第百四十一話 概況
マイラム仮設司令部にナグラシア制圧の報が届いたのは、九月九日の未明のことだった。
前日夜半に国境を突破したとの報せを受けていたレオンガンドたちは、当初、ナグラシア制圧のあまりの早さにその報告が信じられなかった。しかし、手紙を運んできた鳩は軍用の調教を受けた鳩であり、ガンディア軍の刻印もされていたし、なにより手紙にはグラード=クライドの署名もあった。疑う余地はないのだが、にわかには信じられないほどの速度だった。
二日前にマイラムを発ったばかりの軍勢が、あっという間に敵国に突入し、小さいとはいえ街ひとつを制圧してしまったのだ。それは驚嘆に値すべき事実であったし、報告書の文章にも驚きがあますところなく記されていた。
確かに、ナグラシアはマイラムから程近い。強行軍なら一日足らずで到達できる距離だ。それも考慮した上で、先発部隊にはナグラシアの制圧を命じている。ナグラシアをザルワーンとの戦いの橋頭堡にすることこそ、レオンガンドたちの戦略の第一歩だったからだ。そのために動員した二千の兵力と《獅子の尾》ならば、ナーレスが手配したナグラシアの防衛戦力を撃破することも余裕だろう。
捕縛されたとはいえ、ナーレスという猛毒がザルワーン全土から取り除かれるまでには時間がかかる。その時差が、勝利の鍵だった。だからこそ、迅速に侵攻し、街のひとつも落とさなければならなかった。もたもたしていれば、ザルワーンの人事が一新され、凶悪な龍となって再生しかねない。そうなればガンディアは苦戦を強いられるだろう。ザルワーンはやはり強大な国だ。いまでこそ疲弊しているものの、その底力は侮れないものがあるのだ。
ナーレスが失脚し、彼の策謀による弱体が望めないのならば、復活する前に叩くしかないのだ。
とはいえ、ナグラシアの陥落がここまで早いとは誰が予想しただろうか。レオンガンドたちの想像を絶する速度での制圧であり、報告だった。
そして、ガンディア軍ログナー方面軍第一第四混合軍――通称先発隊の戦果は、仮設司令部を大いに沸き立たせていた。
「先発隊側の死傷者は、百二十五名。内、死者十二名、重傷者二十五名、軽傷八十八名」
「ザルワーン第三龍鱗軍側の死傷者は、七百二十三名。死者七百二十名、重傷者三名は捕虜として拘束したとのこと」
バレット=ワイズムーンとゼフィル=マルディーンがそれぞれ、報告書を読み上げる。彼我戦力差からみても、ガンディア側の損害の少なさが理解できるというものだ。ナグラシアに展開していたのは千五百名。ザルワーンの戦力を見ても特別少ないというわけではない。各地に分散させた結果を考えれば、むしろ多い方だった。それを二千の兵力で駆逐した。敵は防衛拠点に陣取っており、本来ならば攻め手が不利な状況だった。しかし、天候が有利に働いたのか、グラードの強襲策が上手く機能したのか、敵軍は迎撃らしい迎撃もできなかったようだ。
「圧倒的ですね」
右眼将軍アスタル=ラナディースは、グラードからの報告書に目を通しながら、一瞬だけ表情をほころばせた。が、レオンガンドの視線に気づいたのか、冷徹な仮面をかぶり直す。
「報告によれば、《獅子の尾》隊長が閉じた門を強引に突破したため、敵軍の戦意が喪失したとか」
「セツナめ……やってくれる」
レオンガンドは、ほくそ笑んだ。瞼を閉じると、黒き矛を振りかざして門に突撃する少年の姿がありありと浮かぶようだ。平時においては純朴な少年、戦時においては鬼神の如き戦士。そのどちらもがセツナという少年を構成する要素であり、片方だけを否定するのは彼自身を否定するのと同じで意味のないことだ。
しかし、レオンガンドには彼のような人間が存在することが不思議でならなかった。普段は、レオンガンドが声をかけるだけで恐縮し、目を潤ませるような少年なのだ。愛おしいとさえ思える。だが彼は、戦場においては鬼も逃げ出すような戦いをする。レオンガンドの耳に届いた数多の証言が、彼の恐ろしさを物語っているし、実際、レオンガンドもセツナの戦いを目撃している。だからこそ引き立て、重用し、此度の先発隊にも入れたのだ。彼が活躍すれば、ガンディアが負けることはないのではないか。それがガンディアの黒き矛に寄せられる期待であり、重責なのだ。
平時の彼がその重荷に耐えられるかどうかはわからない。戦時の彼ならば、容易く耐えぬくのだろうが。
セツナという少年のそこはかとない危うさは、ある種の魅力であり、魔力であろう。
「ドルカ=フォーム軍団長も上手くやっている様子」
ゼフィルが報告書から拾い上げた名前に、アスタルが反応を示した。ドルカ=フォームはログナー方面軍第四軍団長であり、レオンガンドは任命式であった彼のことをよく覚えていた。彼は、ログナー時代の部下を手元に置くことを条件に軍団長になることを承諾しており、その話を聞いていたおかげで、記憶に残ったのかもしれない。
「将軍の推挙だったな、彼を軍団長に任命したきっかけは」
「はい。彼は、家柄こそ恵まれていませんが、本人の実力、指揮官としての能力は、中々のものを持っており、軍団長に任命することでどう化けるのかと期待したのですが、期待に応える程度のことはやってくれているようで、なによりです」
いつも以上に冷ややかな声音は、期待の裏返しと見てもいいのだろう。アスタル=ラナディースは、ガンディア国内でのログナー人の立場が悪化することを恐れ、迂闊な発言をしないように気をつけているのだろう。心がけとしてはいいのだが、それでは彼女本来の実力が発揮できないのではないか、というのは考え過ぎだろうか。
もっとも、いまのところアスタルの働きに文句はなかった。ナグラシアの陥落は、彼女が構築したログナー方面軍の活躍もあってこそだ。セツナたちだけではどうだったか。
「期待以上とはいかないか」
「まだまだです。今回のナグラシアの陥落も、大半が《獅子の尾》による手柄。主に指揮を取ったのはグラードだという話もあります。ドルカにはもっと働いてもらわないといけません」
「手厳しいな。が、それでこそだ」
レオンガンドは、アスタルの言葉に満足した。常に最善を求め、さらにその上を目指すことこそ、ガンディアが強国となるために必要な意識だ。そういう意識は、いままでのガンディアに大きく欠けていたものだった。誰もが現状に甘んじ、競争を嫌い、変化を望まなかった。だから、小国の域を脱し得なかったのだ。
「ログナー方面軍第三軍団は今日中にもナグラシアに向けて出発する予定だったな」
「はい。ガンディア方面軍第二軍団のマイラム到着も本日中とのこと」
ガンディア方面の第二軍団はマルダールに駐屯していた部隊である。ガンディア方面からログナーに最も近いバルサー要塞の第四・第五軍団は、昨日マイラムに到着しており、出発の時をいまかいまかと待っていた。マイラムはガンディアの軍人で溢れており、ある意味では賑わっていた。
実際、市街では、この機を逃すまいと商売に精を出しているものも多いようだ。
「ガンディア方面軍は全軍揃ってからの進軍となる。ルシオンとミオンの援軍も待たねばならん」
両国への援軍要請はとっくに届いているだろうし、軍を整え、出発したと見てもいいだろう。だとしてもマイラムに到着するまで数日を要するのは間違いない。ガンディア方面軍と同盟国援軍の大軍勢でザルワーンに攻め込めば、さぞ壮観だろう。
「早くとも十三日……」
「ナグラシアはそれまで持ちこたえるでしょうか」
「ザルワーンが即座にナグラシアに全軍を差し向けるようなことはあるまい。そして、こちらからは順次後詰の部隊を送る手筈になっている」
今日中に第三軍団を出発させ、明日には第二軍団を送り出すことができる。両部隊とも強行軍で進むわけではないため、二日ほどでナグラシアに到着する見込みだ。軍団がひとつ合流するだけで、ナグラシア制圧部隊の生存率は飛躍的に高まるだろう。そもそも、《獅子の尾》という最強の攻撃部隊を擁した先発隊が壊滅するなと、考えにくいことではあるが。
そして、ザルワーンがナグラシアを包囲するような大部隊を動かすのは、難しい。戦力を各地に分散させすぎている。ガンディアやログナーのような狭い領土とは違い、ザルワーンの国土は広い。その国土の各地に分散させた戦力を集めなければ大軍を構築することはかなわず、また、そのための連絡にも時間がかかった。その間にガンディア軍はナグラシアに集結できるはずだ。
しかし、大軍として結集せずに個々の軍団として動いた場合はどうだろう。各都市に滞在する軍勢が一斉にナグラシアに向かえば、包囲できてしまうのではないか。ナグラシアは小さな街だ。包囲するだけならば、三千もいれば可能だろう。ゼオル、スルーク、スマアダ、バハンダール――各都市から軍勢が集結すれば、攻囲も完成する。
だが、それも杞憂に終わるに違いない。
旧メリスオール領ガロン砦に布陣したグレイ=バルゼルグ麾下三千名が睨みを効かせている限り、スルーク、スマアダ辺りの兵力は動かしたくても動かせないのだ。動き出せば最後、後背を突かれ、壊乱しかねない。
あらゆる状況が、ガンディアにとって有利に働いている。