第千四百五十六話 愚者か賢者か
ケルンノールの高原に建てられたジゼルコートの屋敷は、とても領伯が住んでいる屋敷とは思えないほどに規模の小さなものだ。もちろん、一般市民の住居などよりは敷地も広く、建物そのものも大きいことは大きいのだが、セツナが龍府の天輪宮を住居にしていることを考えると、天と地ほどの差があるといっても過言ではなかった。
ケルンノールの街から遠く離れており、敷地の周囲四方を塀が囲い、堀が外周を走っている。屋敷は二階建ての母屋がひとつと、大きめの蔵がひとつ、それに厩舎があるくらいであり、本当に規模の小さな屋敷だった。
正門を抜けると質素な前庭があり、前庭をまっすぐ進めば母屋の正面玄関へと至る。正面玄関の扉はもちろん閉ざされており、ファリアたちは扉の前で立ち止まり、最終確認を行った。
「屋敷内部は説明した通りだ。ジゼルコート殿がいるとすれば二階の執務室か奥の部屋だろう」
そういってきたのはグロリア=オウレリアだ。メイルケルビムを装着した彼女は、まさに戦乙女のような姿であり、雄々しくすらあった。ジゼルコートの屋敷内部についてグロリアとアスラが詳しいのは、無論、彼女たちがジゼルコートの屋敷に長らく住んでいたからにほかならない。決して広くはない屋敷で肩を寄せ合うようにして過ごしていたという。屋敷内の構造は、ここに到着するまでの間に見取り図として書き出され、ファリアたちに手渡されていた。ファリアたちは、見取り図をしっかりと目に焼き付け、記憶している。
屋内で迷子になることはない。
つぎにアスラ=ビューナルが口を開いた。
「執務室は正面から丸見えですので、奥にいる可能性のほうが高いかと思われます」
彼女の身につけている召喚武装は、ミリュウ戦で使用した空王ではない。空王は、ミリュウとの戦闘で破壊され、召喚不能になってしまったのだ。修復されるまでのしばらくは別の召喚武装を用いなかればならない――のだが、アスラの話によると、空王はミリュウ対策のためだけの召喚武装であり、本来愛用する召喚武装は別にあるということだった。それが三鬼子と命名された召喚武装だということだった。三鬼子は、太刀の形をした召喚武装であり、能力はいまのところ不明だった。
「じゃあ手分けして探す必要はないみたいですね」
「あたしが屋敷もろとも吹っ飛ばすって手もあるけど」
ルウファがいい、ミリュウが続いた。ふたりとも愛用の召喚武装を呼び出し、身につけている。シルフィードフェザーとラヴァーソウル。いずれも強力な召喚武装だ。
「ないわよ」
ファリアはにべもなく告げながら、軽く頭痛を覚えた。確かにミリュウの疑似魔法ならば屋敷もろともジゼルコートを消し飛ばすことはできるだろう。マルダールの城門やヘイル砦を消し飛ばしたときと同じように、跡形もなく粉砕することくらい容易いのだろう。
ファリアの召喚武装は、無論、オーロラストームだ。左腕はいまだ使い物にならないものの、幸い、オーロラストームは右腕で使う武器であり、問題はなかった。攻撃力そのものは閃刀・昴のほうが高いのだが、生憎、閃刀・昴の召喚と維持には膨大な精神力が必要であり、使いこなせるようになるまではそう簡単に召喚できる代物ではなかった。使い慣れれば、消耗も抑えられるようになるのだが。
「なんでよ」
「あなたの方法だと、ジゼルコートの生死がわからなくなるかもしれないでしょう」
「……それもそうか」
「威力が高すぎるのも考えものですね」
「その高威力の攻撃で撃ち抜かれて無事なのもどうなのって話だけれど」
「それはミリュウお姉さまの愛の力に違いありませんわ」
「なにいってんだか」
ミリュウは、アスラが頬を染める様に憮然とするほかないといった様子だった。アスラのあふれるばかりのミリュウへの好意は、見ている側としては微笑ましいものなのだが、ミリュウ本人にしてみれば困ることなのかもしれない。
不意にグロリアが嘆息したのは、アスラがどういう人物なのかを知っているからなのか、どうか。
「……ジゼルコート殿配下の兵は、先程ので出尽くしたと見ていいだろう。あとは、ソニア=レンダールとマクスウェル師」
「ソニア=レンダールが召喚武装の使い手って話は本当なの?」
「事実だ。彼女の召喚武装ウェイブレイドは中距離攻撃を得意としている」
「中距離ね。遠距離からなら一方的に攻撃できるってわけか」
「ファリアに任せるわ」
「ええ。任されたわ」
ファリアは、ミリュウに威勢よく返した。ソニア=レンダールの召喚武装がどれだけ強力であっても、負ける気はしなかった。オウラ=マグニスより強いとは思えないし、またしてもオーロラストームの雷撃が封じられるとは考えにくかった。
「問題はマクスウェル師だが」
「お師匠様は強いですよ」
「聞いたわよ、散々」
「でも、どれだけ強くても、この人数が相手なら問題はないでしょう」
「まあ、な」
ルウファの確認するような言葉にグロリアは躊躇いもなくうなずいた。マクスウェル=アルキエルの弟子であるグロリアの目から見てそういう判断がくだされるのだ。なにも恐れる必要もなければ、不安がることもない。
「では、行きますか――」
ルウファが扉の取っ手に手をかけようとした瞬間だった。背筋が凍るような殺気がファリアの全身を貫き、グロリアが叫んだ。
「離れろ!」
玄関前にいた全員が後ろに飛び退いた刹那、正面玄関が轟音とともに爆散し、黒い奔流が玄関扉の破片とともに視界を飲み込んでいった。暗黒の瘴気の奔流ともいえるそれは、玄関を破壊しただけで虚空に溶けて消え、着地したファリアは、茫然と大きな穴の開いた玄関を見やった。
「皆、無事か!」
「え、ええ」
「だいじょうぶよ」
「もちろんですわ」
「なんとか」
四者四様の返答に胸を撫で下ろすグロリアに、ファリアは尋ねた。
「いまのは?」
玄関扉だけでなく、正面玄関そのものを破壊した黒い奔流。強烈な破壊の力。飲み込まれれば、人体など容易く破壊されてしまうだろうことは、想像できる。
「ウェイブレイドじゃないな。そして師の召喚武装でもない」
「じゃあ、なに?」
「お師匠様の新しい召喚武装と考えるのが正しいかと」
「だな」
「新しい召喚武装……」
「わたくしのミリュウお姉さま対策のように、集団戦闘用の召喚武装の術式を組み上げられたのかもしれません」
アスラは長刀を構えながら告げた。すると、正面玄関の奥から声が聞こえてきた。
「集団戦闘用か……いい線だ」
「お師匠様」
「マクスウェル師……」
アスラとグロリアが反応すると、正面玄関の奥からそれは姿を表した。おそらくもなにも、間違いなくマクスウェウ=アルキエル本人なのだろう。本人と言い切れないのは、それが異様な姿をしていたからにほかならない。黒く淀んだ空気がそれを包み込んでいる。それは、黒い怪物とでも形容するしかなかった。
「だが、実際は少し違う。これはもう少し複雑で、もう少し高度なものだ。だからだれもわたしの言に耳を貸さなかった。理解できなかったのだろう。リョハンの愚か者どもにはあまりにも高度な話だったのだ」
「リョハンの愚か者ども……ですって?」
ファリアは、正面玄関から前庭に向かって進んできたそれを見据えながら、聞き咎めるしかなかった。リョハンのことを馬鹿にされて黙っていられるはずもない。
「そうだろう。わたしの偉大なる発明に目も向けず、耳も貸さなかった連中を愚者と呼ばずしてなんという? 彼らは、戦女神が頂点の異世界に閉じ籠もった愚者の集まりに過ぎぬ。もっとも、わたしがその事実を理解したのは、リョハンの外に出てからのことだったがな」
黒い化け物は、いう。
マクスウェル=アルキエルの素顔や姿は、黒い甲冑に覆い隠されており、顔面もそれ以外の部分も完全に見えなくなっていた。全身鎧型の召喚武装なのだろうが、それにしても巨大だった。マクスウェル本人の身長がどれくらいのものなのかわからないが、少なくとも召喚武装が彼の身の丈をより大きく見せているのは間違いない。成人男性の身長の二倍近くはあるのだ。もちろん、背が高いだけではない。巨大な脚具や篭手、肩当てなどを見れば、全身が膨張しているようにも見えた。どの部位もただの防具とは異なり、禍々しい生物めいた意匠となっている。肩当ては大蛇のようであり、篭手からは爪が伸び、兜は獅子の頭部を模していながら角が生えており、鬣が逆だっている。背からは翼が生えているだけでなく、二対の尾が伸びていた。様々な生物を合成させたような形状の鎧は、ただそれだけで威圧感がある。能力は不明。ひとつは、先程の衝撃波なのだろうが、それだけとは思えない。翼があるのだ。最低でも飛行能力は有しているだろう。
「あの世界では、戦女神が天地のすべてだった。それで良かったのだ。あの狭い天地においては、それが正義であり、それがすべて。なんの問題もなかった。愚者の世界。愚者だけで回る世界。なんの問題がある? 賢者など不要なのだ。わたしのようなものは、リョハンを出る以外に道はなかった」
「まるであなたが賢者だとでもいいたげね?」
ミリュウが冷笑すると、マクスウェルは彼女に顔を向けた。
「そういっているのだがな」
「随分、自分のことを高く買っていらっしゃる。それこそ愚かだと思わない?」
「わたしが愚かなのか、わたしを評価しなかったリョハンが愚かなのか、いまにわかる」
マクスウェルは、ミリュウの挑発を意にも介さなかった。きわめて冷静に彼女に言葉を返している。
「君らを倒し、ジゼルコートに勝利をもたらそう。さすれば、わたしの武装召喚術こそがこの世でもっとも価値があるということが証明されるはずだ」
マクスウェルの頭部がこちらを向いた。兜に隠れた彼の目が、ファリアを捉えていた。
「そうだろう。ファリア・ベルファリア=アスラリア。戦女神の孫よ」
マクスウェルが左腕を掲げた瞬間、ファリアは咄嗟に右に飛んだ。黒い衝撃波が視界を過り、地面を抉った。
土砂が舞う。