第千四百六十六話 真の勝利者
「正義ねえ」
セツナは、ミリュウの腕を振りほどき、ウルクやレムを体から引き剥がすと、彼女たちを後ろに追いやった。ミリュウがなにかいいたそうな顔をしていたが、黙殺する。彼女たちの相手をしていては、ジゼルコートと真面目に話し合うこともできない。
「俺には、あなたに正義があるとは思えないな」
告げて、彼を見やる。
ジゼルコートは、炎の海の中で、微動だにせず、こちらを見ている。涼しい表情、痛みを堪えているという風もない。炎の中だ。熱気に苦しみ、炎に痛みを感じないはずもないのだが、ジゼルコートはどういうわけかその炎から逃れようともしていなかった。彼の後ろに佇む女騎士もだ。名前は忘れたが、ルシオン白聖騎士隊の部隊長だったはずだ。なぜそんな人物がジゼルコートの側にいるのかは不明だった。
「それは、そうだろう」
ジゼルコートが、静かにいった。炎が廃墟を焼き尽くしていく音と風が流れる旋律と、そして周囲四方から迫り来る軍靴の音だけが響く中、彼の声ははっきりと聞こえていた。
「なにせ、あなたとわたしでは立ち位置が違う。当然、見えているものも、見ようとしているものも違う。あなたにはわたしの正義は邪義に見えるだろうし、あなたの正義は、わたしにとっては邪義にしか見えない。それでいいのだ。理解する必要はない。理解しようとする意味もない。わたしの正義はここで敗れ、潰え去る。謀反人ジゼルコートとして、ガンディアの歴史書に載る。それだけのことだ」
「あなたは……」
「だが、ひとつだけ、負け惜しみをいうとすれば、これもまた、わたしの目的が達成されるということだ」
「目的……」
「ただの負け惜しみだよ、セツナ伯。あなたがたに敗れ去ったもののくだらない負け惜しみさ」
ジゼルコートは肩を竦めて苦笑した。熱風が彼の頬を撫で、汗が零れ落ちた。
「しかし、わたしが動かねば、こうはならなかった。わたしが立ち、わたしが謳い、わたしが吼えたからこそ、ガンディアはいままさにひとつになることができるのだ。そうだろう。レオンガンド」
「陛下……?」
ジゼルコートの視線を追って振り向くと、銀獅子の甲冑を着込んだレオンガンドが歩み寄ってくるところだった。そして、全周囲をガンディア軍が取り囲んでいることに気づく。レオンガンドは、目だけでセツナにうなずくと、セツナのすぐ右後ろで立ち止まった。セツナより前に出ないのは、万が一のことがあったとき、セツナが対処できるようにという考えからだろう。
「ジゼルコート……あなたの負けだ。あなたの謀反は失敗に終わり、あなたが作り上げた勢力はことごとく壊滅した。アザークは国に帰り、ラクシャもあなたへの援護を諦めた。あなたに味方するものはもはやいない。だれひとりとして」
「いわれるまでもないことだ」
ジゼルコートは、極めて冷淡だった。
「わたしは敗れた。その事実、潔く認めよう。わたしがおまえを倒すために仕掛けた戦いは、わたしの大敗で終わった。わたしが作り上げた軍勢も、紡ぎ上げた戦略も、築き上げた勢力も、すべて、おまえとおまえの軍勢の前に叩き潰された。わたしはただのひとりとなった」
そうまで断言してから、ジゼルコートが背後の女騎士を一瞥した。
「彼女かね。彼女はわたしだ。わたしの半身だよ」
女騎士は微動だにしなかったが、ジゼルコートに半身と呼ばれた瞬間、表情が綻んだように見えた。彼女は間違いなく喜んでいた。ジゼルコートのことを心の底から慕っているのだろう。
「レオンガンド。おまえは強い。おまえほど半端なものもいないというのに、どうしてわたしはおまえに勝てなかったのだろうな」
「それは……」
「いや、いうな。わかっているさ。わたしがおまえに勝てるはずなどなかったのだ」
ジゼルコートは、卑下するでもなく、ただ冷ややかに告げてくる。
「王の王たるものたるおまえに、たかが王族の成れの果てたるこのわたしが太刀打ちできるわけもなかったのだ」
自嘲しているわけでもなければ、卑屈になっているわけでもない。ただ淡々と事実を述べるように、彼は続けるのだ。
「わかっていたさ。わかっていたのだよ。なにもかもな。だが、それでもわたしは立たねばならなかった。立ち上がって、おまえに挑まなければならなかった。おまえを否定しなければならなかった」
ジゼルコートの目は、レオンガンドを見据えていた。親族だけあって、よく似ていた。レオンガンドが年を取れば、もっと似てくるかもしれない。
「わたしは、おまえを認めることなどできないのだから」
「叔父上……」
「レオンガンドよ。おまえはまだわたしのことを叔父と呼ぶか」
ジゼルコートはどこかあきれたような、諦めたような言い方で、肩を竦める。
「当たり前でしょう。あなたは反逆者でわたしの敵だが、わたしの叔父であるという事実は覆らないんだ」
「……その甘さこそ、ガンディア王家の血よな」
嘆息が熱風に灼かれた。
「我が一族は、血の繋がりにめっぽう弱い。情が深すぎる。家族愛といえば聞こえはいいが、要は身内に甘いだけのことだ。そうだろう」
ジゼルコートに問われ、レオンガンドは、なにも言い返さなかった。言い返さないということは、認めているようなものだ。セツナには、よくわからないことではある。身内に甘いのは、ガンディア王家特有の話とも思えないからだ。そして、そのことが問題だということも、理解しがたい。
「ガンディアが小国のままならば、小国家群の一弱小国のままであるのならば、それでよかった。小さな国の王家が身内に甘かろうと、家族愛に溺れていようと、大した問題ではない。国が小さければ、身内贔屓も気になるほどのものにはならないからな」
ジゼルコートは、饒舌だった。残された時間を費やしてでもなにかを伝え切らなければならない、とでもいうような強迫観念に突き動かされている、そんな感じがした。だから、というわけではないが、セツナはただ黙って聞いていることしかできなかった。
「だが、ガンディアは、弱小国のままではなかった。おまえが、拡大を進めたからだ。ログナーを下し、ザルワーンをも飲み込んだとき、ガンディアは、もはや昔のままではいられなくなった。旧態然とした体制、王家の身内に権力が集中した構造、叛意を抱きながら身内だからという理由で優遇されるものたち。なにもかもが古錆びている。おまえもそのことを理解しながら、ラインス=アンスリウスにさえ手を出せなかった」
セツナは、小さな驚きを覚えた。ここでラインス=アンスリウスの名が出てくるとは想ってもいなかったからだ。ラインスといえば、エレニア=ディフォンを利用してセツナの暗殺を企み、なおかつログナー家を陥れようとした人物だ。セツナにとって忘れようのない人物でもある。
「ラインスがおまえの足を引っ張るためだけにセツナ伯を暗殺しようとしたにも関わらず、なにもできなかった。わたしがそれとなく警鐘を鳴らしたのにも関わらずな」
ジゼルコートの意味深げな発言にレオンガンドがはっとする。
「まさか……」
「そうだよ。ラインスはわたしの差し金だ。もっとも、ラインス本人は、わたしに操られていたことに死ぬまで気づいていなかっただろうがね」
思いもよらぬ告白に、その場にいただれもが衝撃を受けた。まさか、ラインスが引き起こした事件の黒幕がジゼルコートだったとは、想定してもいなかったことだ。レオンガンドの驚きぶりは、ナーレスさえ把握していなかったということでもある。いやそもそも、ラインスをけしかけた黒幕がほかにいて、それがジゼルコートだと判明していれば、わざわざ謀反を起こさせることで確認するという必要もなかった。
「ラインスを使い、おまえを試したのだよ。おまえがガンディアの王に相応しいものかどうかな。小国家群統一を夢に掲げたのだ。それなりの人物でなくては困る。王の夢のために臣民がいたずらに害を被るようでは、たまったものではない」
「それで……試してみた結果は、どうでした?」
「残念なことに、及第点にさえ至らなかった。おまえは結局、ラインスらを即刻始末することもできなかったのだからな」
ジゼルコートの一言に、レオンガンドは目を細めた。
「王家の血が、そうさせたのだろうが、そんなもの、越えてもらわなければならない。結局ラインスらを抹殺する必要があったのだ。遅かれ早かれな。あのとき、有無を言わさず殺したところで、問題はなかった。ラインスも彼の一党も有用ではあったが、補えないものでもなかった。そうだろう」
「……しかし」
「グレイシアか」
ラインス=アンスリウスは、レオンガンドの母であり、太后グレイシア・レイア=ガンディアの実兄なのだ。つまり、ラインス自身、レオンガンドの伯父に当たる。ガンディア王家が家族への情に深い一族というのであれば、ラインスを即刻処断できなかったのは当然のことなのかもしれない。そもそも、尻尾を完全に掴みきれていなかった、ということがあるのだが。レオンガンドとしては、処断するのであれば、公明正大にやらなければならないと考えていたらしい。
もっとも、ラインスたちは、のちに死体となって発見される。そしてそれがナーレス=ラグナホルンらが暗殺したのではないかと噂された。その上、ナーレスたちを動かしたのはレオンガンドだとまことしやかに囁かれたものだ。噂は、噂のまま、だれにも追求されることなく消えてしまったが、多くの人間はその噂を事実として受け取ったようだった。逃げ込んだ地下通路で皇魔に遭遇し、為す術もなく殺され、死体として発見されるなど、不自然にもほどがあるからだ。だが、そのことでレオンガンドやナーレスが追求されることはなかった。ラインス=アンスリウスの暴走は、だれの目にも余るものがあったからなのだろう。
そんなことを思い出す。
「やはり、おまえは甘い。その甘さは、この国を腐らせかねない」
「だから、わたしはここにいる」
レオンガンドが、ジゼルコートを凝視したまま、続ける。
「あなたを討ち、この国を取り戻すために、ここに来たのだ」
「……そうだ。その目だ。レオンガンド・レイ=ガンディア。そのまなざしこそが必要なのだ」
レオンガンドを見つめるジゼルコートの表情が満足げなものに変わる。
「その目で、おまえは殺したはずだ。愛を断ち切ったはずだ。なのにどうして、この期に及んでわたしにまで慈悲をかけようとする。情けをかけようとする。情けなどかけるな。容赦などするな。わたしは敵だぞ。おまえに反旗を翻し、おまえの治世に反乱を起こした大罪人だ。謀反人ジゼルコート。それがわたしだ。おまえはわたしを討たねばならない。わたしがおまえに降ることなどありえないのだからな」
ジゼルコートの発言によって、彼がなにを考えているのか、セツナにも少しずつわかりかけてくる。彼は死のうとしている。それも、レオンガンドに殺されようとしているのではないか。なぜそうしたいのかまではわからない。ジゼルコートという人物について、深く理解していないからだろう。
「さあ、わたしの首を刎ねよ。おまえの正義のために。おまえの国を取り戻すために。おまえが獅子王として真に名乗りを上げるために。敵を倒し、悪を滅ぼし、憂いを断つのだ。おまえに仇なすものがどうなるのか、この世に知らしめてみせよ」
「叔父上……」
「まだいうか。わたしはおまえの敵だ。ラインスのみならず、ハルベルクをけしかけたのもわたしだぞ。リノンクレアの幸せさえも踏み躙ったわたしを許すというのか? この国に存亡の危機をもたらした悪人を許すというのか。おまえの覚悟は、その程度なのか」
ジゼルコートは、レオンガンドを説得するかのようにいう。
レオンガンドはなにもいわず、ただ腰に帯びた剣に手をかけた。
「そうだ。それでいい」
ジゼルコートは、レオンガンドが剣を抜くのをじっと見ていた。鞘から抜かれた剣は、ガンディア王家に伝わる宝剣グラスオリオンではなく、レオンガンドのために鍛え上げられた直剣だ。獅子の意匠が各所に散見される剣は、獅子の国の王に相応しい。
「わたしは、おまえに降ることなどできないのだ。わたしはおまえを認めない。おまえを王として頂くことなどできない。わたしの――」
レオンガンドは、なにも語らなかった。なにも語らぬままセツナの横を通り過ぎ、炎の海に足を踏み入れる。だれも制止できなかった。レオンガンドの一挙手一投足には、並々ならぬ覚悟と決意が込められていたからだ。ここで声をかければ、彼の想いを穢すことになりかねない。セツナは矛を握りしめた。いつでも飛び出せるように。いつでも、レオンガンドを守れるように。
ジゼルコートは、レオンガンドを待ち受けている。逃げようとも、抵抗しようともしない。彼は望んでいるのだ。レオンガンドに殺されることを望んでいる。レオンガンドは、そんなジゼルコートの望みを叶えようというのだろう。
「わたしにとっての王は、兄上ただおひとりだったのだから」
それが、遺言となった。
ジゼルコートの最後の言葉となった。
瓦礫の中に踏み込んだレオンガンドは、ジゼルコートの首を刎ねた。胴体から切り離された頭部は、どこか満足気な表情を浮かべながら宙を舞い、女騎士に受け止められた。ジゼルコートの胴体は、力を失い、ゆっくりと崩れ落ちる。ジゼルコートの頭部を抱きとめた女騎士は、レオンガンドを仰ぎ、腰から剣を抜き――黒き矛に胸を貫かれて絶命した。
「ご苦労」
レオンガンドの一言を聞いて、セツナは、女騎士の胸から黒き矛を引き抜いた。
「本当に君には苦労をかけるな」
レオンガンドの声があまりに優しすぎて、なにも言い返せなかった。
戦いが終わった。
長い長い戦いが、ようやく、幕を閉じたのだ。
なにも得るものなどなく、ただ失うだけの戦いが、終わった。