第千四百四十七話 亡霊(三)
デイオン=ホークロウ率いるクルセルク方面軍が、解放軍本隊の進軍開始とともに転進、王都に向かって移動を始めたという報せが本陣に届くと、本陣にはちょっとした混乱が起きた。敵軍の指揮官たるデイオンの考えがまったく読めなかったからだ。
本陣には、軍師候補のひとり、アレグリア=シーンがついているが、彼女にもデイオンの戦術がよくわからないということだった。
「デイオン将軍は野戦が得意。我々解放軍を誘引し、なんらかの策に嵌めようとされているのかもしれません」
それは、アレグリアのみならず、本陣にいる大方の人間の考えだった。
一戦も交えることなく敵前逃亡の如く転進されれば、疑念を抱くよりほかない。なんらかの罠が張り巡らされていると警戒して当然のことだ。
前線部隊も同じように考えたのだろう。
罠を警戒しながら、慎重な足取りでデイオン軍を追撃した。
しかしながら、ガンド平野は見渡す限りの平地であり、罠を仕掛けるには適した地形とはいい難かった。なんらかの罠があれば遠目にも発見できるくらい見晴らしがいいのだ。
「召喚武装による罠の可能性もあります。警戒するに越したことはないでしょう」
アレグリアの慎重さは、むしろ頼もしかった。
デイオン軍が王都に向かって後退し、本隊との距離が広がっていく中、ジゼルコート軍左翼のアザーク軍、右翼のラクシャ軍は、それぞれ前進を開始し、解放軍の両翼と激突しようとしていた。
「少なくとも、デイオン将軍の動きは、アザーク、ラクシャの両軍には知らされていなかったように思われます」
「つまり?」
「デイオン将軍は、独自の考えで軍を動かしている、ということです。この戦力差を引っくり返し、勝利を得ようと考えているのであれば、ありえないことですが」
「……勝つ気がない、ということか」
「我々を策に嵌めるつもりだという可能性も、皆無ではありませんが……いまのところ、その様子はありませんね」
そのうち、両翼の軍勢が激突、各所で戦闘が始まった。ラクシャ軍との戦いでは波光が吹き荒れ、アザーク軍との戦いでは“剣鬼”と“剣聖”が大暴れすることだろう。そして、マルダールの戦いと同じ結果に終わるのだ。
レオンガンドは、両翼の戦いに関しては、なにひとつ不安はなかった。アザークとラクシャが戦力を補充しているのであればまだしも、そうではない以上、負ける気がしなかった。そして、両翼の軍が圧勝してくれれば、本隊の勝利も容易いものとなるだろう。
そうするうちに、前線部隊の進軍速度が上がり、それに引き摺られるようにして本隊全体の進軍速度そのものが上がった。
「なにかわかったようだな」
「そのようですね」
アレグリアがうなずいた直後、レオンガンドは前方上空を飛翔し、接近してくる人物を発見した。
「おや、隊長代理みずから来てくれたようだ」
白い一対の翼を広げ、飛行してくるのはルウファ・ゼノン=バルガザールそのひとであった。彼は、レオンガンドの目の前まで飛んで来ると、ゆっくりと地上に降り立った。レオンガンドは馬の足を止め、彼を見下ろす。
「デイオンの動き、どういう意図かわかったのか?」
「はい! わたしとグロリア=オウレリアでクルセルク方面軍の動向を探ってみたのですが」
「うむ」
「クルセルク方面軍の将兵は、逆賊ジゼルコートとその一派を討ち、ガンディアより邪悪を一掃すると興奮している様子でした」
「なに?」
レオンガンドは、ルウファの報告に怪訝な顔にならざるを得なかった。横目にアレグリアを見る。場上の軍師候補もまた、訝しげな表情だ。
それもそうだろう。デイオンは、ジゼルコートに同調したはずだ。ジゼルコートの謀反に同調し、レオンガンドを裏切った。だからこそ彼はクルセルク方面軍を率い、解放軍と対峙していたのだ。それがいまになって、なぜ、ジゼルコートの敵に回ったのか。
「いったいどういうことだ?」
「どうやら罠ではないようですね」
「そのようだが……」
レオンガンドは、アレグリアの表情が一変したのを目を細めて見つめながら、脳裏に左眼将軍の顔を思い浮かべた。
(デイオン……あなたはいったい)
なにを考えているのか。
レオンガンドには想像もつかない。
単純に、ジゼルコートの謀反が失敗に終わりそうだから、レオンガンドの味方につくべきだと判断したようには見えなかった。それならば、バルサー要塞が落ちた時点でこちらに与するはずだ。王都を残すのみというところでジゼルコートを見限ったのには、なんらかの理由があるだろう。
デイオンは軽はずみな男ではない。
彼は熟考に熟考を重ねる男だ。
謀反が失敗に終わるからというだけの理由で、ジゼルコートを裏切るような、そんな安い人物ではなかった。
なにかあるのだ。
彼がいま、王都に向かっている深い理由が。
それが明らかになるのは、王都を奪還した後のことになるだろう。
少なくともいまは、デイオン率いるクルセルク方面軍の後に続き、王都を目指すほかなかった。
王都まで、邪魔するものはなにもなかった。
それはそうだろう。
デイオン率いるクルセルク方面軍の背後には、だだっ広い平野が広がっているだけであり、敵はおろか味方もいなかった。ジゼルコートの私設軍隊は、マルダールにほとんど出払っていたのだ。それが敗れ去ったいま、ジゼルコートの手元に残された戦力というのはわずかばかりだ。王宮警護と都市警備隊は、いまだジゼルコートの支配下にあるが、彼らは都市と王宮の警備、護衛こそすれ、戦闘能力はそのものは決して高くはない。軍隊ではないのだ。軍と正面切って戦えるようなものではなかった。もちろん、王都が危険に晒されれば身を挺して守ろうとするだろうが、デイオンたちの目的を知れば、積極的に向かってくることはあるまい。
都市警備隊、王宮警護の多くが、現状の不自然さを理解している。謀反を支持しているものはむしろ少数派であり、レオンガンドの治世こそがガンディアに必要なものだと考えている人間のほうが圧倒的に多い。レオンガンドこそが、この国をここまで拡大させてきたのだから、当然だろう。むしろそのような状況で謀反を行い、成功すると考えていたことのほうが不思議に思えた。
無論、謀反が成功し、レオンガンドたちを打倒することさえできれば、ガンディア国民もジゼルコートを支持せざるを得なくなっただろう。
この戦国乱世、勝者こそが正義だ。
敗者に義はなく、義なければこそ敗れ去る。
だからこそ、勝たなければならない。
勝たねば、発言権はないのだ。
この世に正義を示現するためには、勝利するほかない。
なればこそ、ジゼルコートは謀反を起こし、レオンガンドを打ち倒そうとした。
だが、レオンガンドは、倒れなかった。
なぜならば、レオンガンドこそが勝者であり、正義だからだ。
デイオンはそう信じている。
信じているからこそ、戦える。
命を賭して、戦うことができる。
やがて、王都が見えてきた。王都ガンディオンの外周を覆う城壁の雄々しさは、さすがは獅子の国と思わせるほどのものであり、いつみても惚れ惚れする。北門に接近すると、門扉が開け放たれていることが確認できた。予定通りだ。
「全部隊に通達! 目指すは王宮! 王宮にいる逆賊のみを討て!」
デイオンは号令すると、馬を疾駆させた。
王都にいるジゼルコートたちには、とっくにデイオンたちの動きは伝わっているはずであり、一刻も早く王宮に到達しなければならなかった。
もっとも、ジゼルコートの賛同者は全員把握済みであり、王都さえ奪還してしまえば、彼らが逃げおおせたところでどうなるものでもない。
それでもデイオンは、城門を潜り抜けると、全軍を鼓舞し、加速させた。
エリウスは、イスラとその侍女たちを伴って、王宮内を移動していた。
状況は、急変した。
デイオンの裏切り。それに呼応するかのように王都の開門。玉座の間に集まった反乱軍首脳陣が混乱するのも無理はあるまい。ただでさえ勝てる見込みのない戦いだったというのに、デイオンの裏切りによって敗色濃厚となった。王都の門を閉ざし、籠城することもできなくなった。いや、そもそも、籠城したところで援軍が期待できない以上、敗北と同義だ。
王都を人質に取れば、自分たちの身の安全を確保することくらいはできるかもしれないが、そんなことをすれば、自分たちが掲げた大義が欺瞞だと宣言するようなものだ。少なくとも、ジゼルコートのような自尊心の高い男がそのような手段を取るわけもない。
エリウスは、ジゼルコートを高く評価していた。レオンガンドを裏切ったことはともかくとして、それ以外の面で非の打ち所のない人物だった。類まれな政治手腕はもちろんのこと、ガンディアへの忠誠心、人格、品性、どれをとっても素晴らしかった。
だからこそ、惜しむ。
彼ほどの人物がなぜ、この期に及んでレオンガンドを裏切り、謀反を起こしたのか、と。
なにが彼を駆り立てたのか。
エリウスには、わからないことだ。
わからなくていいことでもあるのだろう。
所詮、ジゼルコートは赤の他人であり、その心の深層など知りようもないのだ。もはや他人の運命に関りたいとも思わない。
エリウスは、多くの命を奪いすぎた。
ログナー王家に生まれ、王位継承者として育てられたというところまでは良かった。順風満帆。素晴らしい人生。そう思えた。だが、ログナーがザルワーンの属国に落ちてからというもの、人生は急変した。父は酒色に耽り、母は泣いて暮らすようになった。エリウスは、国が壊れ落ちていく音を聞いていたのだ。
アスタル=ラナディースが義憤に駆られ、謀反を起こした。彼女の大義は、ログナー国民から圧倒的な支持を得た。それは、ログナーという国そのものが腐敗し、滅びに向かっていたからであり、ジゼルコートが謀反を起こした状況とはまったく違っていたからに他ならない。が、謀反は謀反であり、そこに大きな差はない。
血は流れ、多くの命が失われた。
エリウスは、ログナー最後の王として、ログナーという小国の命をも終わらせた。
もう、他人の運命になど関わりたくはない。そう思うようになっていた。けれども、運命はエリウスを離してくれなかった。嘲笑うように父の命を奪わせた。
頭を振る。
こういうとき、益体もないことばかりが脳裏を過る。悪い癖だ。
「エリウス様」
不意に呼びかけられて、エリウスは足を止めた。通路には、エリウスとイスラ、侍女ふたりの合計四名しかいない。ジゼルコート軍による制圧後、王宮は、静かになった。王宮警護こそ各所で職務を全うしているものの、使用人などが歩いている姿はめっきり見なくなっていた。理由もなく出歩くことを禁じているからにほかならない。
「なんでしょう?」
「どこへ、向かわれるのですか?」
「はて」
「城門の様子を見に行かれるのでは……」
「開いてしまったものをいまさら見に行ったところで仕方がないでしょう。じきにデイオン将軍らが通過するでしょうしね」
「え?」
「わたしにはわたしの役割があるということです」
エリウスは、それだけをいうと、大会議室に向かって歩を進めた。