第千四百六十三話 英雄の帰還(一)
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
前方の空間が歪んだかと思うと、衝撃波がファリアの体を浮かせたのまでは理解できる。それがなにを由来とした衝撃波かまではわからずとも、衝撃波が体を浮かせた事実そのものは把握できたからだ。そのまま衝撃波に吹き飛ばされる最中、視界にさらなる異変が生じた。突如として出現したふたつの存在が、黒い悪魔に強烈な一撃を叩き込んだのだ。
白巨人の巨大な右拳が悪魔の背中に突き刺さり、赤い少年の漆黒の矛が悪魔の胴体正面に叩き込まれる。おそらく――いや、間違いなく、そのふたりは互いを攻撃しあっていたのであり、マクスウェルめがけて攻撃したようには見えなかった。たまたま偶然、ふたりの攻撃の間にマクスウェルの悪魔が出現したのだ。ファリアからすれば、ふたりが突如として出現したのだが、ふたりからすれば逆になるだろう。
苛烈な戦闘の真っ只中、ふたりの間に突如として黒い化け物が出現したのだ。そして、そのまま、攻撃を取りやめることもできず、化け物を殴りつけた。
「ぐおおおおおっ!?」
マクスウェルが悲鳴じみた叫び声を発した。
よく見ると、赤い少年の黒き矛が悪魔の胴体の半ばにまで切り込んでおり、白い巨人の巨拳もまた、分厚い装甲を打ち破り、深々と突き刺さっていた。
「なんだこれは……!?」
マクスウェルは、状況を理解できずに半ば混乱しているようだった。
「なんなのだ、貴様らは!?」
愕然と叫びながら、無数の尾と翼を展開し、巨人と少年を遠ざけようと試みる。だが。
「なんなんだってのは、こっちの台詞だ!」
「その通りだ。うぬはなにものぞ」
ふたりの怒りを買っただけであり、白巨人は拳を引き抜くと、すかさず翼に叩きつけて破壊して見せ、赤い少年も矛を旋回させて尾をつぎつぎと断ち切ってみせた。マクスウェルの強固な鎧を容易く破壊する様には、ファリアたちも呆然とせざるを得ない。
「貴様ら……!」
マクスウェルが憤怒に巨躯を震わせた。四つの手の先に力を収束させるが、それらの腕もふたりの挟撃によって瞬く間に破壊されてしまう。
「ねえ……あれって、セツナよね?」
不意に尋ねてきたのは、ミリュウだ。疲労困憊の体を引きずりながら、近づいてきていた。
「え、ええ……間違いないわ」
遠目には真っ赤に見える全身は、大量の返り血を浴びているからのようだった。浴びた返り血が固まってしまっているのだろう。皮膚までが赤く見える。それでもセツナとわかるのは、手にした武器のおかげだったし、さっき少年が発した声が彼そのものだった。ただ、いままで聞いたことがないほどの怒りが込められていて、だからファリアは声をかけることさえできなかった。
聞いているだけで心が震えるような怒りが、彼の声には込められていた。だれに対する怒りなのかはわからない。ただ、とてつもなく怒っていることはわかる。そして、その烈しい怒りが彼の攻撃によって表現されており、マクスウェルの悪魔は瞬く間に解体されていった。四つの腕が壊され、十二対二十四枚の翼が砕かれ、折られ、破られていく。
「それで、あっちはグリフ……よね?」
「たぶん……」
こちらには、自信は持てなかった。
サントレアで見た巨人の姿とは大きく異なっていたからだ。巨人の体格そのものは変わっていない。マクスウェルの悪魔よりも一回り小さい。問題は、その外見だ。人間そのものを巨大化させたような巨人の末裔の姿からは大きく変化していた。全身、白い装甲のようなもので覆われていたのだ。外骨格を思わせる白い装甲には威圧感があり、強烈な存在感もあった。双眸から赤い光が漏れている。声そのものは、巨人のそれだったのだが。
「いったい……どういうこと?」
ミリュウが首を撚るのも無理はなかった。
セツナが現状、どのような状況にあるかもわからなかった。巨人の末裔にして聖皇六将のひとり、戦鬼グリフは、セツナを味方してくれているはずではなかったか。セツナとともにベノアガルドの騎士団にあたってくれていたはずではなかったのか。無論、今日まで騎士団との戦いが続いていたとは考えにくい。いくらセツナでも、そういつまでも十三騎士と戦い続けられるわけもないからだ。折を見てマルディアから脱出し、解放軍との合流を目指してくれているとだれもが考えていた。だが、どうやらそうではなさそうだった。
セツナとグリフは、突如として出現した。
空間転移。
おそらく、黒き矛の能力だ。
血を媒介にした空間転移が起きたのだ。
「それが俺らにもさっぱりなんだよな」
「そうなのでございます」
声に驚くと、白髪の美女と黒髪の使用人が呆然とした様子でセツナとグリフとマクスウェルの戦いを見ていた。
「シーラ……レム! あなたたちまで?」
ファリアが驚きの声を上げると、シーラたちの後ろから手を振ってくる男がいた。黒髪の美丈夫は、なんともいいようのないしまりのない表情を浮かべている。
「大将が現れたと思ったら、気がつきゃあ別の場所に移動してるしさ、大将ったら戦闘に夢中で耳を貸してくれもしねえ」
「あんたもいたんだ」
ミリュウがつまらなそうにいう。
「そりゃあねえぜ、ミリュウ殿」
「あっしらもいますぜ」
そういってエスクの背後からひょっこり顔を覗かせたのは、ドーリン=ノーグだ。レミル=フォークレイもいた。彼らの部下や、黒獣隊の隊士の姿は見当たらない。
「エスク様のおっしゃるとおりなのでございます。突然、御主人様とグリフ様が現れ、気が付くと別の風景の中にいたのでございます。それから場所を転々と……」
「転々と……」
「あいつらの激突のたびに空間転移が起こったんだよ」
シーラが肩をすくめて、セツナを見やった。
彼らの話を聞く限りでは、セツナとグリフの激突によって生じた空間転移に巻き込まれてここまで連れてこられたということだ。黒き矛がグリフの肉体を切り裂き、血を流すたびに空間転移が発動したのだろう。空間転移は血を媒介にする。精神力の消耗も激しく、度重なる空間転移は、セツナに多大な負担を強いていることだろう。しかし、いまファリアたちの眼の前にいるセツナは、疲労している様子もなかった。
怒り狂っている。
「黒き矛……目覚めたんだ?」
「おそらく、そういうことになるわね」
黒き矛は、あるときから能力が使えない状態になっていた。
ニーウェ・ラアム=アルスールが召喚武装にして黒き矛の眷属たるエッジオブサーストの吸収後、黒き矛は完全なものになったという。失われた力を取り戻し、ただでさえ強力だった黒き矛は、さらに強大化したというのだ。だが、そのときから、セツナは黒き矛の能力を使うことができなくなっていた。
いわく、眠りについた、という。
それからというもの、セツナは、黒き矛の目覚めを待ち続けていた。召喚武装は、それだけでも強力な武器ではあるが、やはり強力な能力が使えて初めて魔法の武器といえる存在となるのだ。それでも、能力が使えずとも複数人の十三騎士と対等に戦い抜いて見せたのだから、真の力を得た黒き矛がどれだけ強力なのかはよくわかるというものだろう。
マルディアの戦いの中でも、黒き矛は目覚めなかった。
目覚めないまま、サントレアでの殿軍をセツナに任せなければならないのは、苦痛というほかなかった。能力の使用は精神力の消耗でもあったが、能力使用の可不可は生死を分けかねないことだ。できれば、黒き矛が目覚めてからがよかった。無論、そうもいってはいられないのはわかっていたし、納得するしかなかったが。
「ふざけるな!」
マクスウェルの憤怒を込めた絶叫によって、ファリアは意識をそちらに向けた。
白き巨人と赤い少年に挟まれ、凄まじいまでの破壊の嵐に巻き込まれた怪物は、もはや原型を留めぬほどにずたぼろの状態になっていた。四つの腕は破壊され、竜の首も切り落とされていたし、無数の尾はことごとく切断され、翼もすべて粉砕されていた。それらは再生を始めているのだが、復元しなければならない箇所が多すぎるからか、その速度は遅々たるものだった。とても、即座に反撃に出られるようなものではない。
「わたしが二十年かけて紡いだ術式が、時の悪魔がこのような馬鹿げた出来事で終わってたまるか!」
「うるせえ!」
「ふざけているのは、うぬだ」
「おおおおおおおっ!」
マクスウェルが咆哮し、悪魔の鎧の全力を解き放つ。鎧の表面に神秘的な紋様が浮かび上がり、爆発的な力が奔流となって噴出する。渦を巻き、吹き荒れる。
「俺らの戦いの邪魔をするんじゃねえ!」
「我らの戦いの邪魔をするな!」
セツナが怒りに任せた斬撃を放ち、グリフもまた、怒気を込めた拳を叩きつける。またしてもふたりの攻撃がマクスウェルの悪魔を挟み撃ちにしたのだ。溢れる力の奔流さえ無視する強烈な一撃は、マクスウェルの悪魔の胴体を突き破り、内部にいたマクスウェル本人をも粉砕した。マクスウェルの断末魔が響き渡る中、マクスウェルの悪魔から噴出した力が爆風となって吹き荒れ、極彩色の光が嵐の如く舞い踊った。
時の悪魔は、マクスウェルの肉体ともども粉々に砕け散り、セツナとグリフの周囲に散乱した。
ファリアたちは、ただ、呆然とするほかなかった。
自分たちがあれだけ苦労して戦った強敵がこうもあっさりと倒されるなど、想像もできないことだった。
「いやまあ、絶体絶命の窮地にセツナがきてくれて、助けてくれるなんて、これ以上ないくらい素敵な出来事なんだけどさ」
ミリュウの独り言が、ファリアの心情を表してもいた。
一方、セツナとグリフは、マクスウェルのことなどどうでもよかったのだろう。
「続きだ」
「いくぞ!」
セツナとグリフが戦闘を再開し、白い巨人の拳と黒き矛が激突した。
ファリアは、そんなセツナの様子をなんともいいようのない心境で眺めていた。