第千四百八十七話 夢の続き(三)
目が、闇に慣れてきた。
すると、彼は自分がどのような場所にいるのかがわかってきたような気がした。
ジゼルコートは、たったひとり、闇の下に立っている。足場は不安定だったが、よくよく見てみると、なぜ不安定なのかは一目瞭然だった。山のように積み上がった人骨や獣骨の上に立っているからにほかならない。人間の頭部、手足と思わしき骨や馬のものと思しき骨、またよくもわからない奇妙な形状をした骨などが幾層にも積み重なっている。
その上を、彼は、たったひとり立ち尽くしていた。
無数の骨の山。それも彼の足元だけではない。狭い視界ではあるが、見える範囲すべてが骨で埋め尽くされているようだった。地面などみえるわけもなく、足の踏み場もないとはまさにこのことだった。このような光景、彼は生まれてこの方一度たりとも見たことはなかった。彼だけではないだろう。だれであれ、無数の骨が織りなす山脈のような景色を見たことなどあるまい。
あっていいわけもない。
戦争は、無情だ。
ときに数多の死者を生み出す。
死を生むという皮肉めいた現象こそ、大陸小国家群を数百年に渡って苛んできた病であり、戦国乱世という日常だった。しかし、ひとつの戦争でどれだけの戦死者が出たとしても、これだけ多くの死者が骨となるまで放置されることなどありうるはずもなかった。敵も味方も適切に処理されるのが普通だ。たとえ敵であったとしても、亡骸をそのまま放置するようなことはあるべきではない。
そういう意味からでも、ここは戦場の類などではなかった。
何千、いや何万という数の骨だけの死体が山脈をなすなど、有り得る話ではない。
ガンディアの英雄は、たったひとりで一万を超える皇魔を殺したという話だが、それにしたってこのようなおぞましい光景を作り出すには至るまい。
また、むせ返るような血のにおいもなければ、屍が発する悪臭で立ち込めているわけでもなかった。肉がなくなり、骨だけの存在と成り果ててどれほどの時が流れたのか。もはやにおいさえ発することもなくなり、生きていたことさえ忘れたただの物体が山を為し、地獄のような光景を成しているだけにすぎない。
「地獄……か」
思いついた言葉を発して、彼は、はたと得心した。地獄。そう、地獄なのかもしれない。それならば納得がいく。レオンガンドの刃が首を裂く瞬間の感触を覚えているのだ。生きているわけがない。もし仮にレオンガンドに殺されたことがただの夢だったのだとしても、目が醒めた瞬間にわけもわからぬ場所に放り出されることなど考えられるはずもない。
それならば、ここが地獄だということのほうが何倍も納得がいった。
もちろん、理解できないことも多い。
そもそも、人間に魂とでもいうようなものがあり、死後、肉体を離れ、天国か地獄のいずれかに向かうという考え方そのものに疑問を抱いていたのがジゼルコートだ。善人の魂は天国に行き、神に祝福されるといい、悪人の魂は地獄に落ち、責め苦を受けるという。それらは、現世にあるうちに悪事を働かないようにするための教訓のようなものであり、道徳であり、方便であるはずだった。ジゼルコートのような立場の人間から見れば、この世に天国に行けるような善人など一握りもいないことくらいわかる。
こうして、死後の世界を目の当たりにしたいまでさえ、信じられない気持ちでいっぱいだった。だが、現実は現実として受け入れるしかない。
ここが地獄のような世界であり、死んだはずの自分が意識を持ち、動くことができるというのであれば、また歩きだすよりほかはないのだ。
ようやく、すべてが終わった矢先だった。
彼は、心の底からため息を浮かべると、足がまったく重くもないことに驚きを覚えつつ、骨の山を降りていった。
骨の山を降りきっても、平坦な道などはなかった。どこもかしこも起伏に飛んだ地形をしており、その起伏を作り出しているのは無数の骨だ。大半を人骨が占め、そこに馬をはじめとする獣の骨が加わり、奇妙な骨も混じっている。体重を乗せるという意識をせずとも踏み砕いてしまうほどやわなものもあれば、中にはジゼルコートの全体重が乗っても壊れない頑丈な骨もあった。巨大な骨は人間のものとは想えなかった。なにか巨大な生物だったに違いない。
そんなことを考えながら、当て所なく歩いているうちに、彼は、自分が魂だけの存在ではないのではないか、という疑問に至った。まず、足を使って歩いていることに気づき、不思議に想ったのだ。肉体は、現世にあるはずだった。しかも、首を刎ねられ、死んでいる。もし、死んだ際の状況によって死後の世界での姿が変わるというのであれば首が繋がっているのはおかしなことだが、どうやらそれもない。また、老い、決して軽くはなかった体が、全盛期の力を取り戻したかのように疲れを知らなかったこともまた、不思議というほかない。体が軽いのだ。年甲斐にもなく走ってみたりしたが、なんの苦もなく体が動き、感動すら覚えた。
地獄に落とされ、感動するというのはどういうわけか。
自分自身に苦笑しながら、彼は、さらに骨の世界を前に進んだ。歩いても歩いても風景が変わることはない。薄暗い闇に覆われた世界。地面を埋め尽くすのは骨、骨、骨。風もなく、においもない。ただ、時折、なにものかが囁くような声が聞こえた。ジゼルコートが平然と歩き回っていることを驚くような、恐れるような、忌むような、そんな囁きたち。死者の声なのか、どうか。
死者の声だとすれば、なぜ自分には声の主の姿が見えないのか。もしかすると、死者は姿形など持たない霊となり、他者の目には映らないのかもしれない。そして、ジゼルコートもまた、自分の姿を認識しているのは自分だけなのかもしれない。だとすれば、様々な囁きがジゼルコートを見て驚き、慄く理由がわからない。
そうやって様々な疑問を抱きながら骨の道を進んでいるときだった。
「ジゼルコート様……!」
突如として聞き知った声に呼びかけられ、彼は、驚くほかなかった。
声の方に目を向けると、女が駆け寄ってくる姿が見えた。遠目にもよくわかる。見目麗しいルシオン人の女。どこか嬉々とした様子なのが、地獄の風景に似合わない。
「……ソニアか?」
女が目の前に辿り着いてから、問うた。無論、尋ねるまでもない。だが、聞いておかなければならなかった。もしかすると、地獄の亡者が化けているかもしれない。そんなありえないことを後付のように想像する自分の愚かさに、彼は内心、苦笑をもらした。ただ、嬉しいだけなのだ。その嬉しさをごまかすために、そう聞いた。
「はい」
ソニア=レンダールは、ふたりきりのときにだけ見せる極上の笑みを浮かべた。彼女にしかできない、彼女だけの笑顔。ジゼルコートしか知らないであろう、本当の彼女。そんな彼女がなぜ、この地獄にいるのか。答えはひとつしかない。
「……追ってきたか」
「はい」
「まったく、困った娘だ」
ジゼルコートは、そういったものの、実際はまったく困っていなかった。想像通りだった。彼女ならば、そうするだろう。彼女はジゼルコートに依存しすぎていた。そうしなければ生きていくこともできなかったのだから、それが悪いとも思わない。なんであれ生き抜く力を持つことが大事だったのだ。
戦国乱世では、生への執着力がすべてだ。
生への執着を捨てたとき、敗北が始まる。
ジゼルコートの半生がそうであったように。
「……はい」
ソニアは、どこか嬉しそうな表情ですらあった。
「なにも聞かぬ。地獄でも最後まで付き合ってもらおう」
「はい」
なにもいわず、ただ唯々諾々と頷くだけが精一杯という様子だった。彼女にとってこの再会は予期せぬものだったのだ。幸運というほかない。彼女はただ、ジゼルコート亡きあとの世界では生きていけないから死んだのだろうが、まさか、死後、こうして再び逢うことになるとは考えてもいなかっただろう。
そもそも、死後も意識が続くことなど、想像しようもない。
ジゼルコートは、ソニアとの予期せぬ再会を素直に喜び、彼女を困惑させた。彼女は、まさかジゼルコートがそのように感情を露わにするとは思いもしなかったのだろう。
「全部、終わったんだ」
彼は、言い訳のようにいった。
「なにもかも終わったんだよ」
現世での日々のことであり、現世での役割のことでもある。
生まれ落ちたとき、彼にはある役割が与えられた。それは、王家の人間に生まれた以上、決して外すことのできないものであり、それを全うすることこそが、命の全てだった。物心付く前からそれがすべてだと教わるのだ。疑問も生じない。それが命というものだからだ。だが、長じるに従って、視界が広がり、知識が増えてくる。いつしか、様々な考え方があるのだとわかってくる。それでもまだ、重荷に感じるようなことなどはなかった。
なかったはずだ。
しかし、どうやらそれはそう思い込んでいただけだったのかもしれない。
なぜならばいま、死んだことによって身軽になった自分を認識しているからだ。




