第千四百七十話 大いなる呪縛
王都は、ケルンノールからさほど離れてはいない。
急がずとも明日の朝には到着するだろうという話であり、馬車の移動は、ゆったりとしたものだった。急ぐ必要はない。戦いは終わり、ガンディアは取り戻された。ジゼルコートを始めとする、ガンディア内部に巣食うレオンガンドの敵は一掃されたのだ。
征討軍と銘打たれた軍勢は、マクスウェル=アルキエルとの戦闘でそれなりの犠牲を払ったものの、逆賊ジゼルコートを討ったことで勝利の余韻に浸ることが許されていた。
そんな余韻に浮かれた軍勢の中で、セツナは、ようやく眠りにつけそうになっていた。ラグナのことをしっかりと話し合えたことが大きいのかもしれない。眠気が、セツナの意識を席巻しつつあった。
そんなとき、セツナの脳裏に浮かび上がったのは、巨大な人影だった。
(あんたはいったいなんだったんだ……?)
グリフ。
巨人の末裔であり、聖皇六将のひとりだった男、聖皇に呪われ、不老不滅となってこの大陸を彷徨い続けていた彼は、アズマリア=アルテマックスの要望に応え、セツナを騎士団から守ろうとした。が、セツナが騎士団に囚われの身となるや、セツナを騎士団から奪還するべく動いていたらしいという話は、彼との戦闘中に聞いている。それもアズマリアとの約束を護るためだった。
旧友との約束は守らなければならない。
それがグリフの奇妙なところだった。律儀というべきかもしれない。
しかし、セツナがベノアから脱出した途端、彼はその牙を剥いた。圧倒的な巨躯から繰り出される攻撃に、セツナは応戦せざるを得なくなった。ラグナの死と向き合っていた最中の攻撃。セツナは、怒りを覚えた。そして、戦いの中でその怒りをぶつけていった。戦闘は苛烈さを増す一方だった。
黒き矛と巨人の拳がぶつかり合い、衝撃波が余波となって吹き荒れた。
気が付くと、風景が変わっていた。そういうことが二度三度あった。いや、もっとあっただろう。見たこともない景色の中で戦っていた。雪原、森林、山岳、海岸。特に海などはこの世界に召喚されてからというもの、見たことがなかった。セツナが召喚されたのは、広大な大陸のほぼ真ん中に近い場所であり、多くのひとびとが海を見ることすらなく生涯を終えるような内地だったからだ。もっとも、海を満喫することなど、当然あるはずもない。
グリフとの戦闘は、一瞬の油断も許されなかった。
気を抜いたら最後、命を落としかねない。
ラグナに守ってもらった命。
失うわけにはいかなかった。
なんとしても生き延び、ガンディアに帰らなければならないと想った。
その想いが黒き矛に通じたのか、どうか。
最終的にファリアたちのいる場所へ辿り着いたのは、黒き矛がセツナの望みを叶えてくれたからなのかもしれない。
そう考えれば、グリフには、感謝してもよかった。
黒き矛は、グリフとの戦闘中に目覚めたのだ。
もし、あのとき、グリフが襲いかかってこなければ、黒き矛は眠り続けたままだったかもしれないし、ファリアたちを救援することなどできなかったかもしれない。
肝を冷やす。
黒き矛の空間転移が発動しなければ、ファリアたちを失っていた可能性は極めて高い。ファリアたちだけではない。レオンガンドも、セツナの居場所も、なにもかもすべて、この世から消え去っていたのではないか。
せっかくラグナが繋いでくれた命が無駄になるところだった。
セツナは、ガンディアにこそ自分の居場所があると信じている。そのことを疑ったこともなければ、ほかに居場所などあろうはずもないという確信がある。なればこそ、セツナはガンディアのために命を張って戦えるのだ。転生したラグナを迎えるのも、ガンディアという国で、だ。そう心に決めている。
(あんたのおかげだな)
瞼の裏に、グリフの巨躯が浮かぶ。
全長数メートルの巨躯は、セツナが黒き矛で切り裂くたびに血を流し、血を流すたびに再生した。どれだけ斬り裂き、突き破り、打ち砕いても、彼の肉体はすぐさま復元したのだ。それが聖皇の呪いだ。不老不滅。老いることも滅びることも許されない化け物は、セツナとの戦闘の中で変貌していった。ただ巨大化した人間のような姿から、外骨格のようなもので覆われた姿へと変化したのだ。それがグリフの戦闘形態なのだろうと考えたものの、正しいかどうかはわからない。なにせ、戦闘中、セツナはグリフとほとんど言葉を交わさなかった。怒りに任せて力をぶつけることしかできなかったのだ。
ラグナを失って傷心のセツナには、それだけが精一杯だった。
そしてそれが結果的に良かったのだと、思う。
怒りに任せて矛を振り回したからこそ、矛は目を覚まし、セツナを遠いこの地まで運んでくれたのだと、思うようにする。都合のいい考え方だが、ほかに納得のいく答えがあるわけでもない。黒き矛が説明してくれるのであれば話は別だが。
(どうせ、どっかで生きてるんだろ?)
グリフのことだ。
最後、あの戦場から消し飛ばしたものの、彼を滅ぼしきれたとは微塵も想っていなかった。何度切りつけても光線を浴びせても全周囲攻撃を叩き込んでも、彼は滅ぼせなかった。復元し、より強固な外骨格を身に纏うだけだった。飽きるほどに矛と拳をぶつけ合う内、セツナは彼を滅ぼすことなどできないと悟った。だから、別の方法で決着をつけるほかなかったのだ。
グリフだけを空間転移によってどこかへ飛ばした。
グリフは生きているだろうし、呪いのこともある。どのような状況にあっても生き延びるだろう。たとえ、消滅したのだとしても、気に病むことはない。攻撃を仕掛けてきたのは、グリフのほうなのだ。
セツナは、グリフと戦うつもりなどなかった。
それでも彼のことが気がかりなのは、彼もまた、この世界に翻弄されるひとりだからなのかもしれない。
どれくらい意識が途切れていたのだろう。
数秒か、数十秒か、数分か、あるいは数時間か。
いずれにせよ、久々の意識の断絶に彼は歓喜さえ覚えたものの、喜びを感じるということは結局滅びきれなかったということであり、落胆と失望に肩を落とした。
頭上、晴れ渡った空がある。眼下には荒野が広がり、人間によく似たものたちが隊伍を組んで移動している。奇妙な光景とは、言い切れない。人間は、往々にして軍隊を組織し、集団で訓練を行う生き物だ。個としての生命力の低さを群によって補おうというのは、なにも人間に限った話ではない。多くの生物がそのようにして群れを為し、生命を紡いでいく。
巨人は、違う。
彼は、たったひとり滅びから取り残された自分の運命を嘲笑うでもなく、ぼんやりと、その軍事演習を眺めていた。
見慣れぬ天地。
荒れ果てた大地は、作物はおろかただの植物さえも育たぬ不毛の土地であることを示しており、草木も見当たらなければ、花々が大地を彩る光景さえなかった。当然、それら植物に群がる昆虫もいなければ、虫を食らう小動物もいない。小動物を餌とする獣も見当たらず、鳥のたぐいもいないようだった。皇魔さえ寄り付かないような場所らしい。
だからこそ、人間たちはこの地を軍事演習の場所に選んだのかもしれない。ここならば、だれに気兼ねすることなく全力で訓練を行うことができる。
吹き抜ける風の冷ややかさに目を細める。あの人間と矛の力でばらばらにされ、粉々に打ち砕かたはずの肉体は、いまや完全に復元している。元通りだ。巨人の末裔としてのあるべき姿に戻っている。なにもかも、寸分違わぬ回復。これが聖皇の呪いの力だ。不老不滅、そして、不眠。彼に科せられた呪いは、とても人間の力によるものとは思えなかった。聖皇とはなんなのか。ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンと名乗り、大陸の支配者を謳ったあの人物は、いったいなにものなのか。いまや忘却の彼方に沈んだ記憶を掘り起こすことはできない。聖皇に関する記憶は、すべて曖昧になっている。それもまた、聖皇の呪いのように思われたが、どうやら違う。呪われてもいないはずのラグナシア=エルム・ドラースでさえ思い出せないというのだ。なにか別の力が働いていると考えるのが自然だ。
とても大きな力がこの世界を包み込み、支配している。
それが自分の運命をも操作しているのだ、というつもりもないが。
彼は、自分の運命が終わらなかったことに落胆を隠せなかった。
ようやく、全身全霊を込めて戦える相手が現れた。
あの少年。
もはや名前さえ思い出せなくなってしまったが、あの少年との戦闘は、彼が思い出せる限り最高とよんでいいものだった。禍々しく破壊的な漆黒の矛に秘められた力は凶暴というほかなく、巨人の末裔たる彼が全力を出さなければならないほどだったのだ。長い人生。記憶は朧気だが、これほどまでに全力を出したことなど、数えるほどしかないのではないか。少なくとも、肉体が変化するほどの力を引き出させられたことなど、そうあるわけもない。
だからこそ、期待した。
殺され、滅ぼされる運命を望んだ。
だがしかし、黒き矛の絶大な力を持ってしても、聖皇の呪いを断ち切ることはできなかった。
粉々に打ち砕かれても、肉体は再生し、生命活動は続いている。
彼は、失意の中で、荒野を進む軍勢を眺めている。
人間によく似た、人間ではないなにか。皇魔ではない。皇魔の中には人間に近似した種族もいるというが、それではないことは明白だ。皇魔からは、異界のにおいがするものだ。皇魔。五百年もの昔に召喚され、この世界に住み着かざるを得なかった人外異形の生物たち。いまとなってはこの世界に生まれ育ったものが多くを占めているにも関わらず、この世界の生き物とはまったく異なるにおいを発していた。それがこの世界の住人と皇魔の相互理解を阻んでいるのかもしれない。特に人間は、そのにおいに敏感だという。故に皇魔を過剰なまでに恐れ、過激なまでに反応する。人間の住む都市が壁に囲われたのも、そういった異界のにおいから身を守るためなのかもしれない。
ともかく、いま、彼の視界で訓練を行っているのは、人間でも皇魔でもなかった。無論、巨人の末裔などであるはずもない。別の生き物。いや、生き物と呼べるのかどうかさえわからない。
彼はそれを知っている。
見たことがあった。
(人形……といったな)
正確に覚えているわけではないが、あの矛の少年を護衛していた女のことだ。人間とは異なるにおいを発していたそれについて、尋ねたことがあった。すると、少年はすぐに教えてくれたはずだった。
頭を振る。
記憶は、曖昧だ。いつだってそうだ。眠ることができないということが、これほどまでに脳に負担をかけることになるとは、眠れなくなった当初、想像もできなかった。それでも、呪われてからの数十年は、まだましだった。巨人の末裔故の強靭な生命力が、維持してくれていたのかもしれない。しかし、眠れぬ日々が百年も経過すれば、脳が正常に機能しなくなり、記憶力が極端に低下していった。
自分の名前さえ忘れてしまうことがある。
いまもそうだ。
自分はいったいなんという名前で、なぜここにいるのか。
なぜ、奇妙な軍集団に包囲されているのかさえ、わからない。
「巨人……か」
「陛下! お気をつけを!」
声は、人形の群れの中から聞こえた。視線を落とすと、豪奢な衣装を身に纏った人間の男に不空数の人間が駆け寄ろうとしていた。豪華な衣装の人物は、人形の群れの中をこちらに向かって進んできている。黄金色の髪が男の生まれの良さを示しているような気がしないでもない。
「案ずることはない。あれが我々に敵対するつもりならば、とっくに戦闘になっているはずだ」
「し、しかし……巨人の末裔といえば!」
「知っている」
男は、制止を振り切り、人形の群れを抜け出した。そして、彼の眼下に辿り着くと、尊大な仕草でこちらを見上げてきた。小さな人間でありながら、その器は空よりも大きいようだ。
「グリフだったな。現代においては戦鬼の二つ名で知られた巨人の末裔。聖皇六将と呼ばれたもののひとりだったはずだ。そうだな?」
「グリフ……」
反芻した瞬間、脳裏に閃くものがあった。頭のなかでばらばらになっていた記憶の断片がひとつに繋がった感覚。記憶が蘇る瞬間というのは、いつもそうだった。記憶は、失われているわけではない。頭の中のどこかで沈黙しているだけなのだ。今回のように、なにかきっかけさえあれば、思い出せることが多かった。それでも聖皇に関する記憶だけは、思い出しきれないのだが。
「そうだ。それが我の名。うぬはだれぞ」
グリフは、その尊大な態度の男を見下ろしながら、問い返した。金髪の貴族風の男は、冷ややかな笑みを浮かべると、青い瞳でこちらを見据えてきた。
「わたしかね。わたしはルベリス・レイグナス=ディール」
レイグナスという言葉に、彼は眉根を寄せた。レイグナスは、ミエンディアがみずから名乗った称号だ。王の中の王という意味を持つ古代語だという。それをたかが人間が用いているなど、片腹痛いというほかなかった。
ミエンディアは、大陸を統一して見せたからこそ、そう名乗ったのだ。現大陸は、なにものにも統一されてはいないはずだ。大分断以降、無数の国々が勃興を滅亡を繰り返した。いまでこそ落ち着いているものの、それはなにものかが大陸を統一したからではなかった。
大陸を統一するのは、簡単なことではない。
一方でグリフは、ルベレスと名乗った男を見据えたまま、彼が巨人の末裔を前にしても微動だにしないことには感心した。通常、彼ほどの怪物を目の当たりにすれば、恐怖に身が竦むものだ。たとえ味方であったとしても、害意がないということがわかっていたとしても、巨大さは恐怖に直結する。
「この神聖ディール王国において王を務めているものだ」
ルベレスは、グリフに対しても目上のものであるかのように振る舞い、尊大に言い放った。
その超然としたまなざしには、どこか見覚えがあった。
そして、においを感じた。異界のにおい。この世界に生まれ育った人間からは感じ取ることのない、異世界の気配。
「さて、巨人の末裔よ。貴様に許された選択肢はひとつしかない。わたしに従え」
有無を言わせぬ発言に、グリフは目を細める。
「わたしに従えば、いずれ貴様のその命を縛り付ける呪いも解かれる日が来よう」
ルベレスの言葉を信じる道理はなかったが。
「わたしは、この世界にかけられた呪いを解くためにここにあるのだからな」
グリフは、彼に付き従うことに決めた。
呪いを解く。
それだけが彼の目的だったからだ。