第千四百三十八話 緑衣の女皇
神卓の間に粉塵が立ち込める中、セツナは腕を引っ張られた。だれかと考えるまでもない。ラグナだ。
「ゆくぞ、セツナ」
「な、なんなんだよ!?」
神卓の間は、飛竜の襲来によって破壊されただけでなく、激しい振動の中にあった。壁に空いた大穴から差し込む光が濛々と立ち込める粉塵を映し出し、激しい揺れが立っていることさえままならなくする。騎士たちも、一瞬なにが起こったのかわからなかったようだ。
数多の咆哮が遠くに聞こえる。
「いいからついてくるのじゃ」
「は!?」
セツナが素っ頓狂な声を上げたのは、ラグナがセツナを引き摺るようにしてワイバーンに向かっていったからだ。躊躇している暇はなかった。ワイバーンの出現によって稼がれた時間はわずかしかない。迷っている間に騎士たちが動き出す。そうなれば、いかな飛竜とて無事では済むまい。セツナは覚悟を決めてラグナの後に続いた。瓦礫を乗り越え、ラグナが跨った飛竜の長い首に向かって跳躍する。ラグナが伸ばした腕に捕まり、引き上げられて飛竜の首から背中へと至る。飛竜の背中は鱗によって覆われており、捕まる場所がなかった。ラグナに示されるまま、彼女の腰に手を回す。飛竜が屈めていた首を持ち上げる。神卓の間の天井を更に破壊し、瓦礫が地上に降り注ぐ。
「ワイバーンだと!」
「これはいったい……!」
「なにしてんだ? ありゃあ敵だろ!」
「わかっている!」
十三騎士たちは、激しい振動の中でようやく態勢を立て直したらしかった。光の矢と光の槍、強烈な突風がワイバーンに殺到し、首や胸に突き刺さるが、飛竜は悲鳴ひとつ上げなかった。
「無駄じゃ。その程度の攻撃で、我が眷属が滅ぼせるものか」
「眷属……?」
「逃がすかよ!」
「逃げるわい、馬鹿め」
ラグナの嘲笑をかき消すかの如く、飛竜が吼えた。咆哮とともに放たれた衝撃波が、飛びかかってきたベインの巨躯を軽々と跳ね飛ばし、飛竜の巨体がベノア城を離れていく。雷撃や炎がつぎつぎとワイバーンに襲いかかるが、それらはワイバーンに直撃する前に霧散する。まるで見えない壁に阻まれているようだった。ラグナの防御魔法だろう。
飛竜は一対の飛膜を広げ、悠然と、しかし急速に上昇し、ベノア城から離れていく。やがて十三騎士の攻撃が届かなくなり、十三騎士たちも無駄な攻撃は止めたようだった。飛竜が城から離れるほど、飛竜が城に開けた穴の大きさが明白になっていく。白亜の王城に穿たれた大穴からは、神卓の間がはっきりと見えた。十三騎士たちが口惜しげにこちらを見ている様子も、彼らがすぐさまつぎの行動に移る様も見えていた。
セツナは、それ以上に気になることがあって、周囲を見回した。神卓の間に響いた咆哮は、ひとつではなかった。セツナたちを乗せた飛竜が口を閉じているときにも聞こえていたし、いまも、空を激しく揺るがしている。
「眷属っていったな……?」
周囲に視線を巡らせたセツナは、ただただ唖然とした。
ベノア上空を飛竜の群れが回遊していたのだ。十体や二十体どころではない。優に百体は超すであろう数のワイバーンが、我が物顔で空を舞っているのだ。飛竜たち。その姿は似通っている。鋭角的な頭部に一対の角を持ち、長い首がある。飛膜は一対。腕はなく、二本の大きな足がある。長い尾を持つという姿は、かつてセツナの前に出現した当初のラグナの姿によく似ているといっていい。しかし、完全に同じかというとそうではない。飛竜の多くはラグナの飛竜形態に酷似した緑色の鱗に覆われているが、中には赤い鱗を持つもの、青い鱗を持つものもいたし、角の数が違うものや体躯の大きな飛竜、小さな飛竜もいた。
「そう、眷属じゃ。わしのな」
「おまえに眷属なんていたのか……」
セツナは、飛竜の首に跨り、勝ち誇ったようにいってくるラグナに驚くほかなかった。彼女に眷属と呼べるものが存在するなど、聞いたこともなかった。何十、何百という数の飛竜がベノア上空を埋め尽くさんばかりに飛翔している。それらすべてがラグナの眷属だというのだろう。眷属。つまり、ラグナの支配下にある飛竜たち。
「当たり前じゃ。わしをなんだと思うておる」
「えーと、俺の下僕?」
「それはそうなのじゃが」
「否定しないんだな」
「だれがするか。わしはおぬしの下僕であることに誇りを持っておるぞ」
「誇り……」
セツナは、ラグナが胸を張って告げてきた言葉を反芻した。誇り。ラグナとの付き合いは、決して長くはない。短いというほどではないにしても、彼女がそこまで想ってくれるほどのことをしているのかというと疑問しか残らない。しかし、こちらに向き直り、力強く頷く彼女の表情を見る限り、そこに嘘や偽りはなさそうだった。
「うむ」
「そうか」
「じゃから、わしはいうたじゃろう。なにがあろうとも、おぬしを護ると」
「ラグナ」
「おぬしを護り、おぬしを先輩たちの元へと送り届けるのがわしの使命じゃ」
「ありがとう」
セツナが感謝の言葉を述べると、ラグナは頭を振った。
「礼をいうのはまだ早いのじゃ。ここから抜け出せなければ、意味はないからのう」
彼女のいう通りだった。
飛竜はまだベノア上空だ。ベノアから抜け出し、騎士団領から離脱できなければ意味がない。ベノアガルドから脱出することさえできれば、あとはどうとでもなるだろう。騎士団は、名声を求めている。それも救済者に相応しい名声をだ。黒き矛を放っておけないという理由だけでガンディアに攻め込んでくるのは考えにくい。侵略戦争では、武威を轟かせることはできたとしても、救済者としての評判が増大することはない。
正当な理由をでっち上げられるのならばまだしも、そうでもない限り、騎士団と事を構える可能性は低いだろう。
「そうだな……抜け出せるか?」
問うと、ラグナは飛竜の首元で胡座をかき、胸の前で腕を組んでみせてきた。
「任せよ。そのために我が眷属は来たれり。見よ」
周囲に視線を促されるまま見やれば、数多の飛竜がセツナたちを乗せた飛竜の周りに集まってきていた。編隊を組んでいるのだ。
「見ているが……これ全部おまえの眷属なのか?」
数え切れないほどの飛竜が、空を飛んでいる。
「うむ。我が祝福を受けし飛竜どもよ」
「すげえな……」
「いうておらなんだな」
「ん?」
「わしの名がなにを意味するか」
視線をラグナに戻すと、彼女の横顔が凛々しかった。長く美しい翡翠色の髪が風に流れ、彼女の顔をより印象的なものにする。
「やっぱりあるんだな、意味」
ラグナシア=エルム・ドラースという長たらしい名になんらかの意味があるということは、薄々感じていたことだ。しかし、聞く必要はないと想い、聞かなかった。呼び名さえあればそれでよかった。それ以上深く知るのは、もっと先でもいいと考えていた。まさか、この期に及んで、その名の意味を聞かされるとは想像してもいなかったが。
「緑衣の女皇。人間の言葉に直せば、そのような意味になる」
「緑衣の女皇……か」
それが、ラグナシア=エルム・ドラースの意味。
緑衣とはつまり、彼女の外見のことだろう。緑色に輝く外皮、鱗が緑の衣のように見えるからに違いない。そして女皇とは、女の皇ということだが、そこに引っかかりを覚えないではなかった。
「って、ドラゴンって性別ないんじゃなかったか?」
「転生竜である我らにはないが、ドラゴンという種族そのものにはあるぞ。でなければ繁殖などできぬからな」
「そりゃあそうだけど、なんでまた、女皇なんだ?」
「知らぬ。眷属共が勝手にそう呼び始めただけじゃからな」
「眷属がつけた呼び名なのか」
「うむ。ラムレス=サイファ・ドラースも、ラングウィン=シルフェ・ドラースも、同じよ。みずからそのような大仰な名を名乗ったりはせぬ」
「なるほどな」
とはいいつつ、理解できたのはラムレス=サイファ・ドラースのことだけだ。ラムレスとは一度会い、言葉も交わしたが、ラングウィンについては、そういう名のドラゴンがいることさえ知らなかった。
「さて。眷属共があやつらの注意を引いてくれている間に、わしらはここを去るとしよう」
「いいのか? それで」
「構わぬ。わしの庇護下で好き勝手生きてきた連中じゃ。たまにはわしのために命を賭けさせねば、なんのために庇護してきたのかわからぬ」
「庇護……ねえ」
セツナは何百もの飛竜が転回し、地上に向かって降り立っていく様を見遣りながら、うなるようにつぶやいた。ラグナの言葉とは思えなかったからだ。ラグナがなにかを庇護する光景は、想像しにくいものがある。
「ラムレスは眷属を皆殺しにした挙句狂王などと呼ばれたが、わしは、わしに庇護を求めるものを拒みはしなかった。積極的に眷属を増やそうともせなんだがな。勝手に増える分には構わなかったのじゃ。いずれ、使えるときがくる。そう考え、庇護下に置いておいた」
ラグナは遠くを見るような目で、ワイバーンたちを見ていた。ワイバーンの多くは、ラグナを一瞥すると、大きく頷き、旋回した。セツナたちを乗せた飛竜を中心とする編隊が崩れていく。地上からの攻撃が、こちらにも届き始めているのだ。飛竜たちは、それに対応するべく動いている。
「そのときが、いまか」
眼下、ベノア城の城壁各所や、上層区画高層建築物群の屋上に設置された無数の弩砲が、飛竜に向かって攻撃を始めていた。弩砲だけではない。騎士団騎士たちが弓を用い、飛竜を狙い射たんとしていた。だが、飛竜はそれらの攻撃を物ともせず地上に迫り、弩砲を破壊し、騎士たちを吹き飛ばしていく。
ドラゴンによる蹂躙が始まったのだ。
「そうじゃ。セツナ。おぬしが意識を失い、あやつらに捕まったときから、わしは眷属共に呼びかけ続けておった。あやつらがおぬしを確保した以上、どこかに幽閉される可能性が高かったからのう。そうなった場合、眷属共に幽閉地点を襲撃させ、混乱に乗じて逃げ出す腹づもりじゃった。無論、おぬしが目覚めてからのことじゃがな」
「色々、考えてくれてたんだな」
「当たり前じゃ。わしはおぬしの下僕じゃぞ」
どこか自慢げなラグナの返事に、返す言葉もない。
「しかし、おぬしが目覚め、黒き矛があやつらの手の内にあるということが判明してからは、少し考えを改めねばならなんだ。すぐさま眷属共を呼び寄せれば、黒き矛を取り戻す前に逃げ出す羽目になる。待機させておくのが大変だったぞ」
そういうと、彼女は飛竜の背を撫でた。優しげな手つきは、彼女が眷属を邪険には思っていない証拠だろう。むしろ、呼びかけに答えてくれたことを快く思っている風ですらある。
「なにせ、こやつらはわしに逢いたがっておったからのう」
「そうなのか」
「眷属にしてみれば、わしは女皇そのものじゃ。何千年に渡る庇護の恩を返したいと考えるのは、当然のことじゃろう?」
「ドラゴンって義理堅いんだな」
セツナがなにげなしにつぶやくと、ラグナがぎろりと睨んできた。
「なんじゃ? わかっておらんかったのか?」
「いいや。知ってたよ。おまえがいるからな」
「わかっておったのならば、よい」
ラグナははにかむと、すぐさま表情を険しくした。
「あとは、あやつらがどうでるか……じゃが」
ラグナが視線を落とした先で、飛竜が雷光に貫かれるのが見えた。
シドだ。