第千四百六十二話 時の悪魔(六)
「嘘……!?」
「あれだけの攻撃を喰らっても無事だというのか?」
「なんて力……」
ミリュウや皆が唖然とした声を上げた。彼女の全身全霊を込めた疑似魔法さえ、マクスウェル=アルキエルを倒すことはできなかったのだ。しかも、圧倒的な魔法攻撃によって半壊へと追い込んだ召喚武装は、既に復元を始めている。その修復速度こそ落ちているものの、このままではもとに戻ってしまいそうだった。
「いや、あとひと押しだ」
励ますようにいったのは、カインだ。翼なき銀の龍は、地を蹴り、黒い悪魔へと向かう。復元途中の尾がカインを迎撃するべく地を薙ぎ払うが、彼はそれを軽く飛び越え、悪魔へと肉薄する。悪魔の背後から、シルフィードフェザーの羽弾が殺到し、さらに別方向から火球が飛来する。アスラだ。そこへルクスとトランのふたりが続き、猛攻を畳み掛ける。マクスウェル本人を狙ったカインの拳は再生した右腕に妨げられ、羽弾は翼に防がれ、火球は尾で吹き払われる。ルクスの剣は左腕に受け止められると、トランの刀はマクスウェルの羽弾に打ち砕かれた。召喚武装でもない刀では、そうもなろう。すかさず飛び退いたトランに向かって、アスラが長刀を投げて寄越す。
「あなた様が“剣聖”ならば、使いこなせるはずですわ」
「召喚武装か。ありがたく使わせていただく」
長刀を受け取ったトランは、見違えるような動きでマクスウェルに接近し、ルクスとともに悪魔を翻弄した。
ルウファが攻撃に専念するためか、ファリアの近くにミリュウを下ろした。ウルクもまた、ファリアを地上に下ろし、戦闘に参加する。ファリアは消耗のため、オーロラストームによる援護さえできなくなっている。ウルクに抱えられたままでは、彼女の戦いの邪魔になるだけだ。
「アスラ、あなたはどうするつもり?」
「わたくしは、応援しております」
「そうね……後ろに下がっていなさい。あなた、無茶しすぎよ」
「お姉さま……」
アスラが感極まったようにつぶやいたが、ミリュウのいうとおりだった。アスラは、マルダールでのミリュウとの戦いで全身に魔法攻撃を受け、戦うことなどできないほどの重傷を負っていた。グロリアのエンジェルリングである程度回復してはいるものの、それでも長時間の戦闘行動など不可能に違いなかった。
そしてそれは、ファリアを含めた皆にもいえることだ。
皆、負傷や消耗、疲労により限界に近づきつつある。
トラン、ルクス、カイン、ウルクの畳み掛けるような連携攻撃も、黒い悪魔の腕や尾をわずかに損傷させることができるのみであり、致命傷を与えることはまったくできていなかった。鎧の再生速度は、少しずつ戻りつつある。ミリュウの魔法攻撃による後遺症とでもいうべき影響が薄れたのだ。
「いったはずだ。わたしは二十年かけて呪文を継ぎ足し、術式を多重構築してきた、と。貴様らの術式にはどれだけの時間を費やす? 一分か? 二分か? それとも十分……そこまでかかるまい。その程度では、その程度の攻撃では、貴様ら程度の力では、わたしを倒すことなど不可能!」
マクスウェルの発言は、正しいのだろう。二十年もの長きに渡り、紡いできた呪文の成果、作り上げてきた術式の結果が、それなのだ。黒い怪物。マクスウェルがいわく、時の悪魔。もはやただの召喚武装とは比較にならないほどの力を持つそれは、かつてオリアス=リヴァイアがザルワーンで召喚した守護龍やクルセルクに召喚した鬼神にも匹敵しうるかもしれなかった。
絶望感が、ファリアの腕を震わせる。オーロラストームを握る手に力が入らない。消耗しすぎている。二度に及ぶ最大威力の攻撃による精神力の消耗があまりに大きすぎた。いまさら閃刀・昴を召喚するわけにもいかない。召喚することさえできないかもしれない。それくらい、消耗していた。
だが、そんな状況にあっても。ルクスたちは攻撃の手を緩めなかった
「勝手にいってろ!」
“剣鬼”と“剣聖”の連撃が悪魔の尾を切り裂き、翼を切り刻む。そのたびに再生し、瞬く間に復元するのだが、損傷した瞬間は相手も攻撃を諦めざるを得ない。ルクスたちは、とにかく攻撃を畳み掛けて相手に行動をさせまいとしているのだ。カイン、ウルクもその猛攻に参加し、グロリア、ルウファも上空から嵐の如き連続攻撃を行っている。
「無駄だ」
マクスウェルは嘲笑い、右手でグレイブストーンを、左手でアスラの長刀を掴み取った。ふたりの剣豪は、剣もろとも投げ飛ばされ、さらに続く暴風のような攻撃がウルクとカインを吹き飛ばした。そして翼が黒い衝撃波と巻き起こし、グロリアとルウファを叩き落とす。
「我は時の悪魔。無にして有なり。零にして全なり。始まりにして終わりなり。時の始端より終端までも喰らい尽くし、なにもかも無に帰そう」
力に酔ったようなマクスウェルの言葉とともに、黒い悪魔の全身が完全に復元した。そして、力の奔流が渦を巻き、ジゼルコート邸前庭に破壊の嵐を起こす。マクスウェルの悪魔を中心とした全周囲のなにもかもが消し飛ぶかのようであり、ファリアたちも例外なく吹き飛ばされた。
「ぐっ……」
地面に背中から激突し、一瞬、呼吸ができなくなる。その上。オーロラストームが握力を失った右手から離れてしまい、ファリアははっとした。召喚武装の補助を失ったことで、あらゆる感覚が正常化する。それは、武装召喚師との戦闘では犯してはならない失態だった。しかし、いまさら取り戻せるものではない。上体を起こしたファリアの視界にオーロラストームは見当たらない上、見つかったとしても取りに行くだけの隙があるのかどうか。
マクスウェル=アルキエルは、依然、ファリアたち敵対者の動きを注視しているに違いなかった。
すると、ウルクが駆け寄ってきて、なにかを差し出してきた。よく見ずともわかる。オーロラストームだ。
「これを」
「ありがとう。助かるわ」
無論、いまのファリアがオーロラストームを手にしたところで、味方を援護することさえできないのだが、ないよりはいいはずだ。少なくとも、召喚武装を手にしていることで五感や身体能力は強化される。それだけで、味方の足手まといになる可能性は減る。いまファリアにできることといえば、皆の足を引っ張らないように振る舞うことだけだ。
ウルクは、なにもいわず、マクスウェルに向き直った。彼女の身につけた《獅子の尾》の隊服がぼろぼろになっている。露出しているのは、もちろん人間の素肌などではなく、魔晶人形の外殻だ。
「戦力差は圧倒的。一時撤退を提案します」
「撤退なんてできるわけないわ」
「しかし、このまま戦い続けても、倒せる保証はありません」
「わかってるわよ、それくらい」
ファリアはウルクに強い口調でいうと、ゆっくりと立ち上がった。体の節々が痛む。特に骨折中の左腕が悲鳴を上げている。マリアに怒られるのは間違いない。
(わかってるわ……)
だが、それでも戦わなければならなかった。
戦い、倒さなければならないのだ。
ここでマクスウェル=アルキエルを放置すればどうなるかわかったものではない。そもそも、見逃してくれるわけもない。逃げるだけで多大な被害を覚悟しなければなるまい。そして、そんな状況で逃げ帰れば、レオンガンドの評判は地に落ちかねない。征討軍が撃退されたという評判は、ガンディアの威信に関わることだ。
逃げることはできない。
それに態勢を立て直そうにも、立て直したところでどうにかなるような相手とも思えない。
マクスウェル=アルキエルが消耗し尽くすのを待つという手もあるにはあるが――。
(この状況、そんなことをいっている場合じゃあないわね)
マクスウェル=アルキエルは、消耗しているようには見えなかった。むしろ、絶好調といった有様だ。
「どうした? これで終わりか? 威勢が良かったのは口だけか? もっと抗ってみたまえ。もっと、もっと、わたしを楽しませてくれ。これはわたしの最後の戦いなのだ」
「最後……」
ルウファに肩を貸されながら立ち尽くすグロリアが、マクスウェルの言葉を反芻する。
「そうだよ、グロリア。これはわたしの全生命を賭けた召喚だ。送還した瞬間、わたしは死ぬ。だが、逆をいえば、召喚を維持していられる限り、わたしは死なないということだ。そして貴様らが生き延びるには、わたしを殺すしかないということだ」
マクスウェルが周囲を見回す。異形の獅子の頭部から幾つもの目が赤い光を発し、両肩から伸びた合計四つの竜の首が威嚇するように口を開く。十二対の悪魔の翼が輝きを帯び、数え切れないほどの尾が悪魔の巨躯をさらに巨大に見せる。ミリュウの疑似魔法で損壊した部位を復元するだけでなく、さらに強化してみせたのだ。腕も四つに増えているし、足もより凶悪なものになっている。
「さあ、立て。立ってみせてくれ。貴様ら愚か者の意地を。意地汚くも生き延びようとする意志を。そしてそういう貴様らを叩き潰し、わたしの考えが正しかったことをこの世に証明し、その上でジゼルコート殿に勝利を献上しよう」
「……いわれなくても立ってやるさ」
マクスウェルの悪魔が哄笑する中で、地に伏していたルクスが剣を杖代わりに立ち上がった。その反対側で、トラン=カルギリウスが長刀を構えており、右後方にカインがいた。カインは左腕の篭手さえ破壊されているのだが、その様子からは闘志は失われていないようだ。
「男どもってどうして元気なのかしらね、あたし、もうだめだめなんだけど」
「お姉さまは仕方ありませんわ。あれだけの力を使ったのですから」
ミリュウとアスラの話し声は、左後方から聞こえた。振り向くと、瓦礫に埋もれるようにして佇むふたりがいた。
「そうよ、ミリュウ。あなたはよくやったわ。だめなのはわたしのほうよ」
「ファリアだってやれることはやったでしょ?」
「そうだけど……」
それが勝敗に一切関係がないとなると、苦い顔にならざるをえない。ファリアの攻撃は、ミリュウの疑似魔法とは異なり、まったく通用しなかったのだ。鎧をわずかに損傷させる程度に留まり、マクスウェルの力を引き出させることさえできなかった。結果そのものに違いはない。違いはないが、自分の無力感に打ちのめされざるを得ない。
「そうだ。それでこそだ。わたしが命を費やしたのだ。貴様らも命を賭して立ち向かってこい。でなければ、面白くもないだろう?」
「うるせえ、俺はやりたいようにやるだけだっての」
ルクスが、地を蹴るのと同時にトラン、カイン、ルウファ、グロリアが動く。それぞれが縦横無尽に動き回る無数の尾を武器でいなし、飛んでかわし、掻い潜りながら悪魔へと接近し、振り下ろされる腕を受け止め、翼による薙ぎ払いを飛び越え、竜の頭からの火球や氷塊を辛くも対処し、なんとか見出した隙に攻撃を叩き込んだ。ルクスのグレブストーンがあざやかな剣閃を描けば、トランの長刀が見事な太刀筋を見せ、カインの壊れた左腕が竜の首を叩き潰し、グロリアとルウファの二重竜巻が無数の尾を巻き上げる。
「それだけか?」
マクスウェルの余裕に満ちた声が響く。効いていないのだ。
「ここからです」
いつの間にかマクスウェルの頭上へと跳躍していたウルクが、宙返りしながら、左腕を地上に向けていた。手の先に集まった光が瀑布となって降り注ぎ、黒き悪魔を飲み込む。至近距離からの波光大砲。まばゆい光の濁流がなにもかもをあざやかに塗り潰す。そして、波光砲の着弾による大爆発が大地を揺らし、大気を震わせた。衝撃波がファリアたちを軽く吹き飛ばす。それほどの爆発。だが、しかし。
「無駄だといった!」
マクスウェルの声が、爆光を吹き飛ばした。ウルクも吹き飛ばされ、ファリアの近くに落下してくる。波光大砲による損傷は、瞬く間に復元し、黒い悪魔の回復力がさらに増大していることがわかる。至近距離からの波光大砲の直撃さえも、致命傷を与えられないということは、いま、ファリアたちが持ちうる攻撃手段では倒せないということではないのか。
絶望が顔を覗かせる。
黒い悪魔。
それこそ、絶望そのものの姿なのかもしれない。
「ふはははは……! 力が漲るぞ……! まだまだわたしは戦える!」
黒い悪魔が掲げた四本の腕と四つの竜の顎、そしてすべての尾の先に莫大な力が凝縮し始めていた。大気が震え、大地が揺れる。膨大な力が世界に影響を及ぼし始めている。右手がこちらを向いていた。解き放たれれば最後、ファリアはこの地上から消滅するだろう。しかし、避けようにも体が動かなかった。
(ここまで……なの?)
ファリアは、視界が歪むのを目撃して疑問を感じた瞬間、凄まじい衝撃波に煽られ、軽々と吹き飛ばされた。
そして、目を疑うような出来事が起きたのだ。
「おらあっ!」
「おおおっ!」
咆哮とともに振り抜かれた白き巨人の拳と、黒く禍々しい矛が、黒き悪魔を挟み撃ちに激突したのだ。