第千四百四十二話 ラグナシア=エルム・ドラース
「のう、セツナよ」
ラグナがセツナを見下ろしたのは、たっぷり数十秒が経過したあとのことだった。
ふたりを乗せた飛竜は、いまもなおベノアの外周に沿うようにして飛行し続けている。十三騎士の真躯は、飛竜たちとの戦いに専念しており、セツナたちは見逃されているも同然だった。結界を破ることはできないと踏んでいるから、放置しているのだろう。抜け出せないのなら、放っておいてもなんの問題もない。だれだってそう考える。
これで、セツナたちが脅威となる可能性があるのなら追撃してきたのだろうが、そういう可能性は極めて低い。セツナは、黒き矛から引き出せる限りの力を引き出しても、シドの真躯に敵わなかった。現状、ラグナと力を合わせても、一矢報いることしかできまい。
「ん?」
セツナは、ラグナの様子に不安を覚えずにはいられない自分に気づき、余計に心配になった。心の奥でざわつくものを感じる。
ラグナの緑柱玉のような瞳が、セツナをじっと見つめていた。
「わしに勇気をくれぬか」
「勇気?」
「わしにもう一度だけ、死ぬ勇気をくれ」
「なにを言い出すんだよ」
セツナは、慌てた。ラグナのいっている言葉の意味がわからなかった。死ぬ勇気? なにを考えているのか。
ラグナは、しかし、セツナの反応などお構いなしに続けてくる。
「わしはいま、死ぬのが恐ろしゅうてかなわぬ。死なねばならぬときだというのに、死にたくないのじゃ」
「ラグナ、おまえ……なにいってんだよ」
「わしは転生竜じゃ。何度死のうとも、そのたびに生まれ変わり、朝を得る。それが当然じゃと想っておった。じゃがな、万物は流転するものじゃ、生あるものは死に、形あるものは滅び去るのが真理。永久不変のものなど存在するわけもない。神ですら、無窮の存在ではない」
ラグナが前方に目を向けた。飛竜は、結界すれすれのところを飛翔し続けている。なぜ飛竜がそのような飛行経路を取っているのか。最初はフェイルリングと距離を取るためかと考えたが、どうやら違うようだった。単純に、ラグナがセツナと話す時間を作るためだ。
「つぎに死ねば、また蘇られるのか、不安になった」
「……だからどうして、そんな話になるんだよ」
セツナの胸の内で、不安が増大する。ラグナがそんな弱気な話をするのは、これまでなかったことだ。いつだって傲慢で不遜で強気で、人間を見下しているのが彼女だったはずだ。それなのに、いまのラグナからは、そういった覇気を感じ取ることができなくなっていた。
「おぬしを知り、おぬしの温もりを知り、おぬしとともに生きることに喜びを見出してしまった。もっとおぬしの側にいたい。おぬしとともに世界を感じたい。そう、想ってしまった。じゃから、恐ろしゅうなった。もし、つぎの死が最後だったら――そう考えると、眠れなんた」
「最近中々寝付けなかったのは、そういうことだったのか」
ここのところ、夜中になると、彼女がセツナの寝床に入り込んでくることがあった。そして、セツナを起こしてしまったことに気まずくなりながらも、彼女はセツナの顔を見ながらでなければ眠れないといった様子だった。セツナは、気にもとめなかった。小飛竜の姿をしていたころの癖かなにかだとばかり考えていたからだ。
「おぬしには悪いことをしたのう」
「俺のことは気にすんなよ」
そんなことで目が覚めたところで、なんの問題もない。
「……おぬしのそういうところがわしの心を動かすのじゃな」
「なにいってんだよ」
セツナは、ラグナの笑顔が透き通っていることに気づいて、動揺した。そして、その動揺がなにを意味しているのかを理解し、さらに愕然とする。
「らしくねえよ」
「そうじゃな。そうかもしれぬ。じゃが、きっと、それがわしなのじゃ。おぬしといる、わしなのじゃ。いままでのわしではないが、いまのわしは、こうなのじゃ。おぬしとともにいたいと想っておる、わしなのじゃな」
「ラグナ……だからさ、なんでそんな話になるんだよ!」
「このベノアを覆うミヴューラの結界は、わしの全魔力を用いても破壊できぬ。眷属共の力と、黒き矛の力を合わせてもな」
それだけ強力な結界だからこそ、だれひとり負傷していないというのもうなずける。それこそ、神の力であり、救済の力なのだろう。純度を高めれば、さらに力を増大していくことができれば、世界を救うことも不可能ではないというのだ。ラグナのいまの力でも破壊できなくても、当たり前だ。
「じゃが、ひとつだけ、突破する方法がある」
「それが死ぬ勇気どうこうって話に繋がるんじゃないだろうな……!」
「まったくもってその通りじゃ」
ラグナはうなずくと、セツナを見下ろしてきた。美しい瞳が魔力を帯びているように見えた。
「おまえ……」
セツナは、絶句するしかなかった。
ラグナは、そんなセツナを見て、表情ひとつ変えない。凛々しくも美しい女の顔で、こちらを見ている。
「わしが命を費やして、魔法を使う。転移魔法じゃ。おぬしだけを結界の外に出す、な」
「命を……費やす」
「そうでもしなければ、この結界を越えることはできん。おそらく、黒き矛の空間転移でも越えることは不可能じゃろう。このベノアを覆う結界は、多層構造じゃ。しかも次元そのものを歪めておる。超長距離を空間転移しなければ結界の間に転移することになる。わしの魔力だけでは、結界の外には届かんのじゃ」
「だから……」
だから、さっきから同じ言葉を繰り返しているのだ。
死ぬ勇気が欲しい、と。
命を費やす覚悟が欲しい、と。
「うむ。じゃから、勇気をくれ。わしに死ぬ勇気を」
ラグナの表情は、穏やかだ。透き通るほどに優しく、柔らかな表情。死を覚悟しなければならないときに、なぜ、そこまで優しい表情ができるのだろうか。セツナは、胸を締め付けられる想いがした。様々な感情が湧き上がって、心を埋め尽くしていく。彼女の決意は強く、覆せないものだということがわかるからだ。
「……ほかに方法はないのか」
「ない。あやつら全員を打ち倒し、ミヴューラに結界を解除させるなど不可能。わかるな?」
「ああ」
うなずく。
うなずくしかない。
認めるしかないのだ。
セツナの頭では、ほかに方法など思いつきはしない。知識や知恵を振り絞っても、なにもでないのだ。黒き矛の空間転移では不可能だという。そもそも、黒き矛は眠ったままだ。ほかに能力があったとしても、無理だろう。エッジオブサーストの位置交換でも無理だ。また、ほかの眷属でも、この結界を破ることは愚か、越えることはできまい。
ラグナが思いついた方法に賭けるしかないのだ。
彼女の命に縋るしかないのだ。
ここで泣き喚いて否定したところ、なにも変わらない。フェイルリングを始めとする十三騎士に追いつかれ、戦わざるを得なくなるだけだ。勝ち目のない戦いに身を投じるなど、馬鹿げている。十三騎士の実力が不鮮明だったサントレアとは、違う。現状、セツナにはまったく勝ち目などはなかった。たとえ奇跡が起きたとしても、状況は覆せまい。絶対的な戦力差。この世に絶対なるものなご存在しないとしても、セツナたちと十三騎士の戦闘結果は絶対だろう。
結果を変える方法は、ただひとつ。
ラグナの命を費やして、この結界の外へ逃れるほかない。
「やはりおぬしは物分りがいい。さすがはわしの主じゃ。わしのただひとりの御主人様じゃ」
彼女の満面の笑みを網膜に焼き付けるように、記憶に刻みつけるように、見つめる。
「ラグナ……」
セツナは、ラグナの手を取り、その場に立った。飛竜の背を足場にしている以上、不安定なことこの上なく、いつ滑り落ちても不思議でないくらいだったが、ラグナと向き合うにはこうするしかない。向き合わなければならない。
ラグナは、死のうとしている。
セツナのために。
「どうすればいい。俺になにをして欲しい」
どうすれば、勇気を与えられるのか。
彼女が望むことをしてあげたかった。セツナがいまできることは、それしかないのだ。ラグナの命を賭した転移魔法に縋るしかない。情けないことだ。許せないことだ。苦しいことだ。だが、黒き矛のセツナとしては、ここで十三騎士と戦って命を散らすわけにはいかないのだ。なんとしても、生き延びなければならない。どのような犠牲を払ってでも。
ラグナを代償として失うことになったとしても。
「いつものように撫でておくれ」
ラグナが欲したのは、そんなささやかなことだった。
「……わかった」
セツナは、ラグナの笑みを見つめて、彼女の体を抱き寄せた。髪を撫で、首筋から背中、腰を撫でてやる。いつものように、優しく、丹念に。そうするうちに、彼女との出遭いから今日に至るまでの日々の記憶が脳裏を過ぎっていくのがたまらなく、辛かった。まるで走馬灯のようだ。死ぬのは彼女で、自分は生き残るというのに。
出遭いは、敵だった。
彼女は魔人の遣いたる飛竜で、戦いは熾烈を極めた。辛くも勝利したあと、彼女は転生し、飛竜の幼体のまま、セツナの下僕となった。レムは後輩ができたことを喜んだものだったし、愛嬌に満ちた小飛竜のラグナは、セツナの周囲で人気ものになった。そして、いまのようにセツナに撫でられると喜んでいた。心地いいらしい。それからというもの、セツナはことあるごとにラグナを撫でたものだ。機嫌を取るときや、労るとき、眠る前など、いつだって撫でてあげた。習慣のようになった。
「セツナ。やはり、わしはおぬしに出逢えて幸運だったのじゃ。おぬしのような主に出逢えて、おぬしとともに今日まで生きてこられて」
「俺も、おまえに出逢えたこと、おまえとともに生きてきた日々、絶対に忘れない」
忘れようがない。
ラグナほど衝撃的な出遭いもなければ、ラグナほど特徴的な従僕などいようはずもない。そして、ラグナほど献身的なドラゴンなど、見たこともない。
「……嬉しいのう」
ラグナの声は、いつにもまして綺麗だった。
そんな彼女を抱き締めていると、こみ上げてくるものがあった。別れが近い。彼女は死ぬ。自分のために、死ぬのだ。撫でていた手が震えた。
これまで散々ひとを殺し、命を奪ってきたはずの手が、いま、抱き締めているものを失うことに恐怖を感じている。
「でもさ、やっぱり、おまえを失いたくなんてないよ」
「……なんじゃ? 泣いておるのか? なぜじゃ」
「なぜ?」
「別れに涙は不要じゃ。そう、あやつもいっておった」
ラグナのあやすような声は、彼女の魂が何万年もの時を越えてきたことを感じさせた。肉体年齢は幼くとも、精神年齢はセツナよりも遥かに上なのだ。ラグナの普段の態度から忘れがちなことだが、たまにそういう言動をされると、認識する。
彼女は何万年も前から、この世界に君臨する転生竜。
死んでもまた、蘇る。
「あやつ……だれのことだ?」
「だれだったかのう。よく思い出せぬ。が、いまはどうでもよいことじゃ。おぬしに涙は似合わぬ。笑え」
「この状況で、笑えるかよ」
セツナがラグナを強く抱きしめて、意思表示をした。失いたくはない。だれひとり、失いたくなどないのだ。ようやく手に入れたい場所。ようやく得た仲間。ようやく。ようやく――。
「笑え。我が主よ。傲岸に。不遜に。笑ってみせよ」
「無理だよ」
「そうか……残念じゃな。せめて、おぬしの笑顔を焼き付けておきたかったのじゃが」
ラグナのひどく残念そうな声がセツナの耳に刺さる。
「……わかった」
セツナは、肩越しに涙を拭うと、ラグナの体を引き離した。笑顔を見せるために。
「これで、いいか?」
彼は、思い切り笑ってみせた。きっと泣き笑いみたいな半端で不細工な表情になっているが、構いはしなかった。笑えない状況で笑うとなれば、こうするしかない。こうなるしかないのだ。
ラグナが、笑った。
「うむ。上出来じゃ。やはり、おぬしの笑顔はなにものにも代えがたいのじゃ。ここを出たら、必ず先輩やファリアたちに見せてあげるのじゃぞ?」
ラグナは、セツナの腕の中から出ると、こちらに背を向けた。飛竜は、その場で滞空している。セツナとラグナが滑り落ちたりしないようにという配慮だろう。行き届いている。
ラグナの視線の先には、ベノアの半ば廃墟と化した光景が広がっている。十三騎士の真躯と飛竜の戦いはまだ続いているものの、飛竜の数はかなり減ってきていた。それほどの時間も立たず殲滅されることだろう。何百もの数がいたというのに、だ。
十三騎士の真躯。
やはり、凄まじいというほかなかった。
「……ああ。いわれなくても、わかってるよ」
「いい返事じゃ。これで、わしも心置きなく死ねる」
ラグナの声は、笑っていた。本当に、心の底から嬉しそうな、しかしどこか寂しそうな声だった。それはそうだろう。彼女はいまから死のうとしている。彼女は転生竜。死んでもまた、生き返るに違いない。だが、それでも、死によって分かたれることになるのは間違いないのだ。
「待て」
「なんじゃ? せっかく格好よく決めようとしておったのに」
ラグナの呆れ果てたような、少しばかり嬉しそうな声を聞きながら、セツナは彼女を背中から抱きしめた。
「ラグナ」
「な、なんじゃ、なんなのじゃ? いったい……」
慌てふためくラグナのことなど無視するように、セツナは言葉を続けた。
「俺は、おまえのことを忘れない。おまえが転生竜というのなら、またどこかで生まれ変わるというのなら、必ず探し、見つけ出してみせるからな。そのときはまた、俺と契約して欲しい」
「セツナ……」
「約束したぞ。必ず、迎えに行くからな」
「馬鹿者。馬鹿者が。なにを……なにをいうのじゃ」
ラグナの声が、震えていた。いや、声だけではない。体中が震えていた。そして、セツナの腕に一滴、なにかが落ちてきた。泣いている。
「わしはいまほど嬉しいと想ったことはないぞ、セツナよ。わしはいま、この世界で一番の幸せ者じゃな。約束。約束か……」
「ああ、約束だ」
セツナが力強くうなずくと、ラグナの手がセツナの手に触れた。
「ふふ……こんなことを話していることが先輩に知られたら、大騒ぎかもしれんのう」
「そうだな」
レムだけではない。ファリアやミリュウ、シーラまで大騒ぎするかもしれない。まず、ラグナが美女に変身し、セツナと十数日の間、べったりしていたということが知れただけでも大変な騒ぎになるのは疑いようがなかった。
「楽しみじゃな。先輩に言いふらせるそのときが」
「ああ」
セツナは、ラグナが満面の笑みと浮かべているのを想像して、笑うほかなかった。それでいい、と想った。笑いながら、送り出そう。約束したのだ。生まれ変わった彼女を必ず探し出し、迎えに行くと。だから、いまは笑っていよう。
「追いついてきおったか。無粋な奴よのう」
前方から、フェイルリングの真躯がゆっくりとした足取りで近づいてきていた。数十メートルもの巨躯。街への被害を考慮してか、その動きこそ鈍重極まりないものの、歩幅は大きい。飛竜が飛び回っているからこそ距離を開いておくことができたのだ。滞空している以上、あっという間に距離を詰められるだろう。
「ラグナ」
「なに、心配するな。わしに任せよ。おぬしは、ベノア脱出後のことのみを考えるのじゃ」
「ああ。わかった」
「いい返事じゃ」
ラグナがセツナの手を解き、前に進んだ。すると、ラグナの全身が淡く発光し始めた。光は複雑な模様を描き出したかと思うと、彼女の全身を包み込み、セツナの視界を淡い緑で塗り潰した。ラグナの命を燃やす転移魔法が発動しようとしている。
「では、な」
ラグナの別れの言葉は、それくらい簡素なものだった。
それでいい。どうせまた、逢えるのだ。何年後、何十年後かわからないが、また、逢える。絶対に逢うのだ。生まれ変わり、再び産声を上げた彼女を探し出すのだ。そう約束している。約束は護るためにある――。
衝撃が肉体を貫いた瞬間、あらゆる感覚が失われた。世界から切り離されたかのような感覚。重力も五感もなにもなくなり、不安が胸を埋め尽くす。そして、再びの衝撃。すべての感覚が同時に復活し、重力を感じた。視界を染めていた緑が消え去ると、しばらくの間、ぼんやりとしていた。
やがて、目の前に見慣れぬ景色が広がっていることに気づく。平原だった。だだっ広い、とくになにがあるわけでもない平原。緑の草が地を覆い尽くし、大きな岩があって、木が数本、所在なげに立ち尽くしている。頭上には晴れ渡る空があり、雲のかけらも見出だせない。降り注ぐ太陽の光は、いつにもまして他人行儀だ。
ラグナの転移魔法が成功したのは、疑いようもなかった。