イリスの言うとおりでもあった。
この世には、その程度の神秘など、掃いて捨てるほどあった。
大陸小国家群には無数の国が存在するが、それらの多くには建国に関する神話や伝承がある。ガンディアにおける銀獅子レイオーンの存在や、ザルワーンにおける五首の竜の存在、マルディアの神授の聖石などもそれに当たるだろう。それら神話や伝承に謳われる事柄の数々は、レイディオン近辺に纏わる神秘的な出来事の如くであり、レイディオン一帯の不思議を言及するのであれば、それらの事柄も言及するべきだと、イリスはいいたいのだ。
「そう。この世のどこにでもあることなんだ」
クオンは、イリスの意見を肯定しながら、声を潜めた。
「このワーグラーンの大地のどこにでも、ね」
クオンは、ワーグラーン大陸そのものに疑問を抱いているのだ。