第千四百二十一話 負け戦
「報告!」
マルダール市内にあるジゼルコート軍拠点本部に伝令兵の悲鳴じみた声が響いたのは、中天に昇った日が傾き始めた頃だった。
滲んだような色合いの青空に白雲が棚引き、春の日和を映し出している――そんな窓の外に広がる風景とは打って変わって、不安定なまでの緊張感が本部には満ちている。
本部は、マルダールの中心にあるガンディア軍施設内、白の塔と呼ばれる建造物の中にある。ガンディア軍施設は堅牢な塀と堀に囲まれている上、防備を重ねられており、拠点としては十分すぎるほどの機能を備えている。その拠点内でも最も目立つのが白の塔と呼ばれる建造物であり、ガンディアは、マルダールの象徴としてこの塔を建造したという。現在はマルダール駐屯軍の象徴的な建物として知られており、このままジゼルコート軍が支配し続けていれば、ジゼルコート軍の象徴ともなり得たかもしれない。
そんな、どうでもいいことを考えてしまうのは、現実から逃避したいという衝動からなのか、どうか。
「アザーク軍が敗走した模様!」
本陣にどよめきが走った直後、さらに伝令兵が本部に駆け込んできた。それもひとりではない。数名の伝令兵が、立て続けに飛び込んできたのだ。
「報告します! ラクシャ軍が後退を開始! レオンガンド軍別働隊に打ち破られた模様!」
「ご報告! アスラ様がレオンガンド軍に投降したとのこと!」
「報告! オウラ様が戦死されたとのことです!」
「……立て続けだな」
ゼルバードは、つぎつぎと飛び込んでくる情報の数々に頭を抱えるでもなく、ただ、そういった。本陣内のジゼルコート軍将校たちは、もはや動揺を隠せないでいる。マルダールにおけるジゼルコート軍の兵力そのものは、それほど多くはない。総勢二千人あまり。たったそれだけでマルダールの防衛に当たっていた。レオガンド軍に対抗するためには、アザーク軍、ラクシャ軍の兵力が必要不可欠であり、さらにいえばオウラ=マグニス、アスラ=ビューネル、グロリア=オウレリアの三名という主力がいなければ、マルダールを護りつつレオンガンド軍を撃退するなど到底不可能だった。
レオンガンド軍の兵力は圧倒的であり、一騎当千の実力を持つ三人と他国の軍勢に頼らざるを得ないのが実情だったのだ。それら、頼みの綱としていた戦力が、あっという間に失われた。
「報告!」
「今度はなんだ?」
ゼルバードは、やれやれと本部に飛び込んできた伝令兵を見やった。伝令兵が肩で息をしているところをみると、大急ぎで駆け込んできたことがわかる。血相を変えている。よくない報告なのだろう。
「グロリア様がレオンガンド軍に下ったとのこと!」
本部内が静まり返るのも、無理はなかった。
頼みの綱の武装召喚師が三名とも敗れたということなのだ。そしてそれは、ジゼルコート軍の戦力が激減したことを示している。激減、などという次元の話ではない。壊滅的といっていいほどの状態に陥っている。
「グロリア殿まで、敗れたか」
「ゼルバード様……」
将校のひとりが、声をかけてきた。悲壮な表情の将校には、この戦いの行く末が見えているに違いない。もっとも、彼がいいたいことは、そういうことではなさそうだった。
「……なにもいうことはないさ。彼女たちは、前線に立って、レオンガンド軍の武装召喚師を引き受けてくれたのだろう? その上で敗れた。敗れた以上、相手に従うか、死ぬしかない。降ることをとやかくいうのは、愚かなことだ」
「しかし……」
「なんだ? 貴様は、グロリア殿やアスラ殿が我々を裏切ったとでもいうつもりか?」
「い、いえ、滅相もありません」
「そうだろう。彼女たちが我々を裏切るのであれば、そもそも、レオンガンド軍と交戦する前から敵対しているはずだ」
可能性の話でいえば、皆無では、ない。
オウラだけが戦死し、グロリアとアスラが投降したという話だけを聞けば、そういう結論に至るのも不自然ではない。なぜならば、レオンガンド軍にはふたりの知り合いがいるからだ。グロリアには弟子のルウファ・ゼノン=バルガザールが、アスラには親戚のミリュウ・ゼノン=リヴァイアがいる。ふたりがそれら知人を頼ってレオンガンド軍に通じたということがあったとしても、別段、不思議な事ではないのだ。
もっとも、ゼルバードはそんな可能性を考慮したこともなかったが。
グロリアたちが敵武装召喚師との戦闘に入ったという報告はあったし、その戦闘が余人には立ち入ることのできない苛烈なものだという報せも耳に入っている。天変地異にも等しい戦いの果て、オウラは戦死し、アスラ、グロリアは敗北、投降したに過ぎない。負けたのだ。
「敗者は勝者に従う。乱世の倣いだ。そこに口を挟む権利は、いまの我々にはない。口を挟みたければ、勝つしかない」
レオンガンド軍を打ち負かした上でなら、勝敗も待たずに投降したことを責めることもできるだろう。
「が、この惨状、どうすることができよう?」
レオンガンド軍本隊は、既にマルダール市内に雪崩込んできているという。
直属の武装召喚師や精鋭たちが城門付近で抑えているとの話だが、それもいつまで持つものでもあるまい。グロリアたちが敗れ、アザーク、ラクシャの両軍が敗走したことで、兵力差、戦力差は、莫大なものになってしまった。押し返せるわけもない。
部下たちは、ゼルバードの顔色を窺っているだけで、なにもいってはこなかった。本部には、人材と呼べるほどの人物はひとりとしていない。
(逆転の一手は、ないわけではないが……)
それは即ち、レオンガンド軍の総大将を討つことだ。
レオンガンド軍を支配し、突き動かしているのは、レオンガンドへの忠誠心であり、レオンガンドを勝利させることこそがガンディアの正義だと信じる心だ。レオンガンドさえいなくなれば、死んでしまえば、レオンガンド軍将兵の忠誠心は宙に浮き、正義も空転するだけだろう。少なくとも、その瞬間から戦意は低下し、士気も失われる。中にはレオンガンドの弔い合戦に興じるものもいるだろうが、全軍が全軍、そうはなるまい。少なからずレオンガンド軍は混乱するに違いない。そして、その混乱の隙に乗じてマルダールを脱すればよいのだ。
状況を打開する方法は、それから考えればいい。
もっとも。
(レオンガンド陛下を討つ方法など、あるわけもないがな)
ゼルバードは、諦めにも似た心境の中で、心に告げた。
レオンガンドは、レオンガンド軍の本陣にいるだろう。注意深い彼のことだ。たとえ戦況がレオンガンド軍にとって優勢になったとはいえ、みずから危険を侵すようなことはすまい。自分の命の価値を理解していないわけがないのだ。
現在、持ちうる戦力をすべて投入したところで、ゼルバードがレオンガンド軍本陣に到達できるとは思えない。本陣にさえ到達できれば、レオンガンドを討てるかもしれない。レオンガンド殺害の最大の障害であるアーリアは、ルシオン軍との戦闘で重傷を負ったという。今回の戦いには参加させていないはずだ。
本陣にさえ到達できれば、勝てる。
(夢の様な話だな)
ゼルバードは、嘆息し、頭を振った。
下らぬ妄想だ。
勝敗は、決したのだ。
敵はマルダール市街に雪崩込んできている。堤は、壊れた。マルダールは直に敵軍の洪水に飲まれ、沈むだろう。そればかりはもはやどうしようもない。圧倒的な兵力差は、覆せるものではなくなってしまった。グロリアたち三人が健在ならば、まだなんとかなった可能性もあるのだが、三人が三人、レオンガンド軍に敗れ去ったいま、絶対的なものとなってしまっていた。
(こうなることは、わかっていたさ)
バルサー要塞が落ちたときにはわかりきっていた運命だ。
たとえジゼルコートが持ちうる全戦力をマルダールに投入していたとしても、結果は変わらなかっただろう。クルセルク方面軍や残りの私設軍隊を加えたところで焼け石に水も甚だしい。時間稼ぎにしかならず、そして、時間稼ぎではどうすることもできない戦力差があったのだ。
レオンガンド軍に勝つには、時間が必要だった。
もっと、時間が必要だったのだ。
少なくともログナー方面を完全に掌握し、ザルワーン方面さえも支配するだけの時間さえあれば、レオンガンド軍を圧倒できるだけの戦力を揃えることができただろう。そのための第一条件こそが。レオンガンド軍がマルディアからの帰還に手間取ることだったのだが、どうやら、そこが失敗したことが敗因らしかった。
レオンガンド軍は、あっさりとマルディアを脱し、アバード、ザルワーンと急速に南下した。ジゼルコート軍が勢力圏を伸ばし切る前にログナー方面にまで進出してきたのには、さすがのジゼルコートも驚いていることだろう。
「本部に残っている全将兵に命じる」
ゼルバードは、そう告げてから、つぎになにをいうべきか、迷った。
「これよりわたしとともに出撃し、マルダールよりレオンガンド軍を撃退せよ!」
「ゼルバード様」
「はっ」
「出撃準備を!」
「勝ち目のない戦いかもしれんが、最後まで諦めるな。勝算はある。わたしを信じろ」
ゼルバードは、様々な反応を見せる将校たちと見遣りながら、そういった。
(ぬけぬけと……よくいう)
内心、みずからの言葉を嘲笑いながら、将校ひとりひとりを見る。ジゼルコート軍将校たちの表情は、ゼルバードの発言を受けてか、引き締まったものになっていた。ジゼルコートを慕い、ジゼルコートの薫陶を受けたものたちばかりだ。ジゼルコートのためならば死ぬことも厭わない連中だった。たとえ負け戦であっても、最後まで戦ってくれるだろう。
勝てる見込みなどあろうはずもない。
負け戦だ。
死ににいくようなものだ。
無駄死に、犬死にだ。
それでも、ゼルバードは行かねばならない。
ゼルバードに投降の二字はないのだ。