第百四十五話 悪夢
たとえばそれが悪夢だったならば、彼女は喜んだかもしれない。
どれほど恐ろしく、凄惨なものであったとしても、悪夢ならば終わりがあるのだ。目が覚め、瞼を開けた時に訪れる現実が、悪夢の記憶を多大な情報の奥底に封印してくれる。そして、時とともに不確かで、不明瞭な幻へと形を変え、消えていく。
悪夢ならば、過去のものと成り果てる――。
ミリュウ=リバイエンは、瞼をこじ開けて、視界に映るものを見た。暗闇の中に立ち込めるのは血の臭いで、足元に転がっているのは死体だ。昨日の仲間は今日の敵であり、今日の友は明日の仇。それがこの狭い世界に定められた唯一絶対の法理であり、その掟に従わなければ、生きていくことすらかなわなかった。
生きて、なんになるのか。
疑問は、生への渇望と執着の前に消えて失せる。
死ぬよりはましだ。
だれかはいい、別のだれかはこうもいう。
死んだほうがましだ。
どちらも正しいのだろうが、彼女としてみれば彼らの戯言などどうだってよかった。その日一日生き延びれば、いつか空の下を歩ける時が来る――そう信じることは、生きる活力となった。長い間闇の底にいても、光を信じることが出来たのは、何人かの仲間が地上に出て行くのを見送ったからだ。そのたびに、なぜ自分ではないのかと激昂するのだが、怒りの矛先を向ける相手は決まって、昨日の仲間だった。
そうやって、何人もの仲間を殺してきた。
血で血を洗え。
死で死を飾れ。
ここは蟲毒の坩堝。
生き抜くには、相手を殺すしかない。
悪夢などではない、厳然たる現実の前には絶望さえも生ぬるい。それでも、生きようと足掻く。死ぬよりよほど難しく、死ぬよりよほど険しい道程。仲間との闘争に疲れて死にたがるものも増えてきた。最初の数百人が、いまや数えるほどしか残っていなかった。互いに殺しあい、数を減らしてきたのだ。
ミリュウ=リバイエン。ザルワーンを支配する五竜氏族リバイエン家の令嬢として生まれた彼女が、こんな地獄のような世界に落とされたのは、彼女に跡継ぎとしての資格がなかったからにほかならない。弟が生まれ、資格が彼に移ったのだ。氏族の頭首は、女よりも男を優先する。氏族に男児がいない場合に限り、女を跡継ぎとし、頭首の座につくことができた。弟さえ生まれなければ、彼女はいまごろリバイエン家の次期頭首として、人生を謳歌していたに違いない。
ミリュウだけではない。この地獄に落とされたのは、五竜氏族の次男三男や次女三女が多く、だれもが上流階級の幸福な生活から地の底に叩き落とされて、絶望にもがき苦しみながら生きていた。いや、多くは死んだ。ミリュウや、生き残ったものたちの手にかかって、命を落とした。リバイエン家への呪詛と怨嗟の言葉を吐きながら、死んでいった。
「リバイエン家を呪ってやる」
「あなたの父親が憎い」
「おまえら親子がいなければ」
断末魔に何度聞かされただろう。それこそ、耳が痛くなるくらいに吐き捨てられた言葉の数々は、いまや彼女の心になんの波風も起こさなくなるほどに聞き飽きていた。波紋さえも起こらない。彼女自身、死んでいった彼らと同じ気持だった。
この地獄を開いたオリアン=リバイエンへの憎悪は、日に日に増していくばかりだった。たとえ彼がミリュウの実の父親であっても、許せるものではない。いや、実の父親だからこそ、許せないのだ。
オリアンは、ミリュウを愛してなどいなかった。
その事実を理解したとき、彼女は生きることに決めた。この惨禍の中を生き抜き、地上に出て、探しだして殺してやる。
それだけがミリュウの原動力となった。
「ミリュウ=リバイエン、出ろ。総帥がお呼びだ」
彼女が獄から解き放たれたのは、憎悪が醸成され、一種の芸術品の水準にまで到達した頃だった。だから、ミリュウは、魔龍窟総帥オリアンと対面しても、即座には飛びかからなかったのだ。
彼を殺すのは、もっと後でいい。生かして、生かして、生かして、絶望の淵に追い詰めて、さらに生かし、ほっとしたところで息の音を止めたい。そうでもしなければ、彼女の中の悪夢が覚めない。あの輝かしい幼少の日々は、いまや悪夢のように網膜の裏に漂い、ミリュウの意識を苦しめている。
「諸君、魔龍窟での長年の務め、ご苦労だった」
甲高い父の声は相変わらずだったが、ミリュウは落ち着いて聞いていた。むしろ、同時に獄から開放されたクルード=ファブルネイア、ザイン=ヴリディアたちのほうが興奮しており、いつオリアンに襲いかかってもおかしくはなかった。そして、彼らが父に襲いかかったとしても、ミリュウは止めないだろう。彼らに殺されるのを見届けるだけでも、悪夢は消え去るかもしれない。
「君らを解放したのはほかでもない。魔龍窟は解体されることが決まったのだよ」
至極残念そうな物言いは、彼がこの狂気の世界を堪能していたからの他ならない。実験、などと嘯いてはいたが、こんなものが実験などであるはずもなかった。ただの殺し合いだ。武装召喚術を用いた戦争にも似た、殺戮舞踏。
魔龍窟は、優れた武装召喚師を育成するための機関として発足したはずだった。しかし、オリアンが総帥となったときから、その目的がずれ始めたと囁かれており、真実なのだろうとミリュウは推測していた。
国の求める優れた武装召喚師とは、ある程度の召喚武装を使いこなすことのできる人材であればよく、平均より上か、水準程度の能力であればよかったのだ。数さえ揃えることができれば、たとえ水準程度の実力であったとしても、他国に対し圧倒的な火力を誇ることが出来た。
しかし、オリアンが追求したのは、人間が到達しうる高みにより近いものであり、究極的な少数精鋭だった。そのために多くを犠牲にしても構わないという彼の考えを止めることがだれにも出来なかったのは、魔龍窟が前国主の頃から権力の及ばぬ立ち位置にあったからなのだろうが。
「君らはこれより、ザルワーン国主ミレルバス=ライバーン様の爪牙となってもらう。拒否権はないよ」
オリアンは、なにが愉快なのか、ことさらにけたたましく笑った。
ザインが興奮のあまり飛びかかったが、左右に控えていた男たちに取り押さえられた。さすがにこちらの心理状態まで把握していたらしい。だが、ザインの鍛えあげられた肉体は、屈強な男たちにも抑えきれるものではなかった。ザインはふたりの巨漢を跳ね飛ばすと、オリアンに襲いかかった。が、つぎの瞬間にはミリュウの隣に戻っていた。彼はまだ興奮している様子だったが、少しずつ収まりつつある。
見ると、ザインは口に小指を咥えていた。血が滴っている。オリアンの指だ。
「まったく、素晴らしい。これだ、これを求めていた」
しかし、オリアンは、苦痛に呻くことも、怒りに我を忘れることもなかった。右手の小指の噛みちぎられた部分を見つめながら、狂った様に笑っている。実際、狂っているのだろう。彼が狂気に支配されているからこその魔龍窟の現状だったのだ。そして、地獄に落とされただれもが狂ってしまった。
ミリュウは自分が正気を保っているなどと信じてはいない。むしろ、自分もまた彼らと同じように狂い、壊れていることを認めている。だから、ここで彼を殺そうとしないのだ。正気であれば、いまこそが好機だった。護衛は屈強なふたりの男と、後方に待機した雑兵が十人。ミリュウたち三人が力を合わせれば一瞬で制圧できる程度の戦力。殺すだけならば、いまを置いてほかはない。
しかし、オリアンの残忍な死に様を求める狂気が、ここでの殺戮を留めていた。そして、それでよかったのだろう。
「だが君らが殺すのはわたしじゃない。敵だ」
オリアンの言葉に、ザインが呼吸を抑えた。クルードも、彼のつぎの言葉に注目しているようだ。敵。倒すべき敵がいる。その事実は、彼女たちの血を沸き立たせた。悲しいことに、地獄の底で芽生えた本能は、狂気と正気の狭間にあっても抑えきれるものではなかったのだ。
敵を倒す。
それが彼女たちの存在理由だからだ。
「じきにガンディアが攻めてくる。そのときこそ、君らは本能の赴くままに殺戮したまえ。敵を殺せば殺すほど、戦後の君らの立場が変わると知っておくといい」
「立場……」
「もう一度地獄に落とされたくはなかろう?」
オリアンの言葉に、ミリュウは目を細めた。同意はするが、声にも出さない。確かに、もう二度とあの地獄を味わいたくはない。血で血を洗い、死で死を濯ぐ世界。
十年以上もの間、そんな闇の底を漂い続けてきたのだ。
光が欲しかった。
過去の記憶を悪夢と消してくれる、圧倒的な光が欲しかったのだ。