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第百四十三話 ゴードン受難

 ザルワーン第三龍鱗軍翼将ゴードン=フェネックが軍団長権限をもってナグラシアを放棄し、全軍に撤退を命じたのは九月八日のことだ。

 雷雨も激しい明朝、ナグラシアを襲った嵐のような軍勢の前に手も足も出なかった。痛手を与えることもかなわず、多大な犠牲だけを払って敵前逃亡した。これ以上戦力を消耗するよりも、他の部隊と合流して反撃の機会を伺うほうが得策だと判断したのだ。

 どこと合流するか。

 それが一番頭を悩ませる問題だろう。西部のバハンダールと東部のスマアダは論外だ。ナグラシアからでは遠すぎる。用意もなしの行軍なのだ。辿り着く前にわずかな糧食も尽き果てるだろう。

 では、中部のゼオルかスルークということになる。このふたつの都市の位置関係は比較的近く、たとえどちらかに寄って拒まれたとしても、すぐにもう片方の街に寄れるという利点もあった。もっとも、自軍の受け入れを拒むような街もないだろうが。

 考えぬいた末にゼオルを頼ることにした。ゼオルに駐留する第七龍鱗軍の翼将ケルル=クローバーは、ゴードンもよく知る人物であり、頼りがいのある男だった。気の弱そうな外見ではあったが、頼られたら拒めず、一度受けたことは必ず成し遂げようとする人物でもあった。頼るなら、彼をおいてほかにない。

 敗軍の行軍とは惨めなものだった。ゴードンが下した撤退命令によって算を乱して逃げ出した兵士たちを集め、纏めるだけで時間がかかった。正規軍としての訓練を受けていながら、これである。地方という安穏がもたらした弊害であり、それは敵軍を迎撃できなかったことにも影響しているのだろう。

 もっとも、ゴードンが後から聞いた話では、敵襲を察した兵士たちは即座に南門を閉じ、城壁から弓で牽制したらしい。本来ならばそれで時間は稼げただろうし、その間に軍を整え、迎撃に移行できたはずだったのだ。

 だが、門が破壊され、敵軍がなだれ込んできた。

 門が閉じて安堵したのも束の間だったという。対応が遅れるのも無理はなかっただろうし、愕然とするのも当然だっただろう。ゴードンがその場にいても、どうしようもなかったかもしれない。彼自身が腰を抜かしていた可能性もある。

 彼は、自分が有能な指揮官だとは思っていないし、ましてや自分の一言で部下たちが整然と動くとも考えていない。ひと通りの訓練はしているし、兵士たちとの意思疎通も欠かさない。配慮の行き届いた翼将だという評判を又聞きしたこともある。だが、それとこれとは話が別だ。彼は、ナグラシアでの生活をより潤いのあるものにするために、兵士たちとの会話を欠かさなかっただけだ。なにより彼は、文官出身であり、ザルワーンの中央官僚になることを夢見ていたのだ。

 龍鱗軍の翼将など、だれが望むものかと吐き捨てたくもなる。

 しかし、翼将の就任を拒むということは、中央への道を完全に閉ざされるということだけでなく、文官としての現状さえも失われる可能性があった。受けざるを得なかったのだ。

 結果、彼は死ぬような思いをして、雷雨の中を駆けていった。

 ナグラシアを放棄し、部隊を纏め、ゼオルに向かった。ナグラシアからゼオルまで、それほどの距離があるわけではないのが救いだったのかもしれない。ナグラシア・マイラム間の距離と同じようなものだというし、強行軍なら一日半から二日で辿り着ける距離だった。

 不幸中の幸いだったのは、撤退時に持ちだした数台の馬車に多少の糧食が積載してあったことだ。どんな事態に陥っても構わないように備品の管理だけは忘れるな、と口を酸っぱくするほどいっていたおかげかもしれない。それはゴードンの手柄といっていいのかもしれないが、彼の忠告に耳を傾けてくれたものたちの手柄だと考えるほうが自然だろう。

 糧食は、合わせて一日分もあった。それだけあれば、ゼオルまでの道中を耐え切ることができるだろう。無論、全員に分配すれば雀の涙ほどにしかならないのだが、空腹を一時的にでもしのぐことができるのだ。そして、一時しのぎさえできれば、ゼオルまで耐え抜けるに違いない。糧食がないよりははるかに良かった。

 実際、糧食の発見は、撤退軍の士気を多少なりとも上げることに成功していた。

 八日は、体力の続く限りセオルに向けて駆け抜けた。部下が恐れていたガンディア軍の追撃部隊はこなかった。指揮官が余計な犠牲を払うまいと考えたのかもしれない。おかげで命拾いした。

 九日になると、雷が止み、雨が上がった。その日のうちにはゼオルに着くだろうという見通しが立ったおかげで、朝の食事は豪華だった。糧食を使いきり、腹を満たしたあとは、ザルワーンの大地を駆け抜けるだけだった。

 しかし、ここで思わぬ事態になる。

 皇魔おうまである。

 馬のような姿をした皇魔ブフマッツの群れが、第三龍鱗軍を蹂躙していった。何十体、何百体もの装甲馬が、敗軍の隊列を蹴散らしていった。迎撃すらできず、戦闘さえ起きなかった。軽傷者は多数でたものの、死者も重傷者もでなかった。

 皇魔はただ駆け抜け、転進し、戻っていっただけだったのだ。人類の天敵といわれる皇魔が、敵意も殺意もなく、こちらに見向きもせず走り抜けていったのは、まるで天災に遭ったかのような感覚をゴードンたちにもたらした。調練のようだという声もあったが、皇魔がそのような行動を取るなどと聞いたこともなかった。

 もっとも、皇魔が見逃してくれたおかげで、ゴードンたちはゼオルに辿り着くことができたのだが。

 ゴードンたちがゼオルに到着したのは、九日の夜中だった。

 ゼオルはザルワーンの都市のひとつだ。ナグラシアよりはよほど大きく、城壁の作りも立派なものだった。門も巨大で、ゴードンたち敗軍の兵には威圧的に思えたが、自軍の拠点でもある。なにも恐れる必要はなかった。

 先触れを出していたおかげで、ゴードンたちが門前に到着するよりも早く、第七龍鱗軍翼将ケルル=クローバーの出迎えを受けた。気弱な顔の翼将は、ゴードンとの再会を懐かしむと、心中をも労ってくれた。

「さぞ辛かっただろう」

「わたしは良いのだ。怪我を負ったものたちがいる。治療を受けさせてやってくれないか?」

「ああ、それくらいなら任せておくれ。ほかにたいしてしてやれることもないのだが」

 ケルルの言葉は、権限を超えるようなことを安請け合いはしない、という意思表示だと思ったのだが。

「中央からの別命があるまでは、君の下につこうと思うのだが」

 敗軍とはいえ、戦闘に使える人数はそれなりに残っている。その兵士たちとともにケルルの配下に混ぜてもらえれば、ゴードンとしても安心できた。ケルルはゴードンと同じ文官出身だったが、実戦経験もそれなりにあり、そういう意味でも頼りたかったのだ。

 もっとも、スルークの翼将のほうが実戦経験は豊富であり、戦いに赴くならばそちらを頼るほうがよいのだろうが、面識がない人物を頼るのは、敗走中の将であったゴードンとしても腰が引けた。

「ああ……しかし、わたしには決定権がないのだ」

「決定権がない? 君は翼将だろう?」

 ケルルが降格したという話を聞いた覚えもなく、ゴードンは怪訝な顔をした。ケルルは人好きのする気弱な顔をことさら卑屈にした。

「翼将よりも強い権限を持つ人間が派遣されれば、そうもなるさ」

 

 ケルルの話によると、中央で大きな政変があり、その余波がきたのだという。

 ナーレス=ラグナホルンの失脚と拘束。彼の部下であったヒース=レルガは獄死し、ナーレスの息のかかったものたちもつぎつぎと検挙されているということだったが、ナグラシアには、ナーレスが失脚したという話すら聞こえてこなかった。中央から遠いとはいえ、情報の伝達があまりに遅すぎることにゴードンは愕然とした。が、ケルルによれば、彼もそれを知ったのは数日前のことであり、ナーレス失脚による動揺を生じさせないための情報統制ではないか、というのがケルルの推測だった。

 恐らくはそれであっているのだろう。

 ナーレス=ラグナホルンといえば、世に知れた軍師だ。彼の采配はことごとく当たるという迷信めいた噂話が真実のように吹聴されており、ザルワーン軍人の一部では信仰さえされている。ログナーを瞬く間に属国へと落としたのはナーレスの手腕であり、その手際を目の当たりにすれば、彼を軍神と仰ぐのも無理は無いのだろうが、ゴードンとしては文官の身である自分を翼将に推薦した彼を恨んでも恨みきれなかった。ゴードンの中ではナーレスは無能であり、先見の明のない愚か者だったが、そんなことを口にすれば首が飛ぶのもわかっていたので、だれにもいったことはなかった。妻にもだ。

 首が飛ぶ、というのは比喩でもあり、物理的な意味でも首が飛んだ可能性もある。前述の通り、ナーレスには熱狂的な信奉者たちがいた。ナーレスへの暴言が彼らの耳に入れば、誅殺されるという可能性がないとは言い切れなかった。

 それほどまでの信者だ。

 ナーレスの拘束を知れば、暴動を起こしたかもしれない。ナーレスの失脚と拘束を秘匿するのは、ある意味では当然だったのだろう。ほかに理由がないとはいえないが、わかる範囲ではその程度のことだ。

 そして、ナーレスの失脚の余波がきたのは、二日前だという。

 龍府から聖将ジナーヴィ=ライバーン、フェイ=ヴリディアが訪れたのだ。ジナーヴィといえば、ミレルバス=ライバーンの次男であり、魔龍窟に落とされた男としてゴードンの記憶に残っている。

 彼は、聖将の権力を振りかざし、第七龍鱗軍の指揮権を翼将ケルルから剥奪したのだ。聖将は、ザルワーン軍の頂点に位置していた称号であり、その権限は、極端にいえば全軍を支配する程度のものだった。もっとも、いまではその上に神将という役職が設けられ、神将にはセロス=オードが任じられている。セロスもまた、卑賤の身から立身出世した人物であり、ミレルバスによって見出され、引き立てられたという。

 そんな男の顔色を、ゴードンは静かに窺っていた。

 ジナーヴィ=ライバーン。国主の息子。国によっては王子であり、王位継承者であっただろう。だが、ザルワーンという国の不思議さは、五竜氏族の頭首が持ち回りで国主をやっていたということだ。ザルワーンの政情が常に不安だったのはそれが原因だと囁かれてもいたが、建国以来続いてきた体制を変えるなど、簡単にできることではなかった。その不可思議な体制を是正しようとしたのがミレルバスであり、彼は権力闘争の末に国主の座につき、以来、国を変えようとしている。だからこそ、ゴードンはミレルバスを支持してはいたのだが。

 ジナーヴィは、若い男だった。二十代後半に差し掛かったばかりで、若造といっても過言ではない。だからといって、ゴードンは彼にへつらうのは苦でもなかった。生きるためならば大抵のことは我慢できる。しかも、自分ひとりのためではないのだ。多くの部下の人生がかかっている。そう思うと、俄然やる気が出てくるというものだ。

「第三龍鱗軍翼将ゴードン=フェネック。貴様は、敵軍の奇襲に遭い、ナグラシアを放棄し、ここまで撤退してきたということだが、それで間違いはないな?」

 ジナーヴィの声は甲高く、耳に障ったが、ゴードンは表情には出さなかった。むしろ恐縮して、平伏するような勢いで、彼の言葉を肯定した。

「その通りでございます」

「情報は貴様らが到着する前に届いたが、真偽を確かめる必要があった。が、貴様らがきてくれたおかげで、その手間が省けたのはよしとしよう。問題は、貴様らが敵軍についての情報収集をろくに行わなかったということだ」

「そ、それは……突然の事態ということもあり、また、確認する暇もなく撤退に追い詰められたということもありまして」

 ゴードンは言い訳に終始したが、これは間違った返答だったかもしれない、と言葉を並べながら考えていた。軍人が求めるのは精確な報告であり、くどい言い訳などではない。それもわかっていたはずなのだが、癖が出た。

 ジナーヴィは、ゴードンの態度に目を細めた。獲物を狙う蛇のような目だと、ゴードンは思った。

「戦いなんていうのはいつだって唐突なものだ。特にナグラシアは国境に程近い街じゃないか。いつ戦争になってもいいという気構えでいるべきだったな」

「は……」

「過ぎたことを責めても仕方がない。貴様らが持っている情報をすべて教えろ。些細な事でもいい。それが貴様らの役目だ。それから、第三龍鱗軍は第七龍鱗軍に合流しろ。俺の支配下に入れ、ということだ。が、このまま外に放り出されるよりはましだろう?」

 ジナーヴィの言葉には頷くしかなかったし、なによりゴードンがもっとも欲していたものが提示されたのだ。軍団の合流。これで、肩の荷が下りる。ゴードンは、全力で肯定した。

「もちろんです!」

「……貴様はそこそこ使えそうだ。ケルルともども俺に尽くせ。将来の栄達を望むならな」

 ジナーヴィの発言は、不遜極まりないものだったが、ゴードンはなにもいわなかった。肯定とも取れる態度だけを取り、彼がその場を去るのを待った。ゼオル庁舎の会議室の中には、ゴードンとジナーヴィしかいない。ジナーヴィは指揮官ということもあり、ゴードンひとりに構っている暇はないはずだった。

「俺に用事があるならいつでもいってこい。聞ける話なら聞いてやる」

 彼はそう言い残すと、会議室を去っていった。

 ミレルバス=ライバーンの息子とはいうものの、ミレルバスにはあった威圧感や気品が、彼にはまったく感じられなかったことに、ゴードンは彼の人生の不幸を思った。

 魔龍窟。

 彼は、そこで十年の時を過ごした。

 ザルワーンにおける地獄だ。

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