第百四十四話 彼女の願いと彼の望み
カイン=ヴィーヴルがマイラムに到着したのは、九月十日のことだ。
キース=レルガがみずからの命を投じてナーレスの失策を明らかにしてから、八日もの日数が経過している。が、それも致し方のないことだ。ガンディアの軍勢が王命もなく勝手に動くことはできない。たとえ、レオンガンドの側近たちが素早く手配したとしても、情報の往来だけで数日を要した。
ガンディア軍ガンディア方面軍第一軍団が、数多の臣民に見送られながら王都を出発したのが六日。その際、傭兵団《蒼き風》や、レマニフラの姫君が連れてきた戦闘部隊約五百名が同行しており、出発までに必要以上に手間取ったのは仕方のない事だろう。
ガンディオンからマイラムに到着するのに要したのは、四日。かなりの強行軍だったが、おおきな混乱もなくレオンガンドの元に辿り着くことができたのは僥倖といえるだろう。途中、皇魔に遭遇することもなければ、山賊に襲われることもない。千七百名近い軍勢なのだ。皇魔としても襲いかかろうとは思わないだろうし、山賊が手を出すわけもなかった。
カインは、無論、獣の面を被り、正体を隠している。いや、いまやカイン=ヴィーヴルこそが彼の正体になりつつあった。ランカイン=ビューネルという名は、いずれ忘れ去られ、カイン=ヴィーヴルという軍属の武装召喚師が存在したという事実に摩り替わるのかもしれない。
もっとも、カランの街で出会ったあの男は、ランカインを忘れないだろうし、もし生きていることを知ったら、なんとしてでも殺しに来るだろう。
それはそれで楽しみなのだが、自分の正体が彼に悟られることはあるのだろうか。なさそうな気もするし、明日にでもバレるかもしれない。どちらかといえば、この戦争が終わるまでは待っていてほしいものだが。
戦争だ。
戦争が始まろうとしている。
いや、既に始まっている。
「あなたが待ちに待った戦争よ」
ウルは、笑みを浮かべている。顔に張り付いたような笑みは、彼女が自身の感情を隠す時の下手な術だということを、カインは知っている。だが、魂の支配者たる彼女に抗することはできないし、できたとしても、わざわざあげつらうことでもない。
「ああ……」
彼女は、キース=レルガの死を最初に確認した人物だ。彼の死がなにを意味するのかを知る数少ない人物のひとりであり、カインにその詳細を教えてくれたのも彼女だった。
外法機関によって生み出された悪魔たち。いや、改造された、というべきなのだろう。外法を施され、ひとならざる存在へと変わってしまった哀れな生き物たち。アーリア、ウル、キース、ヒース。彼らはそれぞれ異なる能力を持ち、そのために機関を潰したレオンガンドに命を拾われ、重用された。
アーリアの異能については伏せられたが、ウルの力については身をもって理解している。支配。対象の精神を支配下に置き、行動を抑制する能力だ。それによってランカイン=ビューネルというおよそ正気とはかけ離れた人間が、カイン=ヴィーヴルという仮面を被ることができているのだ。だからこそ、レオンガンドはためらいなくカインを使える。ウルによる支配がなければ、ランカイン=ビューネルとして極刑に処していただろう。
キースの異能は、ウルとはまったく異なるものだ。双子の兄弟であるというヒースと、どこにいても意思疎通することができるという能力であり、それはガンディアとザルワーンに別れていても発揮されていた。つまり、ガンディアを抜け、ザルワーンに入ったナーレスについていったヒース=レルガは、ガンディアのキースとの連絡係であり、ザルワーンの情報はガンディアに筒抜けだったということだ。
その真実を知らされたとき、彼は大いに笑った。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ログナー攻略において手柄を上げ、瞬く間にザルワーンの中枢に入り込んだナーレスのおかげで、ザルワーンの密謀のほぼすべてがレオンガンドの知るところとなっていたのだ。そして、日夜ナーレスとレオンガンドは、ザルワーンを狂わせるために画策していたのだろう。
ランカイン=ビューネルが、ザルワーンのために全身全霊で当たっていた任務も、ナーレス発案のものかもしれず、彼の愚かな兄のくだらない末路も、ナーレスたちの策謀の結果なのかもしれない。それを考えると、自分のしてきたことが馬鹿馬鹿しくもあり、ザルワーンという大国がガンディアという小国に翻弄されていたという事実に苦笑したくもなった。
(哀れなミレルバス)
五竜氏族の権力闘争になんとか打ち勝ち、国主の座につき、ザルワーンの改革を成そうとした矢先、ナーレスという毒を食らってしまった。なんとも哀れで、儚いものだ。彼はそれを知らぬまま、内政に力を入れ、内乱の鎮圧に血を注いだのだろう。ログナー放置がその最たる例だ。結果、ログナーは、ナーレスの思うままに蹂躙され、アスタルの反乱を呼んだ。そしてガンディアに平定された。
様々なことが複雑に絡み合って、現在という状況を作り出している。
キースの死も、その複雑な事象のひとつだ。
キースは、みずから死ぬことで、半身であるヒースの命をも奪ったのだという。原理は理解できないが、その必要もあるまい。イルス・ヴァレとは、理解できないものが存在する世界なのだ。
キースはヒースが死ぬことで、口が割られることを防いだのだ。つまり、ヒースは捕縛され、投獄されでもしたということだ。ヒースが投獄されたのなら、その主人たるナーレスに害が及んでいないとは考えにくい。ナーレスが捕縛されたのか、ただ失脚したのかはわからないものの、彼の身に異変があったのは間違いないと、レオンガンドの側近たちは判断した。
レオンガンドも側近たちの判断を支持し、ガンディア全軍に出撃を命じた。それが四日のことであり、六日にはガンディオンに届いた。ガンディオンでは既に準備も整っていたが、レマニフラ側に少し混乱が生じたらしい。とはいえ、即座に出発できたのは、側近たちがキースが死んだ二日の時点で動き出していたからだ。
レオンガンドは優秀な部下に恵まれているようだ。
その優秀な部下の最たるものが、セツナ=カミヤだろう。
彼はいま、ザルワーンの地にいるらしい。ナグラシアをあっという間に攻め落とし、後続の部隊を待っているという。戦場での再会を楽しみにしたいところではあるが、レオンガンドの作戦次第では、ザルワーンでの再会もお預けになるかもしれない。もっとも、どこにいても彼の活躍は耳に届くだろう。それはそれで楽しみではあった。
「嬉しくはなさそうね」
ウルは、目の前にまで顔を近づけてきていた。仮面の覗き穴から、目を見ているらしい。ウルの灰色の目は、濡れているようだ。潤んでいる。泣いているのか、どうか。
「あなたほどの戦闘狂でも、故郷を相手に戦うのは苦しいのかしら」
「まさか」
カインは取り合わず、そっぽを向いた。狭い部屋だ。横を向いても、すぐに回りこまれた。ウルの顔に張り付いていた笑みが、壊れていた。両目から、涙が溢れだしている。
「だったら、殺してくれるわよね」
彼女は、復讐をして、などとはいわなかった。ただ、ザルワーンの兵士を殺せといった。殺せるだけ殺してほしいと。それだけが彼女の小さな願いなのだ。彼女がカインにできる、わずかばかりの祈り。命令ではない。強制ではない。ウルはかつて、ランカイン=ビューネルにレオンガンド・レイ=ガンディアに忠誠を誓わせたのであって、彼女自身には命令する権限がなかった。
しかし、願うことくらいは許される。
それを叶えるかどうかは、状況次第といったところだが。
「気が向いたら、な」
カインはそういって、故郷の風景を網膜の裏に浮かべた。
もっとも、彼が思い出すのは地の獄の闇だけだったが。