第千四百二十話 魔法遣い(後)
「魔法……」
アスラが、空を仰ぎながら、つぶやいた。
魔法。
空から降り注いだ光のことを思い出しているのかもしれない。
「そう、魔法」
あのとき、ミリュウに垂直落下してきたアスラを撃ち抜いた光線の雨こそ、ミリュウがいう魔法だった。アスラとの戦闘が始まるやいなやラヴァーソウルを振り回し、刃片を飛ばしたのは、呪紋を構築するためであり、無論、それは窮地に陥った場合を想定してのことだ。ラヴァーソウルの磁力刃だけでも戦えるのならばそれに越したことはなかった。
魔法は、消耗が激しすぎる。
それでも魔法に頼らざるを得なくなったのは、ラヴァーソウルの能力が無力化されたからであり、もし、空王の結界の範囲が広大で、呪紋構築中の刃片までも影響下に入っていれば、お手上げだったのは間違いない。もちろん、そのときはそのときで別の手段を考えたが、幸運にも別の手段を取る必要はなかった。そして呪紋はミリュウの命令通りに組み上がり、魔法が発動したというわけだ。
魔法は、アスラの意識外から攻撃するため、上空に発射し、高高度から降り注がせた。アスラの能力が不明だったこともあり、攻撃対象は指定せず、ラヴァーソウル周辺に着弾するように設定した。その結果、ミリュウ自身が巻き込まれる結果になったのだが、もしあのとき、ミリュウが自由に動ける状態なのであれば、ラヴァーソウルの柄をアスラに投げつけることで身の安全を確保することもできただろう。とはいえ、爆風に巻き込まれ、吹き飛ばされること請け合いなことに変わりはないが。
「なるほど。お姉様は、魔法使いだったのですね」
「納得しちゃうんだ?」
「しますよ、それは。だって、まざまざと見せつけられたんですよ? 魔法を。あんなの、ラヴァーソウルとは無縁の能力じゃないですか。目の前で起きた現象を否定するのは、ただの愚かものですもの」
苦笑交じりに彼女はいった。確かにその通りだ。現実に目の当たりにした物事を否定するのは、愚かとしかいいようがない。しかも、ミリュウがそう言い張っているのだ。
「魔法……魔法ですか。そりゃあ敵いませんよね……狡いです」
「狡くても、勝たなきゃだめなのよ」
「セツナ様のため、ですか?」
「そうよ。セツナのために」
それ以外に理由はない。
すべては、彼のためだ。
ガンディアの武装召喚師となったのも、《獅子の尾》に配属されたのも、レオンガンドの勝利に力を貸すのも、なにもかもすべて、セツナのためというほかない。それ以上でも、それ以下でもなかった。そして、それだけでいい。ほかの理由などいらない。セツナの側にいることがミリュウにとっての幸せなのだ。幸せを維持し続けるための努力は惜しまない。
ただそれだけのことだ。
「それに、狡いといっても、命がけのズルよ。大目に見てちょうだい」
「……はい。お姉さまの命がけの攻撃、確かに効きましたよ」
アスラが屈託なく、笑いかけてくる。両肩を貫かれ、体中に大打撃を受けた姿は痛々しいというほかないのだが、その表情は極めて柔らかい。時折、痛みに歪むものの、それ以外のときは穏やかで、晴れ晴れとしている。まるで憑き物でも落ちたかのような変化には、ミリュウも戸惑いを隠せない。
「本当に、強い」
「あなたも、強かったわ。とてもね」
ミリュウは、アスラの目を見つめながら、本心から賞賛した。ラヴァーソウルを完封するための召喚武装・空王は、結界のみならず、飛行能力、飛行速度、そしてその速度を利用した攻撃力――どれをとっても一級品だった。かつて、ミリュウに敗れ去った少女の姿はそこにはなく、一流の武装召喚師アスラ=ビューネルがそこにいたのだ。
「うふふ……お姉さま、相変わらず優しいんですね」
「そう? 気のせいよ」
「……まあ、そういうことにしておきます」
「そうしておいて」
妙な照れくささを感じながら、ミリュウは、ラヴァーソウルを手元に戻した。アスラには、もはや敵意は見えない。戦意そのものを失っているのだ。警戒する必要はなかった。そもそも、満身創痍だ。それはミリュウも同じなのだが、どちらがより動けるかというと、ミリュウのほうだろう。もし、万が一にでもアスラがミリュウを殺そうとしても、ラヴァーソウルが彼女の首を刎ねるほうが早い。
「命がけの攻撃……か」
アスラが、大きくため息を浮かべるように、いった。
「どうかした?」
「お姉さまは、本当に死を恐れていないのですね」
「ええ」
ミリュウは、当然のようにうなずいた。
「わたしには真似のできないことです」
アスラがまたしても嘆息する。
「……わたしは、死が恐ろしかった」
彼女は、どこか遠くを眺めていた。
過去を見ているのかもしれない。
「でも、それよりももっと、だれかを殺すことのほうが恐ろしかった」
彼女の一言から、魔龍窟時代を思い出していることが知れる。
その気持ちは、痛いほどわかった。
ミリュウにとっては実感そのものだった。
魔龍窟に投げ落とされ、殺し合わなければならないと知ったときほどの絶望はなかった。だれかを殺さなくては生き残れない。最低ひとりは殺さなくてはならなかった。殺さず、生きていくことは許されなかった。それがあの地獄の掟であり、法であり、理だったのだ。殺したくなければ、死ぬしかない。だれかの手で殺されるか、みずから死を選ぶか。
自害したものも、いた。
あの悪い夢を終わらせるには、他に方法はなかったのだ。
「……だから、あたしに殺されようとしたのね」
「死ぬのは嫌でしたもの。でも、そんなことをいっていても、どうしようもなかった。だれかに殺されるのを待つだけ。だったら、せめて、お姉さまの手で殺されたかった」
彼女は、そういうと、なにがおかしいのか、声を潜めて笑った。泣いているような笑い声。寝ても覚めても泣いても怒っても変わらない、悪夢のような現実。それが魔龍窟という地獄だった。あの日々を思い出せば、彼女のような表情になるのもうなずける。
「それなのに、生き延びてしまったのです」
それは、幸運だったのか、不運だったのか。
ともかく、生き延びた彼女は、なんとかして生き続けようとしたのだろう。魔龍窟を抜け出すことに成功したのだ。生きようとする意志は、魔龍窟に投げ入れられる前よりも尖鋭化したに違いない。それ以降の彼女の人生を思うと、胸が少しばかり痛んだ。ザルワーンに彼女の味方はいなかっただろうことは、想像に難くない。魔龍窟に入ることは、国主命令だった。魔龍窟から勝手に抜け出すということは、国主の命令に背くということであり、国家への反逆を意味した。たとえ家族が庇ってくれたとしても、いつまでも持つものではない。
それから彼女がジゼルコートの元に辿り着くまでどのような人生を歩んだのか、ミリュウには想像さえできない。
だから、というわけではないが、ミリュウは、彼女に声をかけた。
「……じゃあ、これからも生き延びてみる?」
「お姉さま?」
「あなたの実力はわかったわ。武装召喚師として、十分な力量がある。それだけの実力と才能の持ち主が味方に加われば、きっと陛下もお喜びになられるでしょう」
レオンガンド・レイ=ガンディアは常に人材を求めている。小国家群の統一を目指しているのだ。統一のためには戦力になりうる人材は多ければ多いほどいい。出自は問わず、たとえ敵であっても口説きにかかるのがレオンガンドだ。戦争の最中、そうやってガンディア軍に降るものは少ないものの、戦後、敵国の人材の多くは、ガンディアの支配下に入った。戦勝後、ガンディアが処断した敵国の将は極めて少ない。それだけ人材を必要としているからだ。
ミリュウは、そういう経験から提案したのだが、アスラは驚いたのか、大袈裟にまばたきをした。
「謀反に加担したんですよ?」
「関係ないわよ。あたしなんて、元々ザルワーン軍の武装召喚師だったわ」
「知っていますよ。ザルワーン戦争の最中、セツナ様と戦って、敗れた、とか」
「まあ、ね」
厳密には違うが、現実にはその通りだ。みずからの策に溺れて、敗北した。幻竜卿によって再現したカオスブリンガーの力に酔い、そして、飲み込まれた。逆流現象。意識を取り戻したときには、ミリュウはセツナに心奪われていた。いまにして思えば、それでよかったのだろう。もし、あのとき、セツナの記憶に触れ、セツナ一色に染まっていなければ、いまごろどのような人生を送っていることか。オリアスを殺せないまま終戦を迎え、ガンディアにも属さず、どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。
生きる目標を失うということは、そういうことだろう。
そんなことを漠然と考えてしまうのは、アスラがいま、そのような感覚の中にいるのではないかと思えたからだ。
「敵対者だって必要とあれば味方に加え、実力次第では重用するのがガンディアのやり方よ。あなたほどの武装召喚師ならば、放っておく手はないわ。なんなら、あたしが口添えしてあげようか?」
とはいうものの、ミリュウがレオンガンドに直接なにかをいえるような立場にあるわけではない。ミリュウができることがあるとすれば、セツナにお願いすることくらいだ。セツナならば、レオンガンドに上申することもできるし、セツナの意見を取り入れないレオンガンドとも思えない。レオンガンドは、セツナに依存しているといってもよかった。レオンガンドだけではない。ガンディアという国そのものが黒き矛の英雄に依存している。
今回の騒動を振り返れば、そのことはよくわかるだろう。
だから、セツナの頼み事をレオンガンドが拒むとは思えない。少なくとも、良い方向に考えてくれるだろう。
もっとも、そこまでせずとも、レオンガンドならばアスラ=ビューネルが有用な人材だと理解するだろうし、セツナを頼るまでもないとは思うのだが。
「……お姉さま」
「なによ」
ミリュウは、静かにこちらを見つめるアスラの反応に戸惑いを覚えた。なにがどうというわけではないが、心に訴えかけるものがあったのだ。瞳が揺れている。その瞳に映るのは青空であり、彼女を覗き込むミリュウの顔だった。
「なんだか、昔のままのお姉さまと会話しているような気がして、嬉しくて」
「アスラ……」
彼女の名を虚空に浮かべただけで、ミリュウは言葉を失った。
昔のことを思い出してしまった。
閉ざされた世界。
箱庭の楽園。
そこにはすべてがあって、なにもなかった。
なにもなかったけれど、確かな幸福があった。
父がいて、母がいて、兄がいて、弟たちがいた。執事がいて、使用人たちがいた。そこには紛れもない幸福があったのだ。けれども、それはどうしようもなく空虚であり、空疎なものだったのもまた、疑いようのない事実だ。
いまにして想えば、だが。
それは、そうだろう。
父は、リバイエン家の幸福など考えてはいなかった。リヴァイアの呪縛を解くことだけを考えていたし、そのために娘を利用することさえ頭に入れていた。最悪の場合、ミリュウが呪いを受け継ぐことも考慮に入れていたのだ。オリアスの愛は、打算的なものでもあったのだ。そこに真実の愛があったかどうかなど、ミリュウにはわからない。
オリアスの記憶のそういう部分には、触れてもいないからだ。
ひとつわかっていることがあるとすれば、それは、あのリバイエン家という箱庭の楽園は、オリアスがミリュウを純粋培養するために作り上げたものだという事実があることだけだ。
そんな空疎な幸福の中で現実的な重量と存在感を持つのが、メリル=ライバーンとの触れ合いであり、アスラ=ビューネルとの日々だった。
五竜氏族ライバーン家の令嬢であるメリルは年の離れた妹のようなものであり、ビューネル家のアスラは、妹というよりは幼友達といった感覚がある。アスラはミリュウのことを姉のように慕ってくれており、メリルにも影響を与えている。三人で遊んだ時間はわずかばかりだったが、三人の仲の良さは姉妹のようだという評判だった。
「お姉さま、わたし、投降致しますわ。ジゼルコート様には悪うございますし、お師匠様にも申し訳が立ちませんが……」
「そうよ、それでいいのよ。あなたはあたしに負けたの。負けた以上、勝者に従うのは道理よ。だれにも文句はいわせないわ」
「お姉さま……」
アスラが左手を伸ばしてくる。肩を撃ち抜かれ、動かすのもままならないというのにだ。ミリュウは、ラヴァーソウルを地面に突き立てると、彼女の手に触れた。握ってあげる。アスラが微笑んだ。心の底から嬉しそうな笑顔にミリュウは、なんだか温かい気持ちになる自分に気づいて、狼狽した。そんな自分から目をそらすため、というわけではないが、話題を変える。
「そういえば、あなたにも師匠はいるのよね?」
「はい。魔龍窟では半端者でしたもの。生き延びたとはいえ、武装召喚師と名乗れるほどの技量もありませんでしたから……お師匠様に出逢わなければ、半端者のまま、終わっていたでしょうね」
「その師匠って?」
「マクスウェル=アルキエル。なんでもリョハンの戦女神ファリア=バルディッシュに術を学んだそうですよ」
「ファリアのお祖母様の弟子……それって」
「武装召喚術の祖、紅き魔人アズマリア=アルテマックスの孫弟子、ということになりますね」
少しばかり、驚く。
が、驚嘆には値しない。武装召喚術は、誕生して五十年そこそこの技術だ。師匠の師匠となれば、高名な武装召喚師に結びつくことは、往々にしてあり得た。もっとも、奇妙な縁を感じずにはいられないことで、ミリュウはそのことを口にした。
「……ま、あたしたちもそうなんだけどね」
「え?」
「オリアン=リバイエンは、アズマリア=アルテマックスの弟子なのよ」
「ええ!?」
「知らなかったわよね。あたしもそれを知ったときは驚いたわ」
そしてそれは、紛れもない事実だった。
オリアス=リヴァイアの記憶には、アズマリア=アルテマックスに術を学んでいる最中の光景があった。アズマリアは紅き魔人の二つ名のままに、奈落の底に突き落とすような苛烈極まりない方法でオリアスを鍛え上げており、彼がアズマリアに師事していたからこそ、魔龍窟を地獄に変えたのではないかと考察したものだった。
オリアスが総帥となる以前の魔龍窟はずっと温かったらしいのだ。ランカイン=ビューネルなどは、魔龍窟の変貌ぶりにむしろ狂喜乱舞していたものだ。
「マクスウェル=アルキエルねえ……ファリアに聞けば、なにか知っているかしら」
「どうでしょう。お師匠様は、二十年以上前にリョハンを降り、小国家群にやってきたそうなので」
「そっか……それなら、わからないかもね」
ミリュウは、アスラの手を握ったまま、ファリアのことを想った。ファリアは、勝っただろうか。ルウファは、どうか。自分たちさえ打ち勝てば、解放軍の勝利は疑う余地もない。なぜなら、アスラたち三人こそがマルダールのジゼルコート軍の主力であることは疑いようがないからだ。
彼女たち以上の戦力をジゼルコート軍が用意しているのであれば、解放軍はいまごろ蹂躙され、マルダールの丘から押し出されていることだろう。
現状、そんな様子はなかった。
むしろ、数多の城門を突破し、マルダール市街へ雪崩込んでいる様子だった。