第千四百三十九話 真なる騎士
シドが繰り出した雷撃も、シヴュラの突風も、ベインの打撃さえも無視して、飛竜は飛び立っていった。粉塵の向こうで悠然と転回し、空高く上っていく。神卓の間には大穴が穿たれ、日光が差し込んでいた。振動は止まったものの、それでよしというわけにはいかない。
倒すべき敵を取り逃してしまった。
「なんということだ」
「あれはいったい……」
「ちっ、どうします? 団長閣下」
舌打ちとともに指示を仰いできたのは、ベインだ。ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコート。ワイバーンに取り付けず、叩き落されてなお冷静さを見失わないのは、“狂乱”という二つ名に相応しくはないが、十三騎士には相応しい対応だ。
フェイルリングは、ベインを見つめ、彼ともどもにこちらを見る十三騎士たちを見やった。
「どうするもこうするもあるまい。追い、黒き矛を封印しなければならん」
「黒き矛が送還された場合は?」
「その場合は、セツナ伯を封印するか、殺すほかない」
「御意」
シドやシヴュラが首肯するのを見届けてから、頭上に視線を戻す。ワイバーンが開けた大穴からはあざやかなまでの青空が覗いている。
「だが、一筋縄ではいかんな」
「ええ」
「先のと同じドラゴン……ワイバーンですね」
オズフェルトが見上げた先、神卓の間に穿たれた大穴の向こう側にワイバーンの群れが舞っているのが見えている。何十体ものドラゴンがベノアの上空を泳いでいるのだ。ベノアガルドは、ドラゴンの生息地として知られるヴァシュタリア共同体の勢力圏に隣接しているが、ベノアガルド領内にドラゴンが現れたという記録はなかった。ただの一体すら見たことがないというのに、何十、何百ものドラゴンが上空を覆わんばかりに襲来したというのは、どういうことなのか。
「なんという数……」
「あれを呼んだというの? あの子が?」
ルヴェリスが信じられないというような顔をした。彼には、セツナとラグナシア=エルム・ドラースの監視を任せていたのだが、十数日ばかりの彼らとの共同生活が何らかの影響を与えていることは疑いようがない。ルヴェリスはセツナとラグナを家族のように見ていた節さえある。ルヴェリスらしいといえばらしいことではあるし、そのことそのものは別段、悪いことではなかった。セツナが同志となってくれれば、彼らのことは、そのままルヴェリスに任せても良かったからだ。
しかし、同志になるという提案を拒絶し、あまつさえ敵対した彼らにいまも同じような感情を抱いているのであれば、考えものだ。
「あの子……か。すっかり毒されたな、フィンライト卿」
「閣下……」
「あれは……ラグナシア=エルム・ドラースは、緑衣の女皇という名を持つ竜王が一柱」
「竜王……」
「警戒してはいたが、まさか眷属を呼び寄せ、ベノアを襲撃させるとは……想定の範囲外だ」
ラグナシア=エルム・ドラースの危険性については、ミヴューラから散々警告されていたことではあった。ラグナシアがセツナとともにこのベノアに潜り込んでいたことが判明したのは、ラグナシアがその姿を現してからのことであり、ルヴェリスとテリウスによって拘束されたからだが、その危険性そのものは、それ以前からフェイルリングに知らされていた。
ラグナシア=エルム・ドラース。
ラムレス=サイファ・ドラース、ラングウィン=シルフェ・ドラースとともに三界の竜王と呼ばれる存在であり、転生竜。異世界の神が警戒するだけあってその力は偉大であり、この世界の土着の神といってもいいのだという。
しかし、ラグナシアは全盛期の力を失っており、それほど大きなことはできないだろうというのがミヴューラの判断だった。少なくとも、ミヴューラやフェイルリングたちを出し抜くようなことはできるわけがない、と考えられていた。ドラゴンは魔法を使う。しかし、魔法とて万能ではない。魔法では黒き矛を神の座から取り戻すといったことはできないだろう。ミヴューラがラグナシアの存在を黙認したのは、そういう理由からだった。
実際、黒き矛を安置していた神の座への干渉はなかった。
黒き矛は、セツナの手によって取り戻され、ラグナシアの魔法によって封印から解き放たれたのだ。
油断したわけではない。が、それに近い結果に終わってしまったのは間違いなかった。もっとも、それだけならば挽回のしようはあった。神卓の間の扉は、ミヴューラの力によって封鎖されている。開けることは困難。壁か天井を破壊しなければ神卓の間を脱出することは難しい。こちらは十三人。押し負ける可能性は皆無。
そこへ、飛竜の襲来があった。
この予期せぬ事態にも、十三騎士は混乱もしなかった。神卓の間の天井と壁を破壊して現れたワイバーンに攻撃を仕掛けたが、ワイバーンに軽傷を負わせるに留まり、セツナとラグナシアはまんまと逃げおおせてしまったのだ。
「十三騎士に命じる。ただちに出撃し、ベノアに襲来した全敵対勢力を殲滅せよ。幻装および真躯の使用を許可する」
フェイルリングの命令に十三騎士たちが一斉にこちらを見た。命令に、予期せぬ言葉が入っていたからだろう。真躯の使用許可など、そう簡単に降りるものではないからだ。
「真躯を用いてもよろしいのですか?」
「構わぬ。相手はドラゴンだ。幻装だけでは間に合わぬやもしれぬ」
ベノアの被害を最小限に抑え、なおかつ黒き矛を確保するためには、幻装だけでは足りないだろう。ベノアに襲来した飛竜の数は、軽く百を超えている。一体一体が先程の飛竜と同等の力を持っているとは言い難いとはいえ、だ。
「セツナ伯はどうされます」
「セツナ伯はともかく、黒き矛は放ってはおけぬ」
「では……」
「結界を張る」
フェイルリングの言葉に、オズフェルトは黙したままうなずいた。
雷光に腹を貫かれた飛竜は、吼え猛り、口から炎を噴き散らした。爆炎のように拡散する火の息は、雨の如くベノアの街に降り注ぐ。雷光がさらに飛竜の体を駆け抜けたかと思うと、次の瞬間、飛竜の巨躯が血飛沫を上げながら、ばらばらになって地上に落下していった。飛竜が巻いた炎は、どこからともなく吹き抜けた突風に攫われ、消える。シヴュラだろう。
飛竜の死体を足蹴にして空中高く飛び上がったのは、シドだ。手には雷光を帯びた剣があり、全身に電光を纏っていた。
セツナたちは、その様子を、飛竜の背中から見遣っていた。セツナたちを乗せた飛竜は、ベノア上空を南下している最中だ。ベノアは広い。抜け出すには、もう少し時間がかかった。
「さすがに手強いのう」
「あれが十三騎士の実力……」
「あれでも本気ではないというのが、おそろしいところじゃ」
「ああ」
距離は遠いが、このままではすぐに追いつかれそうだった。
そこへ小型の飛竜が突貫し、シドの肩に食らいつくが、雷光の剣が首を貫き、電熱が飛竜を体内から焼いた。断末魔の咆哮がシドを吹き飛ばす。中空に投げ出されたシドに向かって何体ものワイバーンが殺到する。シドの姿が見えなくなった。かと思ったつぎの瞬間、爆発的な閃光が飛竜たちを吹き飛ばし、それが顕現する。
雷神の如き姿のシド。サントレアの戦いでセツナを圧倒した形態だ。十三騎士の真の力というべきものだろう。神の力を借りた最終形態。セツナが圧倒されるのも当然といえる。セツナは、全身が粟立つのを認めた。震えが来る。あのとき、一瞬にして戦況がひっくり返されたことを思い出す。恐怖。殺されるかもしれない。そんな実感。絶望的なまでの力の差。
雷神は、周囲に飛び散った飛竜を雷光のような斬撃で切り刻み、焼き払って見せた。全長数メートルはあるだろう巨躯は、空中に浮いたまま、雷撃を放射する。数多の飛竜が雷神へと攻撃を集中させる。炎の息を吹き付けるものもいれば、氷の槍を発射するワイバーンもいる。雷撃に対して防壁を張るものもいるし、光弾を連射するものもいる。ドラゴンは魔法を用いる。ラグナほどではないにしても、その攻撃魔法の苛烈さは、見る見るうちにベノアガルドの都市が崩壊していくほどだ。
だが、そんな苛烈な魔法攻撃の中で、シドの巨躯は一切動じていなかった。傷ひとつ負ってはいない。炎の息吹にさらされようとも、氷の槍に撃ち抜かれようとも、光弾の直撃を受けようとも、雷神はその神々しい姿を維持し続けていた。雷神の反撃が始まる。
セツナは、黒き矛を握る手に力がはいるのを認めた。もう片方の手は、ラグナの肩を掴んでいる。そのラグナが、こちらを振り向いた。
「セツナ」
「なんだ?」
「行かせんぞ」
ラグナの鋭く冷ややかな一言に目を細める。いいたいことはわかる。だが。
「いまわしらがするべきことは、このベノアから抜け出すことじゃ。あやつらの追撃を振り払い、な。あやつらと戦っている場合ではないのじゃ」
「けどよ、それじゃあ、おまえの眷属が死んじまうぞ」
そういっている間にも、シドたちによって、飛竜たちはつぎつぎと撃ち落とされていた。ベノアに出現した巨躯は、シドの雷神だけではなかった。巨大な宝冠を纏ったような巨躯もあれば、両腕が肥大した巨躯もいる。異形の光背を負い、上空へと昇る巨躯がいれば、暴風を纏い、飛竜の元へと殺到する巨躯もいる。
やはり、十三騎士は全員、シドと同じような形態に変身することができるのだ。そしてそれが十三騎士の真の力に違いなかった。
「眷属のことなどどうでもよい。わしの庇護下で安寧を得てきた連中じゃ。わしへの恩返しのために死ぬことくらい、なんとも思っておらぬ。それがドラゴンじゃ。いうたじゃろう。我らは義理堅いのじゃ」
「でも」
「でも、ではない。いうたはずじゃ。わしはおぬしを護るとな。それがわしと先輩の約束じゃ。わしは約束を護る。護らねば、わしはわしでいられなくなる。約束こそがわしをわしたらしめるものなのじゃからな」
「ラグナ……」
「これ以上議論はせぬ。我が眷属の死を無駄にしたくなければ、わしの言うとおりにせよ」
「ああ……わかったよ。もう、なにもいわない」
振り向く。飛竜と十三騎士の戦いは、苛烈さを増す一方だ。何百という飛竜が魔法を撒き散らし、それに巨大化した十三騎士が応戦する。十三騎士の攻撃は凄まじく、飛竜の魔法攻撃も激しい。ベノアは上層、下層関係なしに壊滅していく。十三騎士は都市に被害が出ないよう立ち回っているようなのだが、飛竜の猛攻がそれを許さない。いや、むしろ飛竜はベノアに被害が広がるように攻撃している節があった。
飛竜たちの戦いは、セツナたちの逃走時間を稼ぐためのものであり、そのためにはベノア全土に被害を及ぼすことで十三騎士を始めとする騎士団の動きを制御するほうがいいという判断があったに違いない。だが、十三騎士は、ベノアへの被害などお構いなしに飛竜との戦いに赴き、巨躯を躍動させている。
「それでよいのじゃ。おぬしはわしの御主人様なのじゃからな。どーんと構えていよ」
「……そうだな」
セツナは、ラグナの考えに納得して見せると、ワイバーンの背に浮かせていた腰を落ち着けた。ゆっくりと息を吐く。ベノアは、戦場と化している。それこそ、地獄のような戦場に成り果てている。飛竜が舞い踊り、魔法が乱舞する。十三騎士の巨躯が飛翔し、神秘的な攻撃が空を彩る。破壊が起き、爆音がこだまする。竜の咆哮が響き渡れば、断末魔も鳴り響き、地響きが市街を揺らせば、建物が倒壊する。ひとの悲鳴さえ聞こえないものの、どれだけの死傷者がでるのかわからない。
セツナの胸が痛むのは、当然だ。
自分たちが逃げるために、無関係な人々を巻き込んでしまっている。ほかに方法がなかったとはいえ、これではただの破壊者で、ただの殺戮者だ。これでベノアから逃げおおせることができたとしても、ベノアガルドとガンディアの関係は修復しようのないものになるのではないか。セツナはそのことを心配した。自分の悪名が高まるのは、構わない。自分のためにひとが死んだのならば、その責めを受け入れるのは道理だ。しかし、そのために愛するガンディアが責められるのは、納得がいかないことだ。
だが、ほかにどうしようもなかった。
たとえば、黒き矛の能力が使えるのであれば、空間転移能力で一気にベノアの外まで転移することで、だれも巻き込まずに済んだのだが、残念ながら、黒き矛は眠ったままであり、能力は一切使用できなかった。
エッジオブサーストによる空間転移は、二本ある短刀の位置・座標を入れ替えるというものを利用したものだ。両方を持っている状態では使えない。また、時間静止も、ベノアからの脱出には向かない。
「どうしたのじゃ?」
「ん?」
ラグナの問いかけに目を向けると、彼女は飛竜に問いかけているようだった。見ると、飛竜はその場で滞空しており、先に進もうともしていなかった。
「なにを止まっておる」
眼下を見下ろすと、ベノアと外界を隔てる城壁の上空にまで到達していることがわかった。つまり、もうほんの少しでベノアから脱出に成功するということだ。だが、セツナたちを乗せた飛竜は、城壁の向こうへ進もうとはせず、その場に留まり続けるのだ。
「……ふむ」
なにを思ったのか、ラグナはおもむろに立ち上がると、飛竜の首の上を歩いていき、頭に乗った。そして虚空に腕を伸ばし、手を止めた。ラグナの手の先に波紋が広がっている。なにもない空間にだ。幾何学模様の波紋は、神卓に浮かび上がった魔方陣に酷似していた。
「これは結界のようじゃな」
「結界?」
「うむ。わしらをベノアから抜け出させまいと結界を張り巡らせたようじゃ」
「じゃ、じゃあ、どうするんだ」
「慌てるでない。結界なぞ」
ラグナは、結界に向き直ると、両手を翳した。翡翠色の髪が逆立ち、彼女がなにか魔法を使っていることが窺い知れる。
「結界なぞ……」
ラグナの全身から迸る光は、魔力が可視化したものなのだろう。光は全身から腕へ、腕から手の先に収束し、虚空の波紋へ流れ込んでいるようなのだが、波紋に変化はない。
「これは……おぬしや黒き矛にかかっていた封印とはわけが違うぞ」
「もしかして、おまえでも破れないのか?」
セツナが問うと、彼女は諦めたように両手を戻し、頭を振った。彼女を包み込んでいた魔力の可視光も消える。
「……いまのわしの魔力では、無理じゃな」
「そんな」
「せめて、あと二十年分くらいの魔力があればなんとかなったやもしれぬが……」
「二十年……そんなにか」
「うむ。この結界は、神の力がふんだんに用いられておる。わしの魔法で解除するには、多量の魔力が必要なのじゃ。いまのおぬしの全生命力を魔力に変換したとしても、無理じゃな」
「万事休す……だな」
「じゃな」
ラグナが冷ややかに認めたのは、セツナが振り返った先に、全長数十メートルはあろうかという巨人が聳え立っていたからだ。
「逃亡劇もここまでです。セツナ伯」
声は、フェイルリングのものだった。