第百四十二話 光と影
「まずは緒戦の勝利、おめでとうございます」
レオンガンドが執務室に戻ると、ナージュ・ジール=レマニフラが待っていた。無論、彼女の三人の侍女も揃っている。サリシャ、ミルフェ、トリシュ。四人はまるで仲のいい姉妹のようで、彼女たちがいるだけで空間が華やいだし、あざやかになった。もっとも、一番華やぎがほしい作戦会議の場には呼べないのが少し残念だったが。
ナージュは、レオンガンドとの婚約が決まったあの日から、随分としおらしくなっていた。それまでの彼女は、奔放で気ままな南方人のイメージそのままに振舞っていたのだが、あのときを境に、レマニフラの姫君として、レオンガンドの将来の妻、ガンディアの王妃に相応しい人物になるべく努力しているかのように思えた。
「ありがとう。だが、まだ喜ぶには早いな」
「そうでしょうか? 緒戦を勝利で飾ることが出来たのは、喜ばしいことでしょう? 敗報よりは、よほど」
ナージュは、広い執務室の片隅に座っている。レオンガンドが戻ってくるまで侍女たちと戯れていたのだろう。数字の書かれたカードが、テーブルの上に散らばっていた。
レオンガンドがナージュの対面のソファに腰を下ろすと、ナージュの隣や後ろでくつろいでいた侍女たちが一斉に動いた。疲れ果てて寝ていた可能性もある。だとすれば、起こしてしまったのは申し訳ないことだとは思ったが、かといって彼女らに謝罪する理由もない。ここはレオンガンドの執務室であり、ナージュの自室ではない。
長身のミルフェがナージュとレオンガンドに深々とお辞儀をして部屋を出て行くと、ほかのふたりもそれに習って出て行った。気を使ったのだろうか。
「負けるとは考えてもいなかったよ。そのための布陣だった」
「セツナ・ゼノン=カミヤ殿、でしたわね」
「ああ。彼を先発隊に入れたのは、緒戦に勝つためだ。彼さえいれば、負けることなどない。戦局に風穴を開け、勝利をもたらす黒き矛。それが彼だ」
レオンガンドの構想では、第一・第四軍団の混合軍でも、なんとかなるとは踏んでいた。国境の突破くらい余裕だろうし、ナグラシアも数日以内に落とせただろう。しかし、それではだめなのだ。その数日がザルワーン軍の再構築にどれほど寄与するのかを考えれば、切り札たる黒き矛を投じてでも素早く陥落させたかった。わずか一日での国境突破とナグラシア制圧は、マイラムに到着していた軍勢を大いに沸かせ、勢いづかせることに成功していた。
いや、沸いたのは軍だけではない。
マイラム中が、ログナー人の活躍に喜び、感激しているものさえいた。ガンディアという国の一部と成り果てたいまでも、彼らの中のログナー人の血と誇りが、グラード=クライドやドルカ=フォームの活躍によって喚起され、熱狂の渦を生み出すのだろうか。
それは、レオンガンドの想定外の反応ではあった。ログナー方面軍だけで先発隊を構築したのは、単にマイラムへの到着が早かったからだ。マイラム駐留の第一軍団と、東部の都市バッハリアの第四軍団による混成なのも、それだけが理由だった。たとえばガンディオンが戦地にもっとも近ければ、ガンディア方面軍が先発隊となっただろう。
しかし、今回はログナー方面軍が先発隊でよかったのかもしれない。彼ら先発隊が、ログナーが長い間辛酸を嘗めさせられたザルワーンを相手に大立ち回りを演じたことは、ログナー人にとって大いに溜飲の下がる話でもあったのだろう。ログナー人のザルワーンへの憎悪は、ガンディア人の比ではない、というのはよくいわれた話だ。
ゆえに、危惧したこともあった。
ナグラシア制圧後、ログナー人の兵士が、ザルワーンの人々を相手に暴虐を働かないかということだ。彼らログナー人が積年の恨みを晴らす絶好の機会でもある。勝利の勢いに乗って、町の人々に手を出したら、それこそ意味が無い。そのことはグラードやドルカに強く言い含めていたし、ふたりの慕うアスタルからも厳命してくれているようなので、安心はしているのだが。
「彼と話をしたことがありますけれど、弟のように可愛らしい少年という印象があります」
「平時の彼はそれで間違っていないさ」
レオンガンドが肯定すると、ナージュは少し驚いたようだった。褐色の肌に白いドレスは、きっとお気に入りの組み合わせなのだろう。実際、よく似合っているし、彼女の持つ色気がより引き立っている。
「では陛下も、平時のセツナ殿を寵愛していらっしゃる?」
ナージュが、あでやかな笑みで問いかけてくる。
陛下も、ということは、彼女はセツナを寵愛しているということだろう。ナージュとセツナの接点など、数えるほどもないと思うのだが、ひとを気に入るのに、接した回数も、触れ合った時間も関係ないのかもしれない。現に、レオンガンドがナージュを気に入ったのは、長年一緒にいるからでも、無数に言葉をかわしたからでもない。
「寵愛……とは少し違うかな。ただ、セツナの居場所でありたいとは思っているよ」
彼が本質的になにを求めているのかまでは、レオンガンドにもわからない。ただひとついえることは、彼が欲しているのは、地位でも名誉でも金でもないということだ。セツナは金銭に頓着していないし、地位に関しても自慢したりするところがない。名誉を欲している、という様子もない。では、なぜこの国にいてくれるのか、と考えると、ここに居場所があるからではないか、という答えに行き着くのだが、それが本当にセツナの望むものなのか確証はなかった。確かめる方法もない以上、これと信じて行動するしかない。
もっとも、セツナが地位や名誉に拘りがないからといって、彼の地位を不当に貶めたり、名誉を奪うようなことはあってはならないし、戦功に報いるだけの金額も与えるのは、王として当然の義務だ。
「そこにわたくしの居場所はあるのかしら」
「ええ、もちろん」
レオンガンドが頷くと、
「冗談がお上手ですこと」
ナージュはそういってきたものの、別段、他意があるような発言にも思えなかった。表情は笑顔であり、ただの軽口にも取れる。
「冗談などと」
「いいんです。わたくしはわたくしの方法で、陛下の中に自分の居場所を作りますわ」
彼女は、自分の胸に手を当て、目を閉じた。その表情、仕草が、まるで美しい絵画のようで、レオンガンドは、一瞬我を忘れた。だから、なのだろうか。
「それはどういう方法で?」
影が、声を発した。
「あら?」
ナージュが驚いたのは、レオンガンドの背後に女が立っていたからだろう。見ずともわかる。アーリア。レオンガンドの身辺に常に寄り添うように存在する黒衣の女。存在してはいるのだが、だれにも認識できないため、レオンガンドですら存在を忘れることがある。それが、さっきだ。そして、彼女は、存在を忘れられることを極端に恐れた。忘れ去られれば元に戻れなくなるという思い込みがあるらしい。
「はじめまして、お姫様。わたくしはアーリア。陛下の影にございます」
アーリアのうやうやしい言葉遣いは、慇懃無礼というほかない。
レオンガンドは、冷ややかに告げた。
「出ろといった覚えはないが」
「たまにはわたくしも人前に出ないと、自分の存在を忘れてしまいますので」
影は自嘲気味に告げてきたが、自嘲しているはずもなかった。夜になればでてくる女がなにをいうのか。レオンガンドは目を細めたが、ナージュはどこか面白がっていた。
「陛下の影さんが、わたくしになにか?」
「陛下とご結婚なさるナージュ姫には、ぜひお耳に入れておきたいことがございまして」
アーリアの言い様に、レオンガンドは嫌な予感がした。しかし、ナージュにはそれがわからない。素直に首を傾げている。
「なんでしょう?」
「閨についてのことにございます」
「アーリア!」
レオンガンドは思わず大声を上げたが、アーリアには毛ほども効果が無いのはわかっていた。そして、目の前のナージュは、彼女の発言の意味を理解して、顔を真赤にしている。
「まあ」
「陛下はガンディアの将来を一身に背負い、日夜働かれておりますゆえ、その御心には負担が蓄積され――」
「アーリア、いつまで!」
振り返り、詰め寄ろうとしたが、レオンガンドが見たのは背後の壁であり、誰も居ない空間だった。アーリアの気配は、ナージュの隣に移動していた。
「いいではありませんか、陛下」
ナージュになだめられて、レオンガンドは渋々席に戻った。アーリアは、案の定、ナージュの隣に座り、舐めるように姫の顔を見ている。アーリアもいい女だといわざるをえないのが、悔しいところだ。
「わたくしは、陛下が甲斐性のある方だということに安心した次第ですわ」
ナージュの言動は、いままでの奔放な姫君とはまるで異なるものであり、レオンガンドも驚くしかなかった。放心するように、彼女の表情を見ている。彼女は、まるで慈母のような目をアーリアに向けていた。
「アーリアさんとおっしゃいましたね?」
「は」
アーリアが、ナージュの威厳に満ちた言葉に不意を突かれたようにたじろいだ。彼女もまた、天真爛漫が服を着ているようなナージュを知っていたのだ。だからこそからかいに現れたのだろうが。
「いままで陛下のことを影に日向に支えてくださったのですね。本当にありがとう」
「は……」
ナージュが、全身でアーリアを抱きしめた。アーリアが為す術もなく声を上げるさまは、レオンガンドにしてみればある意味痛快ではあったのだが、そういう感情が湧き上がるような雰囲気ではなかった。ナージュという姫君の底力を見せつけられているようだった。
ただ、圧倒される。
「わたくしがこうして陛下とお話していられるのも、あなたが陛下の身も心も守ってくれていたおかげです」
「いえ……」
アーリアは、ナージュに抱き竦められたまま、目を閉じたようだった。観念したようにも見えるし、敗北を認めたようにも思える。もっと別のことを考えている可能性もあるが、少なくとも、ナージュへの害意は消えている。敵意も悪意もなく、彼女に身を委ねている。レオンガンドは、アーリアのそんな姿をいままでに見たこともないし、想像したこともなかった。
そしてナージュは、アーリアを愛おしげに抱きしめたまま、つぶやく。
「ただ、閨のことについてはふたりきりのときにお話しましょう? 陛下のお耳に入れると心労が増えてしまいますもの」
「はい……」
アーリアはナージュの提案に同意すると、彼女の体温をしばらく感じた後、消失した。
ナージュは、アーリアが唐突に消えたことに驚いたようだったが、すぐにこちらに向き直った。
「わたくし、アーリアのことも好きになりましたわ」
「……桁外れだな」
レオンガンドは、自分ですら支配できない影を瞬く間に掌握してしまったナージュの手腕に感嘆の声を上げた。いや、手腕などではなく、ナージュ・ジール=レマニフラという人間そのものなのかもしれないが。だとしても、並大抵のことではない。
アーリアの言動をすべて受け入れ、その上で彼女まで虜にしてしまった。
(とんでもない女性を妻にするのかもしれない)
レオンガンドは、そう思ったが、後悔はしなかった。むしろ望むところだった。
獅子王の后には、そういう人物こそが相応しい。