第千四百二十六話 ベノアのセツナ(四)
訓練場は、それだけで小さな屋敷と呼べるくらいの建物だ。
奇抜な外観ばかりのフィンライト邸の建物群の中で、唯一大人しい色彩と無骨な外観が組み合わさり、奇跡的なまでの安定感を誇る建物であり、その重厚感は、建物の中に入っても変わらなかった。
建物まるまるひとつが訓練場になっているのは、フィンライト家がベノアガルドの歴史上、有数の家柄であり、数多の騎士を輩出してきた名門であるという自負もあるのかもしれない。ルヴェリスにいわせると、名ばかりの家柄になど意味はない、とのことだが、高名な騎士を幾人も輩出してきたという事実は、名ばかりの家柄などではないという証明なのではないか、とシドは想ったりした。
もっとも、そんなことは彼にもわかっていることだろう。
フィンライト家は、武門の家であり、ルヴェリスのような人物にとっては生き辛い家だったのは疑いようもない。ルヴェリスは根っからの芸術家肌であり、芸術家になることを夢に見ていたような人物だ。本来ならば家督を継ぐ予定だったのは彼の兄であり、だからこそルヴェリスは、芸術家を志したのだ。だが、不幸が重なり、彼が家を継ぐことになった。彼は芸術家の道を諦めざるを得なくなり、同時に、フィンライト家当主として恥じぬ実力を身につけなければならなくなった。
芸術家を目指していた彼が騎士に相応しい力をつけるのに、どれほどの努力を要したか、想像を絶するものがある。
無論、武門の家に生まれた以上、ある程度の鍛錬は課せられてはいただろうが、ルヴェリスいわく、自分は親に甘やかされており、生ぬるい環境で生きてきた、という。
そんな彼がいまや騎士団幹部ともいえる十三騎士のひとりとして、騎士団でも有数の実力者になっているのだから、事実というのはよくわからないものだ。
室内訓練場には、様々な用途の訓練器具が置かれているのだが、シドの目に真っ先に飛び込んできたのは、人集りだった。体格のいい男たちが一箇所に集まり、円陣を組んでいる。その外周にはルヴェリスの姿があり、彼の隣にはシヴュラ・ザン=スオールとハルベルト・ザン=ベノアガルドがいた。遠めにテリウス・ザン=ケイルーンの姿があり、さらに離れた場所に女が立っている。翡翠色の髪も美しい女こそ、セツナの従僕たるドラゴンの人間態だ。ドラゴンにとっては人間の姿に変身することなど、容易いことなのだろう。ラグナシア=エルム・ドラース。セツナ曰く、サントレアの戦闘中も、ずっとセツナの体に隠れていたらしい。
と、ハルベルトがこちらに気づき、手を振ってきた。
「あ、シドさんに皆さん!」
「やあ、ベノアガルド卿。元気そうだな」
「はい、わたしはいつでも元気です!」
「それはなによりだ」
シドは、ほかに言うべき言葉も見つからず、当たり障りのない返答を浮かべた。ハルベルトは、元気が取り柄の若者であり、シドは少しばかり、彼が苦手だった。嫌いとかそういうことではない。ハルベルトの健気なまでの明るさが、シドには少々眩しいのだ。その点、頷きあうだけで挨拶を交わせるシヴュラは良かった。彼は落ち着いている上、物腰も静かだ。シドに合う。
そういう意味では、暑苦しいベインも騒がしいロウファも、シドとは合っていないはずなのだが、彼はふたりと三人でいるとき、妙な落ち着きを覚えた。
「あら、早かったのね、ルーファウス卿」
ルヴェリスが、こちらを見て、そんな風にいってきた。彼に使いを寄越したのは数十分前のことだった。
「用事も用事ですのでね。早いほうがいいかと」
「そう」
ルヴェリスは、それ以上は聞いてこなかった。騎士団本部からの連絡なのだ。なにか、察するものがあるに違いない。
「それで、いったいなにをなさっているのです?」
「見ればわかるわよ」
そういって、ルヴェリスが視線だけで円陣の中へと促す。
「ありゃあセツナじゃねえか」
ベインが驚きの声を上げたのは、当然だろう。円陣の中心には、確かにセツナがいたのだ。彼は訓練用の防具を身につけており、木槍を手にしている。対峙しているのは騎士団の人間だろう。騎士の階級はわからないが、それなりの使い手であることは構えからもわかる。同じく訓練用の防具を身につけている。
対峙するふたりの間には、実戦さながらの緊迫感があった。
「セツナ伯と訓練でもしてるんですか?」
「少し違うわ」
ルヴェリスの返答だけでは、要領を得ない。
セツナが訓練を行うこと自体は、不思議なことでもなんでもなかった。騎士団の監視下に置いているとはいえ、訓練などの行動を禁じてもいなかった。ルヴェリスの監視下であればなにをしてもいいし、ルヴェリスが同行するならベノア市内の散策も許可している。監禁しているわけでも、幽閉しているわけでもないのだ。体が鈍らないよう訓練を行うのは、むしろ推奨しているほどのことだった。
セツナは戦闘者なのだ。鍛錬を怠るような戦闘者に価値などはなく、肉体を維持できない戦士など、救済者になれるはずもない。シドとしては、彼を救済者の同志として迎えたいのだ。であらば、彼が毎日鍛錬を行っているという情報ほど、嬉しいことはない。
故に騎士団騎士たちが円陣を組み、食い入るようにセツナの戦闘を見守るのもいい傾向だと考えこそすれ、悪いことだとは思わなかった。
騎士が動く。木剣の剣先を震わせたかと思うと、右前方に滑るように移動する。切っ先で相手を誘ったのだ。が、セツナは微動だにせず、騎士の移動先に向かって踏み込み、木槍で足を払った。騎士は、飛ぶ。その瞬間、騎士の胴に木槍の柄頭が吸い込まれていた。騎士がもんどり打って倒れるのを、セツナは、石突で貫くような姿勢のまま見ていた。
「勝者、セツナ伯!」
審判役の騎士が宣言すると、円陣が湧いた。
「おおっ」
「さすがはガンディアの英雄!」
「これで三十人抜きだぞ!」
騎士たちの歓声にシドは眉を潜めた。
「三十人抜き……?」
「へえ、やるじゃねえか」
ベインの嬉しそうな声は、戦闘狂の血が騒いで仕方がないとでもいうようなものであり、ロウファが難しい顔をするのも無理はなかった。
「フィンライト卿、これは?」
「あー……いっておくけれど、わたしの発案じゃあないわよ。言い出しっぺはテル君だから、勘違いしないように」
「フィンライト卿も乗り気だったじゃないですか。わたしひとりのせいにしないでくださいよ」
いつの間にか近づいてきていたテリウスが、ルヴェリスに渋い顔をする。
「セツナ君を焚き付けたのは、あなたでしょ」
「それはそうですが、場所を貸してくださったのは、フィンライト卿、あなたです」
「話が見えてこないのですが」
「ああ、そうよね、うん、わかった。説明してあげる」
ルヴェリスはそういうと、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせてきた。
ルヴェリスの説明によって、シドたちは事情を理解することができた。
彼の話によれば、セツナは、いつまで経っても黒き矛を取り戻せず、国に帰ることもできない日々に鬱憤が溜まっているようであり、訓練にも力が入らない日々が続いていたという。ルヴェリスはそんな彼のために気分転換でもさせてあげたいと考えていたが、いい方法も思いつかなかった。そんなとき、テリウスが屋敷を訪れ、セツナにある提案をしたのだ。
競技試合で騎士団騎士を百人倒せば、騎士団長に取り次いでやろうという提案に、セツナは、一も二もなく応じたというのだ。セツナにしてみれば、願ったり叶ったりの提案だったのだろう。セツナは、黒き矛を取り戻すために騎士団の監視下に残ったのだ。黒き矛は騎士団長フェイルリングが管理している。フェイルリングと会見する機会こそ、待ち望んでいたのだ。
場所はルヴェリスが提供し、騎士団騎士はテリウスが部下の中から選りすぐりの百人を用意した。
「百人抜きで団長閣下と会見する権利……ねえ」
「馬鹿げた話だ」
ロウファがだれにも聞こえないような声で吐き捨てるようにいったのをシドは聞き逃さなかった。ロウファは、テリウスと折り合いが悪い。それをいえばベインも同じだが、ベインは、むしろ面白そうな顔をしていた。戦闘狂には、好ましい出来事なのだろう。
円陣の中、セツナはさらにもうひとりの騎士を撃破していた。これで三十一人もの騎士を倒したことになる。どれほどの時間戦い続けているのかわからないが、セツナの呼吸は少々荒くなっていた。長時間、戦い続けているのだろう。体力も気力も消耗しているに違いない。従騎士はともかくとして、准騎士、正騎士ともなると、順当に強い。そんな連中を相手に百人抜きなど、そう簡単にできるものではなかった。
「百人抜きができれば、本当に取り次ぐつもりなのか?」
「騎士に二言はありませんよ」
ロウファの問いに、テリウスはにべもなくいった。そして、さらりと付け足す。
「団長閣下が応じてくださるかどうかは、別の話ですが」
「……なるほど」
「テル君が取り次いだところで、団長閣下が応じてくれるとは思えないでしょ、でもまあ、セツナ君の鬱憤晴らしにはちょうどいいかも、って想ったのよねえ」
「鬱憤晴らしに騎士たちを使うのかよ」
ベインがあきれたようにいった。ルヴェリスが他人事のように言い返す。
「わたしの部下じゃないし」
「相変わらずひでえな」
「あんたほどじゃないわよ」
「へいへい、俺ァひでえ男でございますよ」
ベインとルヴェリスが言い合っている間にも、円陣の中の戦いは続いている。木剣による競技試合。点数を競うのが競技試合だが、セツナは、体力のことを考えてか、点を取るよりも相手を倒すことを考えているようだった。転倒勝利という奴だ。
「……三十二人、か」
「あと六十八人。体力、持つのかねえ」
「どうかな。いかにガンディアの英雄といえど、百人抜きは辛いだろう」
「百人抜きとはいっても、連勝する必要はないそうですよ」
とは、ハルベルト。ひらひらと振る手には、傷ひとつ見当たらなかった。
「へえ。案外ぬるいな」
「常識的に考えれば、これでも十分にきついはずだが」
「そりゃあそうか」
シヴュラの言にベインは納得したようだったが、
「まあでも、あと六十八人も戦うのは大変だろう」
「お、おい、どうするつもりだ」
円陣に割り込んでいくベインに対し、テリウスが慌てた。が、ベインはテリウスを振り向こうともせず、円陣の中に入り込むと、つぎの対戦のために出てきた騎士を円陣に下がらせた。十三騎士が出てきたのだ。セツナとの対戦を楽しみにしていた騎士も、下がらざるをえない。
ベインは審判から木剣を受け取ると、軽く素振りをしてからセツナに切っ先を向けた。
「俺を倒せたら、五十人分でどうだ?」
「……五十人分の価値しかないのか、あんた」
セツナは、ベインの乱入にも表情ひとつ変えない。堂々としたものだ。シドは、そんなセツナだからこそ、気に入っているといってもいい。それはどうやら、ベインも同じらしい。彼は、嬉しそうに笑った。
「いうねえ。そういうところ、嫌いじゃないぜ」
「そうかい」
セツナが木剣を構えると、円陣の外から声が響いた。
「セツナよ、気を抜くでないぞ」
「わーってるよ」
ラグナシア=エルム・ドラースの声援に対し、セツナは適当に返事をした。ベインが木剣を構える。
「本気で来いよ。でなきゃ、死ぬぜ?」
「ああ」
審判がふたりの間に立ち、円陣を構成する騎士団騎士も円陣の外の十三騎士も、食い入るように見つめていた。
いままでにない緊張感が、ふたりを囲む円陣に満ちた。