第百四十六話 魔龍たち
「ナグラシアが制圧されたそうだ」
クルード=ファブルネイアからの報告に、ミリュウ=リバイエンは声をあげて笑い飛ばしたくなった。笑いたいのは、その失態だけではない。なにもかもすべてだ。この国のこと、この国を取り巻く環境、そんな国にいいようにされていた自分たちのこと、それでもなお国に縛られなければならない状況のすべて。
なにもかもが馬鹿馬鹿しくて、くだらない。
ただ、左前方の窓から差し込む光の眩しさこそ求めていたものであり、それを否定する気にはなれなかった。数日前までの曇天が嘘のような天気だ。快晴。雲ひとつなく、空から降り注ぐ陽光のまばゆさは、生の実感を与えてくれるものだった。地下から上がって以来求めていたものが、ようやく、彼女の前に姿を表していた。
「いつの話?」
「九月八日……三日前のことだな」
クルードが、ミリュウから少し離れた場所の椅子に座った。彼女の対面を遠慮したのは、テーブルに乗った大量の料理のせいだろう。ちょうどお昼だった。ミリュウは午前の訓練を終えたばかりで、腹が空いていた。地上に出て、料理の美味しさを思い出したおかげで、毎回のように大量に注文してしまったが、大体は平らげることが出来た。地下にいるときはないといっても過言ではなかった食欲が、色彩あふれる地上に出てきたことで増進されているらしい。クルードに太ると忠告されることもしばしばだったが、それ以上に訓練を重ねているのだから問題はない。
殺し合いのない訓練。これほど爽快なものはなかった。爽快で、心地よくて、楽しいとさえ思える。かといって、魔龍窟でのできごとを綺麗さっぱり忘れるということもない。殺し、踏みにじってきた一切の命が、夢の中で暴れ、のたうち回るのだ。
龍府天輪宮紫龍殿。
ザルワーンの首府たる龍府の中心である。天輪宮は宮殿全体を指す呼称であり、紫龍殿は天輪宮の東に立つ建物のことだ。中心に泰霊殿を抱き、北は玄龍殿、西は飛龍殿、南は双龍殿がある。それら五つの宮殿の総称が天輪宮だということだったが、ミリュウにはどうでもいいことだ。過去の五竜氏族の頭首たちが権力闘争の末に築き上げた建物に、なんの感慨もなかった。
ただい、紫龍殿については気に入っていた。ここの料理人は腕が良く、彼女の腹を満たすだけでなく、舌を楽しませる術も心得ている。そしてなにより、紫龍殿は彼女たちが好きにしてもいいというのだ。
魔龍窟からの解放後、ミリュウは自分たちの立場の激変についていけなかったものの、状況が少しは好転しているということには気づいていた。いや、好転というほどのものでもないかもしれない。が、陽の光を浴び、同胞を殺さずに済むというのはそれだけでずいぶんと違うものだ。天地がひっくり返ったといってもいい。
地獄から天国へ。
この境遇に浸り続けたいのならば、ザルワーンの勝利に貢献するよりほかはない。
「ガンディア軍よね?」
「ああ」
「ガンディアのログナー平定のことを調べて思ったけど、早いわよねえ、ガンディアの動きって」
「それに比べて、ザルワーンの動きは鈍いな」
クルードが唾棄するのもわからなくはない。
「余裕ぶっこいて、敵国の軍師を重用してたんだもの。当然の事態よね」
「国主様は、軍師の策略を利用して反体制派を一掃したらしいが」
「おかげであたしたちは地の底を漂い続けていた、ってわけね」
ミリュウたちを地の獄から引き上げたのがミレルバスなら、十年もの長きに渡ってオリアン=リバイエンの好き放題にさせていたのもミレルバスなのだ。憎しみこそ沸いても、敬いや畏れといった感情が生まれるはずもなかった。そして、ミレルバス自身がそんなものを欲してもいないことを、直接会ったときに思い知った。
ザルワーンの国主は、ミリュウたちに忠誠など求めていなかった。求めるのは戦果であり、武装召喚師としての実力だけだ。魔龍窟の成果を見せてほしいという彼の言葉は、悪意がないにせよ、ミリュウに殺意を覚えさせたのはいうまでもない。ミレルバスがのうのうと騙されている間、ミリュウたちは地獄に繋がれていたのだ。陽の光を浴び続けてきた人間には、彼女の気持ちなど理解できるはずもない。
それも、わかりきっていたことだったのだ。
地上で人生を謳歌してきた人間とは、価値観が違う。
ミリュウたちは生きるために殺し合うことを強制された。毎日の訓練と、不定期の殺し合い。訓練で成果が上げられなかったものは容赦なく切り捨てられたし、ゆえにミリュウたちは術を学ぶのに躍起になった。ならざるを得なかった。武装召喚術を学んだのも、そうしなければ生き残れなかったからにほかならないのだ。
そんなことさえ理解しないものに忠誠は誓えない。
だが、だからといって、ミレルバスに感謝しないわけでもなかった。
こうして美味しい食事にありつけるのは、ミレルバスの配慮あってのことだ。彼が、ミリュウたちに地位を与え、ある程度の権力を持たせてくれたおかげで、彼女たちは生活に困らずに済んだのだ。衣食住、すべてが手に入った。あとは任務をこなしていけばいい。ただそれだけでこういう充実した日々が送れるというのなら、あのような国主にだって従ってやろう。
そんな想いは、ミリュウとクルードに共通するところだった。
「ま、なんだっていいのよ。生きてさえいられれば」
告げて、彼女はデザートに手を出した。
死にたくない。死ぬのはまっぴらだ。目の前で意味もなく死んでいく同胞たちの顔が、網膜に焼き付いている。消えない。どれだけ強く目を瞑っても、消えてくれない。悪夢ではなく、現実だからだろう。記憶に残り、風化さえしてくれないのだ。
この眩しい陽の光を浴び続ければ、いつかは消えてくれるだろうか。
「それもそうだな」
クルードが、心労の末に真っ白に染まった髪を掻きあげた。見事な白髪だった。歳はまだ若いはずだ。ミリュウと同じか、ひとつふたつ上くらいだろう。三十代にも満たないにもかかわらず、彼の顔はかなり老けて見えた。魔龍窟での十年が、彼をそのように変えてしまったのだ。十年前、権勢を誇ったファブルネイア家の次男として持て囃されていた彼は、それこそ絶世の美少年といって差し支えなかったのだが。
運命とは残酷なものだと思わざるをえない。
(いいえ、残酷なのは人間よね)
目的のためならばどんな手段だって取るし、生き残るためならば同胞を殺すことも厭わない。平気で他人も己も騙し、殺戮を正当化し、大義を嘯く。そうやって醸成されたのが自分たちだからこそ、吐き気がする。それでも生き抜かなくてはならない。
青春なんていう輝かしい言葉すら知らないまま死ぬのなんて、まっぴら御免だ。
「ところで、ザインはどうしたんだ?」
クルードが尋ねてきたのは、ザイン=ヴリディアのことだ。魔龍窟を生き残った三人のうちの最後のひとりであり、この場にはいなかった。が、それはいつものことでもある。
「彼なら犬と戯れてたわよ」
「犬?」
「彼、動物なら危害加えないから、安心していいわ」
ザインは、魔龍窟時代、どこからか拾ってきた鼠を家族のように扱っていたような人物だった。人間に対しては敵意しか抱けないようになってしまった彼には、言葉を話さぬ動物だけが心の拠り所なのかもしれない。動物と遊んでいる時の彼は、十年前の少年のころのように明るく、穏やかな表情をしていたものだ。そこに哀れさを感じないのは、自分も同じようなものだからだろう。
だれもが、どこか、壊れている。
クルードが嘆息した。
「任務なんだがな」
彼の発した言葉に、ミリュウは果物に伸ばしていた手を止めた。クルードに視線を向ける。彼の手には、書類の束があった。最初から持っていたのだろうが、気にもしていなかったのだ。
「やっと?」
「そう。やっと、俺達の出番が来る」
そういって、クルードは冷ややかに笑った。