第千四百五十二話 本懐の在り方
ケルンノールは、ガンディア南東に位置する。
古代言語で輝く高原という意味だったはずだが、その名の通り、ケルンノールの大部分が高原地帯だった。土地柄もあって、古くからガンディア軍が使う軍馬を育成しており、ジゼルコートは、ケルンノールの領伯に任じられたときから、軍馬の育成を一手に引き受けていた。現在、ガンディア方面軍が使用する軍馬の大半がケルンノール産であり、ケルンノールの馬の良さについては周辺諸国も喉から手が出るほどに欲するほどだった。
それだけの馬だ。交渉材料にもなるし、交渉を持つための動機にもなる。
ジゼルコートがふとそのようなことを考えたのは、自分の人生を振り返るときがきたからなのかもしれなかった。
つまり、死が近い。
死が、迫りつつある。
彼は、窓に映る己の顔の無表情ぶりに苦笑した。死の運命が目の前に迫ろうともなにも感じていないのだ。感じる心はとっくに死んでしまったというべきかもしれない。
二年前のあの日、心は死に、肉体も死へ向かうだけの抜け殻と成り果てた。
窓の外には闇が広がっている。
夜の闇。
陽の光を浴びて輝く高原も、すべてを喰らい尽くす夜の闇の前では影に沈むしかない。もちろん、高原を闊歩する軍馬たちの姿などあるわけもない。夜だ。夜。大陸暦五百三年五月三日の夜。王都ガンディオンを奪還され、戦力の尽くも失い、彼はケルンノールの居所に逃げ帰ってきたのだ。
無論、生き抜くためではない。
「戻ったのなら戻ったで一言声をかけてくだされば良いものを」
低い声に振り向くと、長衣を着込んだ老人が部屋に入ってくるところだった。マクスウェウ=アルキエル。老齢であることを感じさせない挙措動作は、彼が武装召喚師としての鍛錬をいまも怠らないことを思い出させる。さすがに全盛期ほどの筋力はないものの、若者にも負けないくらいの体力はあるらしい。そして長年鍛え続けてきた彼の精神力は、それら若者には到底辿り着くことのできない極みに達していることだろう。落ち窪んだ目の鈍い輝きは、彼がいまもなお現役であることを示している。
「ああ、そうでしたな」
ジゼルコートは彼に向き直ると、窓辺から離れた。広い室内。魔晶灯の光が天井から降り注ぎ、調度品を照らしている。
「しかし、生き恥を晒している状態であなたに声をかけるというのは、どうも」
「なにを仰る」
マクスウェルは、笑いもせず、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「生きることは恥ではありますまい。生きようとすることが恥ならば、わたしもまた、恥の塊ですな」
「それは違う。わたしは敗れ去り、ここにいるのです。あなたは違うはずだ」
「いや……同じですよ」
マクスウェルは、頭を振り、再びこちらを見た。彼の表情には苦い悔恨が浮かんでいる。
「わたしもまた、敗れた。リョハンという権力の魔窟に敗れ去り、地に堕ちたのです。恥を忍ぶように生きながらえて今日まできた。それもこれも、伯、あなた様のおかげでございます」
「……感謝するのはわたしのほうです」
ジゼルコートは、マクスウェルの対面の椅子に腰を下ろした。彼とは、いまこそじっくりと話し合う時間を持ちたかった。
「あなたのおかげで、わたしは存分に戦えた。戦い抜くことができた」
「……満足ですか?」
「少々、不満も残りますが、十分でしょう。わたしはわたしにできるだけのことをした」
レオンガンドへの、ガンディアへの挑戦。
挑戦は失敗に終わったが、ジゼルコートという個人が国をふたつに分断し、混乱を起こすことができたのだ。個人だ。個人の力が、国を二分するほどの状況を作り上げた。誰にも真似できることではない。少なくとも、今後ジゼルコートのようなものがこの国に現れることはないだろう。これまでの歴史を振り返ってもそうだ。
国王ほどの権力者でもなければ、国を混乱させる個人など存在しえない。
個人の力で、国を二分するほどの勢力を作り上げることができたのだ。王宮を制し、王都を制し、本土を制し、ログナー方面までも制し、ザルワーン方面にさえ勢力を及ぼしかけていた。あと少し。もう少し時間があれば、ザルワーン方面さえも彼の掌中に収まったかもしれない。そしてそうなれば、レオンガンド率いる軍勢にももっと対抗できたかもしれない。可能性の話だ。たとえザルワーンを落とすことができていたとしても、結果は変わらなかっただろう。
ジゼルコートは、最初から敗れていた。
ナーレス=ラグナホルンの策によって、亡霊の策によって、敗れ去るさだめの中にいたのだ。どう足掻こうとも失敗に終わるよう、入念に準備されていた。デイオン=ホークロウ、エリウス=ログナーというふたつの牙がジゼルコートの喉元に食らいついていた。たとえザルワーン方面をジゼルコートが掌握していたとしても、レオンガンド軍に対し優勢だったとしても、エリウスとデイオンの気分次第で、獅子王宮は落ちていたのだ。少なくとも、ジゼルコートの賛同者は皆殺しにされただろうし、ジゼルコートが王都から撤退すれば、その時点で求心力を失うことになっただろう。
ただ、この度、デイオンもエリウスもすぐには動かなかった。もっとも効果的な瞬間を待ち続けていたのだろう。レオンガンドの勝利を信じてもいたのだ。レオンガンドがジゼルコート軍を打ち破り、王都に肉薄することを信じ続けていたのだ。そしてそのときこそ、ジゼルコートに牙を突き立てるときだと考えていたに違いない。
事実、その通りとなった。
ジゼルコートは、デイオンとエリウスの裏切りによって王都を放棄せざるを得なくなった。あの場を切り抜けることそれ自体は難しいことではない。ソニア=レンダールひとりでデイオンらを抹殺することくらいはできただろうが、そんなことに意味はない。すぐさまレオンガンド軍が到達するのだ。どうせ王都を放棄しなければならなくなる。
それならば、デイオンを殺すなどという愚を犯すまでもない。
デイオンは、有能な将だ。今後のガンディアには必要な人材だった。少なくともジゼルコートはそう見ていたし、レオンガンドもそう評価しているだろう。
謀反が失敗に終わるとわかった以上、悪足掻きをしてまでガンディアの未来を曇らせる必要はなかった。そんなことをするために謀反を起こしたわけではない。反逆したわけではない。戦ったわけではない。
「わたしはわたしの望むままに戦い、存分に敗れた。これ以上、なにを望もうというのか。もはやなにもいりますまい。残すは我が身の後始末だけ」
レオンガンドへの謀反。
それこそ、ジゼルコートの望みだった。
レオンガンドに挑戦することだけが、彼の願いであり、それに敗れ去った以上は、足掻き、もがき、醜態を晒すなど考えられないことだ。戦力を尽く失い、我が子も失った。あと失うべきは、自分の命だけであり、それ以外のなにも失うことはない。そんな風に考えている。
「そのためにここまで戻ってきた、と」
「ええ。死に場所くらいは自分で決めても良いでしょう」
王宮、それも玉座の間を死に場所にはしたくなかった。玉座の間を穢すなど、王家の血を穢す行いにほかならない。
「……確かに」
マクスウェルは、深々とため息をついた。そして思わぬことをいってくる。
「しかし、それではわたしが困る」
「なぜです?」
「それでは、あなたへの恩返しができないではないですか」
「恩返しなど……」
ジゼルコートは、予期せぬ言葉に喉を詰まらせた。まさかマクスウェルがそのようなことをいってくるとは思いもしなかったのだ。
「この十数年、わたしはあなたの世話になり続けてきた。益体もなく術の研究を続けるだけの老人を世話してくれていた。なにも聞かず、なにも求めず、なにも願わず。ただ、居場所を用意してくれた。わたしには、これほどありがたいことはなかった。思う存分、術の研究を行うことができたのだから」
「それは買いかぶりですよ。わたしはあなたに求められるだけ求めた。そうでしょう。我が息子ゼルバードが武装召喚師となることができたのは、あなたに師事したおかげだ」
「それも、研究の一貫に過ぎなかった」
マクスウェルは、渋い表情で告げてくる。それがまるで事実であるかのようにだ。しかし、実際は違うはずだ。術の研究と武装召喚術を教えることは、まったく違うことだ。なにも知らない素人に術を一から教えるということは、片手間にできることではない。術の研究の時間を割く必要があるのだ。研究の一環とはいえまい。しかし、ジゼルコートはそのことで彼に反論することはなかった。認めた上で、告げる。
「それでも、ゼルバードにとっては、あなたが武装召喚術の師であることに変わりありますまい」
「……ゼルバード殿は、弟子はどうなったのです」
そう問いかけてきたマクスウェルの表情は、とても術研究の片手間に教示した弟子のことを気にする人間のものではなかった。
「敵陣に突撃し、華々しく散ったといいます」
「あのゼルバード殿が……そうですか」
ゼルバードの死に様については、ジゼルコートも話でしか知らない。しかし、その話が嘘で、ゼルバードがいまもどこかで生きているとはとても思えなかった。ゼルバードはこの世に執着がなかった。生きている実感がないとさえ嘯くような子だった。
彼は、死に場所を求めていたのだ。
「あの子が死にたいように死ねたのも、あなたが力を与えてくださったからだ。もしあの子に武装召喚術がなければ、あの子は華の如く散ることなどできなかったはずだ」
「我が子の死に様を感謝するというのですか」
「ええ」
死に場所を求め続ける彼にそれなりの死に場所をあてがうことができたのなら、喜ぶほかなかった。彼が思う存分に戦えたのならばならなおさらだ。戦士として死ねたのならば、彼も本望だろう。
「死に場所も死に様も選べないのが乱世のさだめ。そんな中で思い通りに死ねたことがどれほど素晴らしいことなのか」
「……死が素晴らしいなどとは思いませんがね」
「死、そのものはそうでしょうが」
ジゼルコートは、マクスウェルの意見を否定しなかった。それもひとつの考え方だ。
「どうせ死ぬのであれば、望み通り、思い描いた通りに死ぬべきでしょう」
「ふむ……」
マクスウェルは、おもむろに立ち上がると、鈍く光る目でこちらを見下ろしてきた。
「なれば、わたしも思うままに死にましょう」
「……なにを考えておられる?」
「この二十年の集大成をお見せしようというのです」
「二十年の集大成……?」
二十年というと、ジゼルコートが彼と出会うよりも前のことだ。彼がリョハンを下山し、放浪するようになったのが二十数年前だという。
「そしてわたしがガンディア軍を殲滅し、あなたに勝利を献上致しましょう」
「勝利……」
マクスウェル=アルキエルの目は、怪しく輝いていた。