第千四百八十話 黒き眷属(三)
ロッドオブエンヴィー。
先端の異形の髑髏が象徴的な黒き長杖は、手にしている限りではほかの眷属となんら変わりのないものだった。脳裏に思い浮かぶのは、長杖の化身として現れた黒い少年の姿であり、惰眠を貪らんとする彼と長杖の能力に関連性があるのかどうか。それが多少なりとも気にかかった。
ロッドオブエンヴィーは、やや青みを帯びた黒であり、純粋な黒ではなかった。蒼黒の杖とでもいうべきかもしれない。黒き矛、漆黒の槍、闇黒の仮面、深黒の双刃、そして蒼黒の杖だ。
「わかったぜ」
シーラがなにやら嬉しそうな表情をした。
「ん?」
「セツナが試したいってことは、つまり、眷属の能力の確認なんだな?」
「……ああ、そういうことだ」
「やっぱりそういうことだったのね」
「眷属の能力……か」
「なるほどねえ」
マリアがたっぷりと間を置いてから、続けてきた。
「だったら、余計にいまやるべきことじゃないと思うんだけど?」
「……いまじゃないと駄目なんですよ、先生」
「セツナ様」
マリアは改めてセツナの名を呼ぶと、居住まいを正した。大柄な彼女が姿勢を正すと、あらゆる意味で迫力がます。
「セツナ様が仰りたいことはよくわかります。が、セツナ様はご自身の体調を万全に整えられることもまた、大事な仕事でしょう? 武装召喚術は、精神的な負担の大きい術だと聞いています。精神は肉体に、肉体は精神に作用するもの。いち早い回復を望むのであれば、いまはゆっくりと身も心も休ませるべきです」
「……そうしたいのはやまやまなんだけど」
セツナが漏らしたそれは、本音ではあった。
マリアの言いたいこともわかる。わからないわけがない。実際、いますぐ部屋に戻って寝たいと思うほどに疲れている。疲れが取れきっていないのだ。それは皆も同じだ。ファリアたちだってきっとゆっくり休みたいと想っているに違いないのだ。自分のわがままに付き合わせたいわけでもない。
「だったら」
「いま、確かめておきたいんだ」
「ですから」
マリアが食い下がろうとすると、ミリュウが口を挟んだ。
「先生、無理だよ」
「ミリュウ?」
「セツナってば、一度いい出したら聞かないんだから」
ミリュウの表情には、なんともいいようのない悲しさがあった。諦めるしかないとでもいいたげな表情。セツナは彼女の心中を察して、胸が痛くなった。だからといって、止めるわけにはいかない。
「……わかってるけどねえ。それで命を落とされるようなことがあった日にゃあ、あたしは自分で自分を許せなくなると想ってね」
「それもわかるけどさ」
「これからはもう無茶はさせないってことで」
「そうだな。つぎからはあんなことはさせないようにしないと」
「そうね」
あんなこと、とは、無論、サントレアでの殿のことだろう。たったひとりで十三騎士率いる騎士団に当たろうというのは、黒き矛のセツナをもってしても無謀すぎたことはいうまでもない。ある程度の数ならば凌げるとはいっても、永遠に捌き切れるわけではない。いずれ力尽き、殺された可能性だって大いにあるのだ。あのときは、シドのおかげで命を奪われるようなことこそなかったが、シドにその気がなければ殺されていてもなんら不思議ではない。十三騎士団は、不殺の集団ではない。目的のためならば敵対者を殺すことに躊躇いはないのだ。
いま、こうして生きていられるのは、あのとき、シドがセツナに救いの手を差し伸べてくれたからにほかならない。そのことについての感謝をセツナはついぞシドにする機会を得ることはできないままだった。話す機会はあったのだが。
「……もう、しないさ」
「本当に?」
「ああ」
うなずく。
胸が痛むのは、裏切ることになるかもしれないという想いがどこかにあるからだ。
(約束は、護るものだろう?)
自問する。
約束したのであれば、守らなくてはならない。
「あんな無茶を二度としないって約束してくれるのなら、まあ……」
「約束するさ」
マリアが渋々といった様子で出してきた提案に、セツナは、迷いなくうなずいた。彼女たちの想いを知れば、いやでも提案を受けざるを得ない。
サントレアの殿は、だれかがやらなくてはならないことだった。だれかが防波堤となって騎士団という激流を受け止めなければ、ガンディオンを取り戻し、ジゼルコートら反乱者を討つことなどできなかっただろう。全軍で騎士団を撃退し、そこから大急ぎでマルディアを脱出する、という方法はありえない。騎士団との本格的な戦いは、全軍に多大な損害をもたらすからだ。それでは、たとえ騎士団を撃退することができたとしても、今度はジゼルコート軍を倒すことが難しくなる。
それではいけない。
かといって、ある程度の部隊を殿として割くという方法では、その殿軍を見殺しにするだけのことになる。騎士団は強敵なのだ。たとえ兵数で上回ったとしても、勝てる相手ではなかった。
《獅子の尾》で殿を務めるというやり方も、考えた。セツナひとりよりは余程安定するだろう。危なくなっても、ルウファの翼で逃げることもできる。
しかし、本隊の戦力の低下を考えたとき、却下するしかなかった。
あのときは、セツナがひとりで当たることが最良の方法だったのだ。
今後、そのような場面が出てくるとは考えにくく、安請け合いとはいえ、結んだ約束を護ることは、そう難しいことではないようにも思えた。
「約束したからね」
「うん」
ミリュウの言葉に、うなずく。彼女はにこりとした。屈託のない笑顔。そういうとき彼女は、幼い少女の顔を覗かせる。初な少女としてのミリュウは、どうしようもなく魅力的だ。
「約束は護るもの、だよな?」
「ああ」
「へへ」
シーラが妙に嬉しそうに笑うと、ミリュウの顔から笑顔が消えた。どうやら、シーラの反応に何かを感じ取ったらしい。
「なに……?」
「な、なんでもねえよ!」
「なんなの、いったい!?」
「まあまあ、なんでもいいじゃございませんか。御主人様も約束してくださったことですし」
「良くない、全っ然、良くない!」
レムになだめられながらも声を荒らげることをやめないミリュウを横目に見ながら、ゆっくりと息を吐き出す。
(さて)
蒼黒の杖に意識を戻す。マリアたちとの話は、大切なことだ。彼女たちの不安を少しでも取り除くことができたのであれば、それ以上の収穫はない。セツナにとって彼女たちはなくてはならないひとたちであり、大切な存在だった。彼女たちがいてくれるから、セツナは幸福でいられる。ただ、自分の幸福のために彼女たちになにかを無理強いするようなことはしたくはない。それは、セツナの幸せとは程遠いものだ。周囲のひとたちの幸せこそ、セツナの幸せであり、そのためになにかを妥協しなければならないのならば喜んで妥協しよう。
それがいまのセツナの生き方となっていた。
約束と妥協は少し違うが。
(ロッドオブエンヴィーか)
ロッドオブエンヴィーの能力については、まったくの未知数だった。ニーウェとの戦いのあと、彼の記憶を垣間見たが、その中でもそれら眷属の能力まではわからなかった。ニーウェが厳しい戦いを強いられたのは間違いないことはわかっている。黒き矛の眷属なのだ。さぞ強敵だっただろうことは疑いようもない。
ニーウェは、それら眷属との激闘を潜り抜けてきたのだ。彼は、そういった死闘を経験し、強力な武装召喚師へと成長していったに違いなかった。
(能力……)
セツナは、だれもいない方向に向かって髑髏の杖を掲げると、能力の発動を念じた。どんな能力があるのかわからない以上、なにが起こるのかも定かではない。黒き矛の光線のような能力だった場合のことも考えれば、ひとに向かって試し打ちなどできるわけもないのだ。
すると、杖の柄を握る手から精神力が吸い上げられる感覚があった。能力が発動する前兆というべきか。
代価としての精神力。
長杖の先端についた頭蓋骨の口が開き、口腔内から闇色のなにかが奔流の如く溢れ出した。
「なんだ?」
液体のようにも見える黒いそれは、ただひたすらに虚空を前進し、セツナの視線の先、裏庭の塀に激突した。破壊力はそれほどでもないのか、塀には傷ひとつついていない。が、気になるのは、その闇色の奔流とでもいうべきものがまだ消えておらず、頭蓋骨の口から放出され続けているということだ。
「なんなの? それ」
「気持ち悪いな」
「なんか吐き出してるみたいね」
「なんなのでございましょう?」
「さあ?」
セツナがレムを一瞥したときだった。塀にぶつかったままだった黒い奔流が突如として軌道を変え、レムに向かっていった。セツナが驚いたときにはもう遅く、黒い奔流はレムに殺到すると、激突する寸前、先端部に巨大な手を形成し、彼女の華奢な体を掴み上げてしまった。
「あら?」
「レム!」
セツナが慌てるのとは対象的に、レムの反応は冷静そのものだ。
「御主人様、どういうことでございましょう?」
「俺にもよくわからん」
わかったことといえば、闇の奔流のように見えたそれは、黒い腕のようなものだったということだ。激突した塀を傷つけるほどの破壊力もなかったことから、攻撃には使えそうにないということもわかっている。
「それは困りましたねえ」
レムは、黒い手に掴まれ、空中に固定されたまま、心底困り果てたような表情を浮かべた。しかし、深刻そうには見えない。
「困りましたって、あなた、なんともないの?」
「はい。なんともございませぬ。苦しいわけでもありませんし、痛くもないですね。なんなのでしょう、これは」
「遠くの相手を捕まえることはできそうだな」
シーラのなにげない感想に着想を得て、セツナは、黒い腕に動くよう念じた。すると、黒い腕は、レムを掴んだまま、セツナの思い通りに動いた。上下左右だけでなく、斜めにも動かすことができたし、手首を回転させるといった人体ではできないようなこともできた。
「あの、御主人様、目が回りそうでございます」
「あ、ああ、すまんすまん。つい、調子に乗った」
セツナは、素直に謝ると、レムを地上にまで運び、解放した。彼女は、本当に目が回ったらしくふらふらとしながら長椅子に座り込んだ。肉体こそ不滅の存在となった彼女だが、三半規管は人間のそれとさほど変わらないのかもしれない。疲れないというのも、本当のことかどうか。彼女も無理しているのではないか。
「つぎ、あたしの番ね」
とは、ミリュウ。セツナは怪訝な顔になった。
「なにがだよ」
「レムだけ狡いじゃない」
ミリュウが当然のようにいってきたので、頭を抱えたくなる。なにに対して狡いといっているのかは、瞬時にわかった。
「狡いもなにも……まあいいや」
言い返すのも馬鹿馬鹿しくなって、セツナは、黒い手でミリュウを掴んで見せた。闇の手は、大きく、ミリュウを握り締めることくらいたやすかった。
「ああんセツナに捕まっちゃった!」
ミリュウの嬉しそうな反応からすると、強く握りしめ、圧迫しているというわけではないようだった。
「安上がりね」
「まあ本人が喜んでんだ。いいんじゃないかい?」
「そうですね」
マリアとファリアが半ば呆れながらもどこか微笑ましいものでも見ているような様子なのは、ミリュウの立ち位置を示している気がしないでもなかった。