第千四百二十三話 天使の囁き
夜を迎えたマルダールは、ガンディア解放軍の勝利に湧いていた。
ジゼルコートの謀反後、ルシオン軍によって真っ先に制圧されたマルダールだったが、司政官を筆頭に、住民のほとんどすべてがレオンガンドによる解放を待ち望み続けていたのだ。ジゼルコートがいかにまっとうな正義を掲げ、理屈を振り翳そうとも、謀反は謀反であり、背信行為を支持するものなどそういるものでもないのだ。
なにより、ガンディア本土は、なにもかも上手くいっているといっても過言ではない情勢だった。
レオンガンドの即位以来、出来過ぎではないかといいたくなるくらいに物事は順調に進んでいた。国土拡大と国力の増大は、ガンディア本土のひとびとに恩恵を齎すばかりであり、レオンガンドの政治に不満を持つもののほうが少数派だった。レオンガンドは、シウスクラウドの後継者として申し分のない働きをしていたし、国王としてもこれ以上ないくらいの名君として、ガンディア本土の人々は見ていた。
小国家群統一という途方もない目標も、レオンガンドがガンディアを率い続けるのならば叶うのではないかと思われているほどの実績の数々が人望を生み、圧倒的な支持率へと繋がっていた。このままレオンガンドがガンディアを引っ張ってくれれば、ガンディアはもっと強く、大きくなるだろうとだれもが想っている。
ジゼルコートの謀反は、そういったひとびとの夢想に水を差す行為にほかならず、支持されなかったのは道理というほかない。
ジゼルコートは、大義を掲げているという。
なぜ、謀反を起こしたのか。
なぜ、レオンガンドに反旗を翻し、王都を制圧し、本土を支配下に置いたのか。
すべてはガンディアのためだ、という。
このままではガンディアは滅亡の一途を辿るであろうということを、ジゼルコートは滔々と語り、文書として国中にばら撒いた。理路整然とした文章は、彼が謀反に至った経緯について包み隠さず語られており、彼の裏切りが私利私欲のためのものではないということを表明するものだった。ジゼルコートの掲げた大義には、納得の行くところもある。実際、ジゼルコートの文章に感銘を受け、ジゼルコート派に鞍替えした市民もいるという。
ジゼルコートは、しばらくの間、ガンディアの国政を一手に任されていた。ガンディアが巨大化するに従い、増大し、複雑化していく問題について一番よく理解しているのが、ジゼルコートだった。ジゼルコートは、そういった問題を放置するのではなく、ひとつひとつ解決することに時間を割くべきであり、国土拡大など、それら問題が解決してからにすればいいと主張しているのだ。
だが、レオンガンドは、国土拡大こそ優先するべきという考えである。
意見の相違。
ジゼルコートは、謀反を起こさざるを得なかった、と文章の中に記している。そうでもしなければ、ガンディアは、様々な問題に飲まれ、破滅に向かっていくだろう。
ジゼルコートの主張は、しかし、国民の支持を得られるものではなかった。マルダール市民の多くは、ジゼルコートの文章に対して疑問を抱くほかなかったという。それもそうだろう。実際問題、体感としてわからないようなことばかり、彼は言及していた。
それにたとえジゼルコートの主張が正しかったとしても、彼が謀反を起こした背信者であることに変わりはなく、マルダール市民を始めとするガンディアの国民が彼に反発を抱くのは必然だった。
ガンディアは、これまで上手くいっていたのだ。
厭戦気分も収まり、これからも上手くいくに違いないと考えていた矢先、ガンディアでも随一の権力者が謀反を起こしたのだ。
マルダールのひとびとがジゼルコートを口悪く罵るのも、無理ないことだと、エイン=ラジャールは想った。
夜。
彼は、月明かりもあざやかな夜の街を部下とともに歩き回っていた。情報収集のためもあるが、解放軍の各軍の様子を見て回るためでもあった。マルダールの軍団拠点はそう大きなものではない。最大収容人数三千人にも満たない施設であり、解放軍はマルダール市内の各所に分散して休息に入っていた。
ザルワーン方面軍、ログナー方面軍、ルシオン軍それぞれの代表者に挨拶して回り、それから、ジゼルコート軍の全兵の様子を見に行った。
マルダール解放戦において、ジゼルコート軍は半数以上が戦死している。生き残った兵士のほとんどは投降に応じ、解放軍の監視下に置かれていた。しかしながら、ルシオン軍とは違い、彼らはつぎの戦いには使えないだろう。ジゼルコートへの忠誠心のみで生きているような連中だ。ジゼルコート軍と対峙した瞬間、こちらに対し敵対行動を取るのは目に見えている。マルダールに置いておくほかない。
肉壁として使えなくはないが、わざわざレオンガンドの評判が悪くなるような戦術を用いるまでもない。
敵は、残すところクルセルク方面軍を主力とする王都の軍勢のみだ。そこへラクシャ軍、アザーク軍が合流するかどうかはまだわからない。もしかすると、両軍はマルダールに攻撃してくるかもしれず、そのほうが解放軍にとっては都合がいい。各個に撃破し、ジゼルコート軍の戦力を削減することが可能だからだ。
クルセルク方面軍そのものも、大した脅威ではない。
クルセルク方面軍は、クルセルク方面の広大さに比例した大戦力を誇っているが、ガンディア本土に入っているのは、全軍ではない。クルセルク方面の防衛を疎かにはできないからだ。総勢六千がデイオン=ホークロウの指揮下に入り、ジゼルコートの手先となっている。
強敵では、ない。
数の上ではこちらのほうが圧倒的に有利だ。
ジゼルコートにさらなる奥の手でもない限り、解放軍が勝利するのはだれの目にも明らかだ。
だからこそ、彼は考えるのだ。どこかに落とし穴はないか、と。なにかしくじったりはしていないか、と。ジゼルコートに逆転の可能性はないものか、と。
しかし、あらゆる可能性を想定し、様々な状況を脳裏に思い描くのだが、戦力差が圧倒的である以上、解放軍が負けるという可能性が見えなかった。
(ただ)
エインは、マルダール市街の中心地に立ち並ぶ建物群のひとつに足を踏み入れながら、最悪の状況を想定する。
(《獅子の尾》の皆さんが万全でないことを考慮すると、戦力は数段落ちる……)
だが、そのことを考慮したとしても、ジゼルコート軍と解放軍の兵力差は大きく、とてもではないが負ける要素は見当たらない。デイオン率いるクルセルク方面軍が獅子奮迅の活躍をしたところで埋めようのない兵力差がそこにはあるのだ。さらにいえば、“剣鬼”ルクス=ヴェインや“剣聖”トラン=カルギリウス、魔晶人形ウルクといった特記戦力は、兵力差以上の戦力差となってジゼルコート軍の前に立ちはだかるだろう。
《獅子の尾》の三名が重傷を負い、つぎの戦いに投入できるかも怪しい状態だとしても、特に大きな問題にはならなさそうだった。
その建物は、《獅子の尾》の宿所であり、エインは隊長代理に挨拶するべく訪れたのだ。
三階建の建物の一階にある広間に《獅子の尾》の隊士は集まっていた。ルウファ・ゼノン=バルガザール、ファリア・ゼノン・ベルファリア=アスラリア、ミリュウ・ゼノン=リヴァイア、それにマリア=スコール、エミル=リジルの五名に加え、魔晶人形ウルクとミドガルド=ウェハラムも一緒にいた。さらにいうと、グロリア=オウレリアとアスラ=ビューネルの姿もあった。つい数時間前までジゼルコート軍に属していたふたりは、現在、《獅子の尾》預かりとなっている。
そのほとんどが広間の各所の寝台の上で寝ていた。ウルクは寝台ではなく、金属製の棺の中から上体を覗かせていて、その側に置いた椅子にミドガルドが腰掛けている。マリアとエミルは皆の様子を見て回っている最中のようだった。軍医のふたりは、戦闘中よりも戦後のほうが忙しい。《獅子の尾》専属とはいえ、腕のいい軍医であるマリアは引く手数多だ。そしてマリアは助けを求められると無視できない質なのだ。だから、マルダール中を駆け回り、手の足りない医療班の手伝いをしているのだ。
「おや、軍師殿じゃないか。分を弁えない怪我人どもの様子でも伺いに来たのかい?」
「えっと」
エインが呆気にとられたのは、マリアの口の悪さに驚いたからだ。
「分を弁えない……」
「怪我人どもって」
「そうじゃないか。医者のいうことにも耳を貸さず、後に引くような怪我してばっかりの馬鹿なんざ、どもで十分だよ、どもで」
マリアは、腰に手を当て、上体をそらし気味にしながら一同を見やった。マリアは美女ではあるが、大柄で、迫力が半端ではない。
「ひ、酷い……」
「でも、言い返しようがないわ……」
「本当にね……」
《獅子の尾》の面々が三者三様にうなだれたのは、実際に反論のしようがないからだろう。もちろん、三人にしてみれば、そうでもしなければ勝てなかったというのはあるのだろうが、医者からみれば、そんなことはどうでもいいのだ。特にファリアは重傷であり、現在当て木をしている左腕の完治は不可能ではないかとさえいわれていた。それだけオウラ=マグニスが強敵だったということなのだが、マリアには関係がない。
マリアは軍医であって戦士ではない。戦士には戦士の言い分があるように、軍医には軍医の考え方があるのだ。敵を倒すよりも、無事でいてくれたほうが遥かにましだ、と彼女は考えているのだろう。
「それにしても、言い方というものがあるはずですわ」
といったのは、アスラ=ビューネルだ。両肩、両腕、両足に包帯を巻かれた美女は、ミリュウの寝台に自分の寝台をくっつけた上で、ミリュウに寄り添っていた。彼女がミリュウのことを姉のように慕っていたという話は知っていたため、彼女がミリュウと仲良くしていることに疑問を抱きはしないのだが、それにしても打ち解け過ぎだと思わないではなかった。
ついさっきまで命のやり取りをしていたのではないのか。
「そうだな。わたしのルウファは頑張ったよ」
「わたしのルウファって、なんですか!? ルウファさんは、わたしのです!」
「なにをいうかと思えば……ルウファはわたしのものだ」
「はあ!?」
エミルが素っ頓狂な声を発し、マリアがやれやれと頭を振った。エインを始め、皆、ふたりのやり取りに呆然とする。
「わたしが手塩にかけて育て上げたのだよ。何年も何年も、わたし好みのいい男になるように、な」
「ななななななにをいってるんですか!?」
「本当のことだ」
「ルウファさん!?」
「え、いや、あれ? なんで?」
グロリアに引き寄せられたルウファは、エミルに詰め寄られ、ただただ愕然とするほかなかったようだ。
「モテる男はつらいわね」
ファリアが、ルウファの様子を横目に見遣りながら、いった。なんとも薄情な言い方だったが、そういいたくなるのもわからなくはないくらい、ルウファたちは賑やかだった。
「まあ、良かったじゃない。散々セツナのこと羨んでたんだから」
「お姉さまは、わたしのものですよね?」
「冗談じゃないわよ! なんであんたのものになんなきゃなんないのよ! あたしはセツナの――ぐえ」
ミリュウはアスラに食ってかかろうとしたようだが、勢い余って立ち上がろうとした瞬間、寝台の上に崩れ落ちて潰れた蛙の悲鳴のような声を発した。
「馬鹿だねえ、はしゃいだら傷に響くのは当然だろ」
「ぐ……おのれ……図ったな」
「だれがだい」
「せんせ……いつか、倒す……」
「ったく、なにいってんだか」
マリアがあまりの馬鹿馬鹿しさに大笑いした。
そんな、いつもと変わらない《獅子の尾》の様子にエインはなんともいえない気分だった。
「なんというか」
「ん?」
「みなさん、お元気そうで」
皆、重傷を負ったのではなかったのか。エインは、暗にそういった。
「まあ、ご覧のとおりさ。あたしが見た限りじゃ、隊長補佐と一般隊士は戦闘不能――だったんだけどね」
「だった?」
「隊長代理の師匠だっけ? 彼女のおかげでね、なんとかなりそうなんだよ」
「グロリアさんのおかげ……ああ、召喚武装ですか」
「そう。まったく、それがある意味医者泣かせでさ」
マリアの話によれば、マリアが皆の容態を見たあと、グロリアが召喚武装を呼び出したのだという。エンジェルリングと名付けられたその召喚武装の能力によって、グロリアを始め、この場にいるだれもがある程度は回復したらしい。
グロリアいわく、エンジェルリングは対象の生命力と引き換えに代謝能力、自然治癒力を増大させる能力があるそうだ。対象の生命力を引き換えに、とはいうものの、オーロラストームの“運命の矢”とは異なり、寿命を奪うことはないらしい。
その分、“運命の矢”ほど強力な回復効果は望めないだろうというのがファリアの見解であり、グロリアは否定しなかったそうだ。また、生命力を代償とする以上、瀕死の重傷を負ったものにエンジェルリングを翳したところで、傷を回復し切る前に命を失うこともありうるという。そういう場合には、“運命の矢”のほうがいい、ということだ。もっとも、“運命の矢”は、寿命を差し出さなければならず、場合によっては回復中に命を失うこともあるらしい。
どっちもどっち、ということだ。
傷を回復するというまるで神の奇跡か魔法のような召喚武装の能力には、短所がつきものだということだろう。
それでもファリアの左腕は完全には回復していないし、ミリュウも傷が塞がったくらいで、重傷には変わりない。アスラも同じだ。先もいったようにエンジェルリングによる回復力は、生命力の消耗具合による。回復を優先して生命力を消費し続けると死ぬこともありうるからだ。
自然治癒に任せるよりは格段に早く回復することができるというだけでも御の字だ。
これで、《獅子の尾》を戦力に数えられることができそうだった。