第千四百四十四話 ただ、待つ
状況は、好転しつつあった。
五月二日。
レオンガンド率いるガンディア解放軍がジゼルコート軍を蹴散らし、マルダールを制圧したという報せが王宮に届いたのだ。無論、ジゼルコートの同調者で満ちた王宮は、騒然となっただろう。王宮には、使用人以外、ジゼルコートの同調者しかいない領域と変わり果てていたからだ。ジゼルコートの勝利を信じ、勝利の果の栄光を夢見ていた同調者たちには、信じがたい情報だったに違いない。
まず、レンガンドがこんな短期間にガンディア本土まで戻ってこられることが信じられないことだった。レオンガンドは、マルディアで反乱軍やベノアガルドの騎士団と戦い続けているはずであり、戦闘もそこそこに切り上げられるわけがなかった。さらにいえば、マルディア軍はジゼルコートの謀反と時を同じくしてレオンガンドに敵対する予定になっていたといい、たとえ反乱軍を撃滅することができたとしても、騎士団とマルディア軍がレオンガンドの軍勢を足止めするはずだったのだ。
さらにジベルやイシカがジゼルコートに与しており、レオンガンド軍がなんとかマルディアを脱したとしても、それらとの戦いが控えているということもあって、そうやすやすとガンディア本土に辿り着けるはずがなかったのだ。
たとえレオンガンド軍がガンディア本土にたどり着けたとしても、それらジゼルコートの同盟軍に対応するため、戦力を大きく減らしていると予想された。
ガンディア本土に到達したレオンガンド軍には、バルサー要塞のルシオン軍、マルダールのジゼルコート軍が待ち受けている。戦力が著しく低下したレオンガンド軍が相手ならば、ジゼルコートの側が勝利を手にするのは間違いない――ジゼルコートに同調しただれもが、そう想っていた。
しかし、現実は、そうならなかった。
マルディアを軽々と脱出したレオンガンド軍は、ガンディア解放軍を名乗り、アバードに到達。アバードの内乱を鎮めるため戦力を分けたものの、ザルワーン方面、ログナー方面で失った戦力を補充、マルスールを容易く奪還した。バルサー要塞においてはハルベルク・レイ=ルシオン率いるルシオン軍と対峙、レオンガンドはリノンクレアを通じ、ハルベルクと交渉したものの、ハルベルクはレオンガンド軍に降ろうとはしなかった。ルシオン軍とレオンガンド軍の戦いは激しく、レオンガンド軍は兵力を消耗することになったものの、快勝といってもいいくらいの勝利を得た。そして、マルダールへと歩を進めたレオンガンド軍は、ゼルバード率いるジゼルコート軍と対決、勝利を収めている。
マルダールには、ジゼルコート御自慢の武装召喚師たちが控えていたはずだったが、それらはレオンガンドが主力として掲げる《獅子の尾》の武装召喚師たちとの戦いに敗れ去ったということであり、三人のうち、二人がレオンガンド軍に投降、ひとりが戦死したとのことだった。
マルダールの指揮官を任されたゼルバードは、どういうわけか撤退も投降もせず、レオンガンド軍に突貫し、百人以上の兵を殺した末、死んだという。
実弟の予期せぬ死に様には、ジルヴェールは、なんともいいようのない気持ちになった。ゼルバードは、文官としての適性が高いジルヴェールとは違い、武官としての才能、性格を持ち合わせていた。幼少期から体を鍛えることが好きだった彼は、十代のころにはジルヴェールの手に負えない実力者となっていた。やがて、ジルヴェールは政治を、ゼルバードは戦術を、ジゼルコートから学ぶようになった。ジゼルコートの頭の中には、レオンガンドの政治を補佐する立場にジルヴェールを置き、ガンディアの軍事を司る立場にゼルバードを配するという構想があったことは、明白だ。ジゼルコート自身がそういっていたわけではないが、彼の当時の言動からそう察せられた。もちろん、当時のジゼルコートは謀反について一言たりとも発さなかった。当時は謀反など起こそうとも想っていなかったのだろう。そう信じたいという気持ちがある。ジゼルコートは優秀な政治家だ。それも頂点に立って輝く類の政治家ではなく、頂点に立つものの補佐をすることで力を発揮する類の。彼ほどの人物ならばそういう自分を認識していたはずであり、国王の補佐を務めることに疑問も感じていなかっただろう。
父が謀反を考え始めたのはいつごろからか。
ジルヴェールは最近、そのことばかり考える。
この謀反が成功すると判断したのは、いつごろなのか、と。
この無意味な謀反に巻き込まれたゼルバードは、無駄に命を落とした。彼の死に意味はない。投降しても良かったはずだ。投降すれば、あるいは――。
(いや……)
ゼルバードは、ほかの将兵と違い、投降したとしても許されないかもしれない、謀反人ジゼルコートの息子であり、ジゼルコートの反乱に付き従った第一人者だ。ジゼルコートを諌めることもできたはずであり、その罪は重い。国家反逆罪により処刑されても文句はいえず、死を免れたとしても、投獄されることは免れ得ない。最低でも、獄中で人生を終えることになるだろう。
ゼルバードは、それを嫌ったのか。
(それも違うな)
きっと、おそらく。
ゼルバードは、自分を試したかったのではないか。
ジゼルコートの思うままに歩んできた人生。
自分の人生の最後くらい、自分で決めたかったのではないか。
ふと思い立ったことが真実に近い気がして、彼は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、実弟の幼き日の姿だ。レオンガンドがいて、リノンクレアがいて、ハルベルクもいる。その中にまだひ弱だったゼルバードの姿があり、彼はリノンクレアに気に入られようと必死だったことを思い出す。リノンクレアは、レオンガンドしか見ていなかったが。
そんな遠い日の思い出。
もう二度と取り戻すことのできない風景。
ゼルバードだけでなく、ハルベルクも逝ってしまった。幼き日々を遊んで暮らした五人の中で生き残っているのは、三人だけになってしまった。そしてその三人のうちふたりとも、傷心だろう。ジルヴェールは、いい。耐えられる。ゼルバードは実弟であり、戦死したことは辛いことだが、想定していたことだ。なんとでもなる。しかし、リノンクレアは、そうはいくまい。ハルベルクを失った痛みは、彼女の心を苦しめ続けるだろう。レオンガンドも同じだ。全幅の信頼を寄せていたハルベルクに裏切られ、戦わざるを得なくなり、みずから手にかけたのだ。その心中、察するに余りある。
この謀反から続く戦い、失うものが多すぎた。
ジゼルコートには、その代償を払ってもらわなければなるまい。
「城内はもうてんやわんや。天地を引っくり返したような騒ぎですよ。だれもかれも、ジゼルコート伯の謀反が失敗するかもしれない、などとは想っていなかったようですな。さすがはジゼルコート伯、というべきでしょうか」
口の軽い男だ、と思わざるをえないものの、彼のおかげでそういった情報が手に入った事実は認めなければならないし、感謝してもいた。彼がジゼルコートを見限ってくれたからこそ、ジルヴェールは、自分の置かれている状況をはっきりと認識できるのだ。
「だろうな。だれも、ジゼルコートの口車に乗せられたのだ」
だが、だからといって罪が軽くなるわけではない。
謀反に賛同したのだ。レオンガンドの敵となり、ガンディアの敵となった。そのものたちを許すことなどできるわけもない。
このままレオンガンドの軍勢がジゼルコートを討滅し、謀反を終わらせることができたとしても、謀反人たちを一掃するまでは完全な決着とはいかないだろう。生かしておけば、火種となる。禍根は断つべきだった。根こそぎ断ち切り、敵対勢力を殲滅する。
そのためには、自分はなにをするべきか。
「……ここは静かだがな」
「隔離されておりますゆえ」
彼は、皮肉げに微笑んだ。大きな水晶球がついた杖を持った男。
ジゼルコート配下の武装召喚師のひとりだった。名をシャルティア=フォウスという。
彼は、ジゼルコートの配下でありながらルシオンに属しており、武装召喚師として働いていた。バルサー要塞の戦いでは、レオンガンド軍とルシオン軍の死闘に一役買ったといい、ハルベルクの最期を見届けたともいう。また、マルダールが落ちる様を見届けたのも彼であり、ゼルバードの死に様を知ることができたのも、彼のおかげだった。ジゼルコートが彼を重宝にしていた理由もわかろうというものだ。
彼は、空間転移能力を持つ召喚武装の使い手なのだ。空間転移能力を持つ召喚武装というのは、召喚するだけでも難しい上、扱いは極めて困難なのだという。でなければ、空間転移能力を持つ召喚武装の使い手はもっと多くなっていてもおかしくはない、というのは道理というほかない。空間転移能力ほど便利なものはない。遠方から遠方へ、一瞬にして移動することができるのだ。情報収集にも使えるし、戦闘にも使える。極めて有用な能力であり、そういった能力を持つ召喚武装の使い手がジゼルコートの配下にいたということは、驚くべきことだった。ジゼルコートの情報収集能力の高さは、彼のような武装召喚師が配下にいたからなのかもしれない。
そして、そんな彼がジゼルコートを見限り、ジルヴェールに近づいてきたのは、ジゼルコートの謀反が紛れもなく失敗するということを暗示しているようだった。
「隔離されているからこそ、君がここにいることは露見しない、ということもあるな」
「はい」
彼は、声を潜めている。
隔離されているとはいえ、この部屋そのものは監視下にある。監視をすり抜け、出入りすることなど、普通できることではない。
シャルティアは、召喚武装の能力によってこの部屋の中に直接転移することで、ジルヴェールと接触しているのだ。召喚武装オープンワールドは、転移の紋章を刻印した場所に対象を転送することができるという。つまり、この部屋に予め刻印していたということだ。ジルヴェールが幽閉されるよりも前に、だ。
無論、シャルティアはこの部屋にジルヴェールが幽閉されることを予想していたわけではない。シャルティアは、王宮内の様々な箇所に転移紋章を刻印しており、そのひとつが偶然にもジルヴェールの幽閉されている部屋に刻印されていたというだけの話だった。偶然。偶然が、ジルヴェールに運命を引き寄せさせた。
「君は、ジゼルコートが敗れると見て、わたしに擦り寄ってきた。そうだな?」
「はい。ジゼルコート様にはわたしを拾っていただいた恩はありますし、その恩は筆舌に尽くしがたいものがあります。いまでも感謝していますし、ジゼルコート様は尊敬に値するお方だと想っております」
そう前置きした上で、彼は、告げてくるのだ。
「しかし、わたしはわたしの命ほど大切に想っているものはありませんのでね。失礼ながら、ジゼルコート様と心中するつもりなど毛頭ございません」
だから、戦後のことを考え、ジルヴェールに接近してきたのだ。レオンガンドが勝利すれば、ジルヴェールは元の立場に復帰するだろう。そのとき、ジルヴェールが彼とレオンガンドを引き合わせてくれるだろうことを想定しているのだ。ジゼルコート配下であり、謀反に参加したとはいえ、指揮権もなければ、ジゼルコートを諌めることもできない立場であった彼ならば、戦後の立場はなんとでもなるだろう。
レオンガンドは、人材を求めている。
それがたとえ敵であったとしても、実力があり、才能があるのであれば、味方に引き入れ、重用する。それがレオンガンドのやり方だった。人材こそ力だということを知っているからだ。
ジゼルコートを始めとする謀反人の多くは、処断するしかない。反レオンガンド派の政治家などがいい例だ。が、謀反に与したものの中で、命令に従うしかなかったものは、違う。レオンガンドはきっと、それら人材を有効活用しようとするだろう。
なにより、謀反から続く戦いは、失うものが多かった。
得られるものまで失う必要はない。
「……君のそういう素直なところは評価に値するよ」
「お褒めに預かり、光栄です」
恭しくお辞儀をする男を醒めた目で見つめている自分に気づき、彼は頭を振った。手元の書物に視線を落とし、話を変える。
「しかし、ジゼルコートはどうするつもりだろうな。マルダールが落ち、陛下率いる解放軍は目前に迫っているのだろう?」
「はい。明日にも王都に到達する見込みです」
王都北側の最終防衛線とでもいうべきマルダールは、陥落した。レオンガンド軍はもはや王都を取り戻すことだけを考えているだろう。全力を上げて奪還しようとするに違いない。
「王都防衛の要は、デイオンか」
「デイオン将軍率いるクルセルク方面軍に、マルダールで蹴散らされたアザーク軍、ラクシャ軍が合流していますね」
アザークとラクシャの軍勢は、取るに足らない、という話だった。解放軍との戦闘で戦力の大半を失っているらしい。それがデイオンのクルセルク方面軍と合流したところで、大した脅威にはならない。ジゼルコートの手勢など、数にも入らないだろう。
「……兵力でも陛下に勝ち目がある。戦力はいわずもがな、な」
解放軍は、マルダール攻略において、大きな損害は出さなかったらしい。そのまま王都奪還に移っても問題はないくらいだというのだから、マルダールの戦いがいかに解放軍にとって楽なものだったのかが窺える。
「それでもなお、戦うつもりか」
「ジゼルコート様ほどのお方が、この期に及んで投降するとは思えませんが」
「……この期に及んで、か」
目線を上げると、シャルティアの怜悧な表情があった。
「確かに、そうだな」
この期に及んで投降するというのならば、最初から謀反など起こすまい。
投降したとして、処断されるだけのことだ。
これだけのことをして無罪放免で終わるはずがない。
たとえジゼルコートの政治家としての手腕が惜しくとも、生かしておくことなどできまい。生かせば、禍根となる。ジゼルコートは、再び、謀反の機会を窺うかもしれないのだ。一度裏切ったものを許すことなど、できるものだろうか。
ジルヴェールは、書物を机の上に置くと、静かに立ち上がった。
「どうされるのです?」
「どうもしないさ」
というより、なにもできないのが実情だ。
シャルティアを利用すれば、この部屋から抜け出すことは可能だろう。王宮は混乱状態という。王宮から脱出することも難しくはないかもしれない。シャルティアが力を貸してくれるのであれば、楽勝に違いない。だが、抜け出したところで、なにができるわけもない。ジルヴェールには自前の戦力もなければ、戦う力もない。自分ひとり王宮から抜け出したところで、状況が好転するはずもない。それならばいっそのこと、この隔離された空間に閉じ籠もったまま、王都が解放されるのを待つのが一番賢いのではないか。
「わたしはここで、陛下の勝利を待とう。君は君の役割を果たしたまえ」
「……では、陛下の勝利の暁に」
「ああ。そのときは、君を陛下に紹介しよう」
「期待しております」
シャルティアは、にこりと笑って、杖を掲げた。水晶球が輝き、彼の全身が光に包まれる。そして、あっという間にジルヴェールの視界から、消えた。
ひとり部屋に取り残されたジルヴェールは、寝台に向かい、腰を下ろした。
胸騒ぎがした。
レオンガンドの勝利は確信しているのに、どこかに落とし穴があるような、そんな感覚。
なにか、見落としているのではないか。
だが、いくら考えても、いまの自分にはできることなどなにひとつなかった。たとえシャルティアの力でこの部屋を抜け出したところで、謀反人しかいない王宮ではどうすることもできない。王宮を脱したところで同じことだ。王都は、ジゼルコートの支配下にある。
なにもできない。
ただ、レオンガンドの勝利を信じるしかないのだ。