第千四百六十五話 英雄の帰還(三)
グリフは、消えた。
少なくとも、セツナの目の前から消えていなくなった。
もっとも、この世から消滅したわけでもなんでもない。
グリフを殺すことは、できない。
彼は、聖皇の呪いによって不老不滅の存在に成り果てたのだ。殺すことは叶わない。普通の生物にとっては致命的な損傷も、彼は難なく復元してみせる。首を切り離しても生きている。心臓を突き破っても、体を千千に斬り裂き、ばらばらにしても、死にはしない。瞬く間に再生し、復活してみせる。そんな戦いをどれだけ続けていたのか。
精確に思い出せないくらい長い時間、戦い続けていた。
夜が来て、朝を迎えた。
それも、二度、三度あった気がする。
つまり、数日の間、休むことも眠ることもなく、グリフと戦い続けていたということになる。
冷静に考えると気が狂っていたとしかいいようがない。
(狂って……いたんだろうな)
ぼんやりと、青空を見ている。
空の濡れたような青さは、相変わらずだ。イルス・ヴァレの空。セツナの生まれ育った世界の空と少しばかり違う。空気の質感も、風の音も、聞こえる声も、なにもかもあの世界とは違うのだ。だが、違和感はない。とっくに順応してしまっている。この世界こそ、セツナの生きる世界なのだ。
ゆっくりと、息を吐く。
目眩がした。体中、ありとあらゆる箇所が悲鳴を上げている。筋肉という筋肉が痛んでいる。骨は折れていないが、折れていてもおかしくはないと思える。全身、酷使していない箇所などなかった。
数十時間、戦い続けていたのだ。それくらい当然だ。むしろ、消耗し尽くして倒れていないことのほうが不自然だった。別に力を抜いていたわけではない。手を抜いて戦えるような相手でもない。力を尽くしてようやく対等以上に戦うことができたのだ。そして、グリフがこちらを殺すつもりで挑んできていた以上、気を抜くことなどできるわけもなかった。
一瞬でも意識を逸した瞬間、セツナの肉体は巨人の拳によって撃ち抜かれ、粉砕されていたに違いない。
不意に、乾いた拍手の音が背後から聞こえて、セツナは、矛を杖代わりにしながらそちらに向き直った。足だけで立っていられないほどに体力を使い果たしていた。
「素晴らしい。さすがはガンディアの英雄……というべきでしょうな」
拍手をしていたのは、ジゼルコートだった。ガンディア王家の一員であり、ケルンノールとクレブールの領伯という大任にありながら、レオンガンドに反旗を翻し、ガンディアを乗っ取ろうとした大罪人。逆賊。謀反人。様々な言葉がセツナの脳裏に浮かぶと同時に、疑問も生じる。
なぜ、ジゼルコートが目の前にいるのかということだ。
そして、どうして、ジゼルコートはルシオンの女騎士と炎の中に佇んでいるのか。
「《獅子の尾》の方々が力を合わせても五分に持ち込むことさえできなかったマクスウェル=アルキエルを事も無げに撃破してみせたうえ、あの化け物をも倒してしまわれた。まさに英雄の所業としかいいようがありません」
ジゼルコートは、なにやら眩しいものでも見るようなまなざしで、こちらを見ていた。女騎士はそんなジゼルコートを静かに見つめている。ふたりが立っているのは、瓦礫が散乱する廃墟の中だ。廃墟は炎に包まれていて、その炎は傷だらけのジゼルコートに燃え移ろうとしていた。
「ここは――」
どこなのか、と問おうとしたときだった。
「セツナー!」
「セツナアアアアアアアアアアア!」
「セツナ!」
「御主人様!」
「大将!」
様々な声が四方八方から飛んできて、セツナは、頭の中が真っ白になった。頭の処理が追いつかないとはこのことだろう。声と、気配と、足音と、風の音。さらに遠くからこちらに向かって接近する集団がある。無数の軍靴。沸き立つ声。セツナの名を呼ぶそれら無数の声の中に、よく知った声も混じっていた。エインやレオンガンドの声も聞き分けられる。
それは、黒き矛を手にしているからだ。黒き矛を通して、広範囲の情報が脳内に飛び込んでくるのだ。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚――ありとあらゆる感覚が通常よりも何倍にも拡張され、鋭敏化している。黒き矛が力をつければつけるほど、セツナが力を引き出せるようになればなるほど、五感の強化もまた増幅していく。そして、そういった五感の拡張こそが、セツナに万能感をもたらし、勘違いを起こさせようとするのだが、慣れたいまとなってはそういった感覚に振り回されることはなくなっていた。むしろ、制御し、不要な情報の排除を行うことに意識を集中できるようになりつつある。
それら制御した五感が、周囲から急速接近してくる人物たちの姿を脳裏に描き出し、またしてもセツナを驚愕させる。
長らく逢いたいと想っていたひとたちがそこにいたからだ。
「無事でよかった……!」
「グリフまで倒しちゃうなんて、さすがあたしのセツナよね!」
「いえいえ、わたくしの御主人様だからこそです!」
「隊長だからですよ」
「つまりはわたしにとっても隊長になるわけだ?」
「お姉さまの見込まれた方ですもの、当然ですわ」
「いやいや、俺の上司だからだな」
「は、俺の大将だからだぜ」
「いえ、わたしのセツナです」
「まあ、俺の弟子だから、当然だな」
「黒き矛のセツナか」
ファリアがすぐ側までくると、ミリュウがファリアごと抱きついてきて、さらにレムが飛びついてきた。空中からルウファが降り立ってくると、グロリア=オウレリアがアスラ=ビューネルを抱えて舞い降りてきたことに驚くしかない。さらにそれだけではとどまらず、シーラがなにかを勝ち誇れば、エスクが自慢げに語り、ウルクが全身から排熱し、ルクスがいつものように告げ、トランが納得したような顔を見せる。さらにミリュウがセツナの首に腕を絡みつかせると、シーラがそれを止めさせようとし、レムとファリアが仲裁に入ると、ウルクがなぜかミリュウの真似をしようとしてセツナの腕を引っ張ったりして、収集がつかなくなっていく。まるで混沌の渦の中に飲み込まれたかのような状況だった。
「あーもう、うるせええええええ!」
セツナは、声を張り上げるしかなかった。
「なんなんだよ、いったい!? どういうことなんだよ、どうなってんだよ、いったいなんなんだ!? 俺は、それどころじゃないんだっての!」
「セツナ……」
「ご、ごめん……」
「御主人様……申し訳ありません」
途端にしゅんとした女性陣の反応に、セツナは、気まずさを覚えた。すぐさま訂正する。
「……いや、言い過ぎた。疲れてるんだ。気が立ってる」
気が立っているのは、疲れたせいではない。
ラグナのこともあった。
自分のせいでラグナを失ったという事実がいまも胸を締め付けている。あれから一睡もしていないのだ。そして、そのことと向き合って考える時間さえ、グリフによって奪われた。怒りが増大したのは、そのせいもあった。悲しみに暮れる暇さえなかったのだ。
「……そりゃあそうだな」
シーラが、セツナの心労をいたわるようにいってきた。
ゆっくりと深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「まあ、なんとなくわかった。ここはガンディア本土なんだな?」
「ええ」
ファリアの肯定を待つまでもない。
ジゼルコートがいて、ファリアたちがいたのだ。そんな場所は、ガンディア本土以外にありえなかった。ただし、ジゼルコートが制圧していたはずのガンディオンではないらしい。見知らぬ光景。どこかの高原の真っ只中らしいことはわかる。その高原にガンディア軍と思しき軍勢が展開しており、セツナたちのいる地点に向かって迫りつつあることもだ。
「黒き矛の空間転移でここまで飛ばされたってわけだ」
「そうなるわね」
ミリュウがセツナの左腕に自分の腕を絡みつかせながら、嬉しそうにいってきた。
黒き矛は、眠りについていた。
エッジオブサーストを取り込んだことで、完全体となったそれは、真なる力を取り戻したことで、一度、眠りにつかなければならなくなったようなのだ。詳しいことは、黒き矛ならざるセツナにはわからないのだが、ほかに考えようがなかった。黒き矛が眠っている間も、その破壊力や秘められた力そのものは制限されてはいなかった。ただし、黒き矛の様々な能力はなにひとつ使えなくなっており、その事実がセツナに戦いづらくさせていたのは間違いなかった。
黒き矛の能力が使えていれば打開できた場面もあったかもしれない。
ラグナが命を燃やしてまで魔法を使う必要はなかったかもしれない。
悔やんでも悔やみきれないのは、ラグナを失ったすぐあとに黒き矛が目を覚ましたからだ。グリフとの戦闘中、突如として目を覚ました黒き矛は、セツナに様々な風景を見せた。そのたびに空間転移が起こり、セツナとグリフの戦場は大陸中を転々とした。見たこともない風景の中で戦ったこともある。吹雪く雪原や皇魔の巣の中、まばゆい海岸にも転移した。
数え切れないほどの空間転移の果て、最後に辿り着いたのが、この場所だったのだ。
「そして、ジゼルコートの野望もこれで終わりというわけだ」
そこでようやく、セツナは、状況から置いてけぼりだったジゼルコートに意識を戻した。燃え盛る廃墟の中で、ジゼルコートは微動だにせず、こちらを見ていた。ずっと、セツナのことを待ってくれていたのだ。
「そうなりますな」
ジゼルコートは、悪びれもせず、いった。
「しかし、野望などとはいってくれるな。わたしはわたしの正義を遂行したまでのこと。そして、わたしの正義は、レオンガンド陛下やあなたがたの正義に敗れ去った。ただそれだけのことだ」
ジゼルコートの表情は、ただひたすらに澄み切っていた。