第十四話 大いなる誓い
黎明。
空はまだ薄暗く、気温は極めて低いように感じられた。風はない。まるで、嵐の前のような静けさが、夜明け前の街を包み込んでいる。
街、といえるのかどうか。
それはまさに廃墟という言葉が相応しい光景だった。
焼き尽くされた建物の数々は今にも倒壊しそうな危なっかしい姿を曝しているか、崩れ落ち、かつての面影すらも失っているかのどちらかしかなかった。軽く焦げた程度の半端なものは見当たらない。
なにもかもが、焼き尽くされた。
たったひとりの狂気によって。
セツナは、カランの街の大通りに、たったひとりで立ち尽くしていた。言葉などあろうはずがない。風さえも吹かない薄明の通りで、ただ呆然と、現実を受け止めるしかなかった。
セツナが意識を取り戻してから、数日が過ぎた。ファリア=ベルファリアの事情聴取から。エリナとの再会から。
全身の筋肉痛は、わずかながらも癒え、普通に歩いたり動いたりするくらいでは激痛が生じるようなこともなくなっていた。それは彼にとっては心から喜ぶべきことであり、歓喜にむせび泣くほどの出来事だった。もちろん、現実に号泣したりはしないのだが。
それはそれとして、セツナの身体を焼き尽くしたはずの炎の痕が、綺麗さっぱり消えていたのは、他ならぬファリアのおかげだった。
彼女の召喚武装の力によって、セツナ自身の自然治癒力を飛躍的に向上させることで、大火傷をほぼ完治させたのだという。それならば、全身の筋肉痛もなくなっていていいようなものの、物事はそこまでうまくいかないらしい。
ほかにもなにかいろいろと言っていたような気がするものの、怒涛のような質問攻撃が、セツナの頭の中をこんがらがらせてしまったのだ。彼女の言葉など、ほとんど記憶に残っていない。
それは重要なことではないからだ、とひとり勝手に納得して、セツナは、この数日を過ごしていた。
病室代わりのテントの中で動くこともままならない日々は、セツナにとって退屈極まりないものではあったが、しかし、この異世界の毎日が現実なのだということを改めて確認するという上では重要な数日だった。
寝ても覚めても変わらない景色が、冷ややかに告げるのだ。
これが現世だ、と。
異世界などといっている場合ではないのだ。すべて現実であり、アズマリアによる召喚も、皇魔との戦いも、武装召喚も、カランの大火も、あの男も、全部が全部、セツナ自身が経験した出来事なのだ。
覚悟を決めろ、ということだろう。
(覚悟……か)
セツナは、人気のない大通りの広くも寂しい空間を歩いていた。セツナが過ごしたテントは、カランの南側にある。そこはテントによる仮説住宅街となっており、先の大火によって焼け出された人々や、家を失い、住む場所を失った人々が、テント住まいを強いられていた。
セツナのテントが、病室代わりというのは建前であるらしい。ランス=ビレインを倒すという快挙を果たしたセツナをそっとしておこうという、警備隊とファリアの計らいによるものだとか。
確かに、全身筋肉痛の状態で、たくさんの人間に出入りされても迷惑極まりないし、そもそも、セツナはカランの住人ではない。知り合いひとりいないのだ。セツナのテントに訪れるような物好きなどいないように思えたが、それをいうとファリアは、「念のため」だといってきたのである。返す言葉はなかった。
とはいえ、静かなのは嫌いではない。むしろ彼女らの計らいに感謝こそすれ、憤るいわれはないのだ。
そして、ついさきほど、テントを抜け出してきたのは、歩行に支障がないことを確認したからであり、ここ数日まともに体を動かしていなかったからだ。このままでは、なまりになまってしまう。
焼け野原と化した一角に急造された仮説住宅街から、北へ。
大通りに辿り着くまでに何度、セツナは立ち止まったのだろう。すべてが黒く焦げ付いた世界で、あざやかな色彩を帯びたものなどひとつとして存在しなかった。呼吸すら忘れて、あの狂人がもたらした破壊の爪痕を、進む。
大火から数日。
カランの街は、現在、復興の目処も立っていない。
大通りを進んでいく。
カランの北と南を貫くメイン・ストリートなのだと、エリナから聞いていた。その中心に慰霊碑があるという。エリナは、毎日そこでお祈りをしてから、セツナのテントに遊びに来るのだそうだ。
慰霊碑。
セツナは、いつの間にかそちらに向かって歩いている自分に気づいた。テントを抜け出した当初は、そんなつもりはなかったのだ。ただ、なまった体を動かして、気分を変えようとしていただけだ。
テントに篭もり続けるなど、気が滅入るだけだ。
カランはかつて、街の外周に強固な城壁に囲まれていた。城壁には城門が必要不可欠である。東西南北の四方に設けられた門は、街の規模からは考えられないほど壮麗にして堅固であり、この国の栄華の象徴として有名だったという。
四方の門から延びた通りは、やがて、街の中心でぶつかることになる。ちょうど、十字を描くように。
カランの十字通り(クロス・ロード)もまた、ガンディア国内では知らないものはいないくらいに著名なのだとか。
それらはファリアの情報であり、彼女もまた、たびたびセツナのテントに訪れては、話し相手になってくれていた。ファリアとエリナの存在がなければ、セツナは、ひとり鬱々と日々を過ごしたかもしれない。
そのクロス・ロードの真ん中――つまり、カランの中心に、慰霊碑はあった。いや、それは慰霊碑などというようなものではなかったかもしれない。ただ、なんにせよ、生き残った人々の、死んでしまった人々への哀悼と鎮魂の想いは、強く深く感じられた。
「……」
セツナは、声を発することもできなかった。たったの一言すら、憚られた。どのような想いも、それの目の前で吐いていいようなものではない、そんな確信さえ覚えた。
それは、ただの石だった。拳大の石ころ。どこから拾ってきたとも知れない石ころが、通りの交差点に何百、何千と積み上げられていたのだ。焦土の如き町並みに突如として表れる石ころの山は、ただそれだけで異様であり、奇妙な光景だった。
しかし、その石ころのひとつひとつに込められた人々の想いが、その石の山をどこか神聖なものにしているように見えた。
見ているだけでセツナの心が震えてくるのは、きっと、なにもできなかったという想いが未だに心の奥底で燻っているからだろう。火が点けば、瞬く間に身も心も焼き尽くししまうかもしれない。自責の念、なのだろうが。
「ひとりの少女が、亡くなった父親の名を刻んだ石を置いたことが、始まりだったらしい」
不意に聞こえてきた若い男の声に、セツナは、そっとそちらに目を向けた。慰霊碑の手前、仰々しく反応するような気分にはなれなかった。
「名を刻んだだけの石ころなんて、だれも見向きもしないはずだった。君だってそうだろう? 街の大通りの真ん中に石ころひとつ落ちていたとして、誰が気に留める?」
多分に冷気を含んだ声音は、なんとも言いようのない香気を放ち、耳を傾けるものにある種の快感を与える。それは、同性であるはずのセツナであっても同様だった。
耳朶に疼く快さに、セツナは、軽い困惑を覚えていた。男の声に聞き惚れるなど、そうそうあることではない。美声、とは違う。声そのものよりも、声を発している人物の持つ魅力のようなものなのかもしれない。
「だが、それは現実に起こったことだよ。だれかが、少女の石ころの隣に石を置いたんだ。少女の真似をして、ね」
彼は、セツナのすぐ右隣に立っていた。セツナが慰霊碑に気を取られている間に近づいてきたのだろう。とはいえ、セツナに用事があるわけでもなさそうだった。語りかけてきたのは、ただの暇潰しに違いない。
そんな直感とともに、セツナは、彼の容貌に目を見開いた。
「そして、それはすぐさまカラン中に広まった。なぜかはわからない。だれかの話では、生き残ったひとたちが、亡くなった人々への惜別と哀悼を示す手段を欲していたということなんだけど、俺は違うように想う。うまくは言えないけどね」
美しい青年だった。同性のセツナがはっとするほどに整った容姿は、間違いなく天からの授かりものであり、そこらの宝石などより価値があるだろう。黄金に輝く頭髪、透けるように白い肌を持ち、やや鋭角的な双眸は、深い睫で縁取られ、碧玉の如き瞳が浮かんでいた。
美貌、だろう。だれが彼と対面したとしても、それ以外にその容貌を評する言葉を持たないだろう。美醜の判定基準が決定的に異なるのなら、話は別だが。それは例外に過ぎない。
セツナは、彼の美貌からすぐさま目を逸らすと、慰霊碑に再び注目した。圧倒的な敗北感の中で、しかし、そんなことは慣れっこなのだと己を慰めるしかないことにも、愕然とする。
そう、慣れていた。
セツナは、彼のような美貌の男の存在を知っていた。そして、何度とない敗北が、セツナの中で、人間とは容姿ではないのだと確信させるに至った。無論、自分自身の容姿を卑下することはない。格付けすると、中の上よりは上ではないか、と自負したりもするくらいには自信もあるのだ。
故に、物凄まじい美男子に遭遇するたび、思い知るのだ。
上には上がいる、と。
彼らとは住むべき世界が違うのだ、と。
だが、それは絶望ではない。希望でもなかったが。
「ともかく、ひとりの少女から始まった石積みの話は、いまやカランのみならず、クレブールやメレル、マルダールに及び、王都ガンディオンにまで届いているよ」
ふと、セツナが彼に目を向けると、青年の手にもまた、小さな石ころが握られていた。彼は、最後に挙げただけあって王都から来たのだろう。王都からカランまでどれほどの距離があるのかはわからないが、それにしても物好きではある。
もちろん、セツナは、彼の気持ちを馬鹿にするつもりはない。むしろ、尊敬すら覚えていた。遥か王都から、石ころを積むためだけにカランへとやってきたのだ。そんなこと、そう簡単にできるものではない。
よく見ると、彼の身に纏う質の良さそうな衣服は、旅塵に汚れていた。
青年が、石の山に近づいた。手にした小石を、石の山の中ほどに置く。つぶやくような、それでいて厳然とした声が、セツナの耳にまで届いた。
「ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアは、あなたがたの冥福を祈り、カランの復興、およびガンディアの再興を、ここに誓います」
夜明けの曙光に包まれたその光景は、まるで一枚の宗教画のように神秘的かつ荘厳だった。
セツナは、驚愕することも忘れて、ただ、その幻想的な情景を網膜に焼き付けるように見入っていた。
それが、セツナとレオンガンドの出逢いであり、新たなる始まりであった。