第千四百十八話 魔法遣い(前)
死は、隣人だった。
魔龍窟に投げ込まれて十年、光のない闇の中で過ごした。親類縁者との生存競争。今日を生きるための殺戮劇。血で血を洗い、死で死を注ぐ、そんな日々。噎せ返るような絶望の中で、ただ、生を求め、喘いだ。希望などあろうはずもない。救いの手が差し伸べられることなど、あるわけもない。ただ、憎悪に身を焦がし、いつか復讐の日が来ることだけを信じて、殺し続けた。
死を恐れたから殺したわけではない。
あの地獄では、臆病なものから死んだ。
臆病ゆえ、戦いを放棄したものから殺されていったのだ。
死を恐れたとき、敗北が始まる。
だから、だれもが尖鋭化した。
死を恐れぬ狂戦士と化し、血塗られた闘争の日々に身を染めたのだ。
だれもが。
ミリュウだけではない。
あのとき、同時期に魔龍窟に投げ込まれ、ある程度の期間を生き延びただれもが、壊れ、狂い、人間性を失っていった。
「アスラ。あんたは早々に死んで離脱したから、わからないのね」
「なにが……!」
「あの地獄がどれほど恐ろしく、どれほど忌まわしく、どれほど絶望的だったのか。すべてを知る前に、去ったのよね。わからなくて当然よ」
アスラの表情に変化が生じたのは、ミリュウが彼女との間に壁を作ったからなのか、どうか。
「あたしは死を恐れない。死を恐れる理由がないもの」
むしろ、死を求めてさえいる。
この意識が化物に成り果てるくらいなら、いっそのこと、この世から消え去ってしまう方がいいのではないか。そう考える時間が増えた。
リヴァイアの“知”に触れ、記憶を解放していく中で、理解した。情報の洪水に飲まれ、数多の思念に触れ、怒り、悲しみ、喜びといった様々な感情に翻弄されながら、知ったのだ。
この意識は、長くは持たない。
十年持てばいいほうだ、と。
それだけのことをしたのだ。
(それだけの)
「恐れないからなんだというのですか!」
「そうね、なんなのかしらね」
「死を恐れないからといって、お姉さまの不利が覆ることなんてありえませんのに!」
「そうよね。そのとおりよ」
ミリュウは、吹き荒ぶ嵐のように戦場を蹂躙し始めたアスラの姿を見つめながら、彼女がなにをもくろんでいるのかを考えた。ミリュウの周囲を飛び回り、高速移動の余波で地面をえぐり、土砂を巻き上げている。一見、ただの破壊に見えるが、彼女のことだ。なにか考えがあってのことだろう。
撹乱しているのかもしれない。
空王による攻撃手段は、そう多いわけではないらしい。ラヴァーソウルを封殺することに重点を置いた召喚武装なのだから、それ以外必要とはしていなかったのだろう。
高速移動からの速度と全体重を乗せた体当たりが基本的な攻撃だ。直線的で単純な攻撃ゆえ避けやすいものの、直撃を喰らえばひとたまりもない。掠るだけでも大打撃となる。また、体当たりとともに隠し持った武器で攻撃してくることもあったが、武器はもう残されてはいないだろう。
もうひとつは、両肩の装甲内部に隠された宝玉から放たれる広範囲攻撃。おそらくはそれが対磁力封殺結界とでもいうべき領域を生み出した攻撃なのだろうが、頻繁に使ってこないところを見ると、消耗が激しいのだろう。とはいえ、ここぞというときに使ってくる可能性もある。注意しなければならない。
それだけだ。
それだけでも十分すぎるほどに強力ではあったし、ラヴァーソウルの磁力が封じられるのは厄介極まりない。もっとも、もはやどうでもいいことだが。
(あたしが恐れるものはただひとつだけ)
ミリュウは、ラヴァーソウルの柄を握りしめた。刃片は反応しないが、既に配置したものは詠唱を続けているはずだ。戦闘開始からいまのいままで、ずっと、彼女の命令通り、唱え続けていたはずだ。
(セツナの愛を失うこと)
それは、死よりもずっと恐ろしいことだ。
自分の価値を失うに等しい。
生きる意味を奪われるに等しいことなのだ。
なればこそ、ミリュウは、“知”を求めた。彼のために。彼の力になるために。彼とともに生きるために。
いつか彼に殺されるために。
ミリュウを中心にして大地を掘削しながら旋回するアスラを目で追う。アスラがなにを考え、どのような結果を導き出そうとしているのかはまったくわからない。舞い上がる粉塵が視界を奪ったところで、それによってミリュウがアスラを見失うことなどなければ、ミリュウが隙を見せるわけもない。ただ、無意味に力を浪費しているだけのように思えてならない。しかし、アスラにはきっとなにか考えがあるのだ。彼女はミリュウを殺すつもりでいる。本気なのだ。断じて、余興などではない。
見ていると、アスラの飛行速度が徐々に上がっていくことに気づく。目にも留まらぬ速度が、目にも映らない速度へと、加速度的に上昇していく。風圧は暴風となり、舞い上げられた土砂が天高く跳ね飛ばされた瞬間、ミリュウは視線を感じた。脊椎反射で、右へ飛ぶ。衝撃が左の太腿に走った。鈍い痛み。見る。皮膚が小削ぎ取られ、血が溢れた。アスラによる超高速の体当たりを間一髪のところで避けることに成功したのだ。
(そういうこと?)
ミリュウは、アスラの旋回行動が飛行速度を上昇させるための儀式らしいということに気づき、目を細めた。また、視線。今度は左に飛ぶ。回避には成功したものの、風圧になぶられ、着地に手間取る。視線。前に倒れ込む。背中に衝撃。鎧の装甲が破壊された上、背中にも痛撃を叩き込まれたのがわかる。一瞬、呼吸ができなくなるほどの痛みだった。突進の速度がこれまでと比べ物にならない。視線を感じた瞬間に動けなければ、直撃を食らうことになる。そして、直撃を食らうということは、即死するということだ。
(やるわね)
速度は、力だ。
圧倒的な速度で攻撃を叩き込めば、どのような攻撃でも殺傷能力の高い一撃となる。空王の最大速度は、おそらくシルフィードフェザー・オーバードライブにも並ぶほどのものであり、そんな速度で叩き込まれる一撃の破壊力は想像を絶するほどのものとなるだろう。人体では、到底耐えられるものではない。
ミリュウは、背中と太腿の激痛を歯噛みして堪えると、右腕だけで俯せのままの体を引っくり返した。仰向けになって、空を見上げる。さらに加速するためか旋回行動に入ったアスラと空王が舞い上げる砂埃が、せっかくの青空を見づらいものにしている。
どうでもいいことではあるのだが。
呼吸を整える。背中も太腿も肉を削がれ、痛みを訴えてきている。激痛だ。血も止まらない。油断したわけではなかった。相手が予想以上の速度で攻撃を繰り出してきただけのことだ。そしてそれに対処しきれなかった。最初に足に攻撃を受けたのがまずかった。そのせいで反応が鈍ったのだ。その結果、背中に痛撃を受けた。これでは、まともに戦うこともできない。
立ち上がっても、いい的になるだけだ。
だから、ミリュウはその場で仰向けになるだけにとどめた。どうせ、どうあがいたところで避けきれないのだ。ならば、動かないほうがいい。
そのほうが、なにかと都合がいい。
「あら、覚悟を決めたのですか? ミリュウお姉さま」
「なにをいっているのかしらね」
ミリュウは、周囲を旋回する死の音を聞きながら、苦笑を漏らすほかなかった。
「覚悟なんて、とうに決めているわよ」
死ぬことは、怖くない。
つまり覚悟とは、死ぬことではない。
「さすがはわたしの愛するお姉さまですわ」
旋回が止まったかと思うと、影が、ミリュウの視線の先に生まれた。アスラがミリュウの視界の中心へと瞬時に移動したのだ。そしてそのまま突っ込んでくる。遥か上空。飛行速度のみならず、落下速度をも加味した一撃。当然、直撃を受ければその瞬間、ミリュウは絶命する。肉体は粉々に打ち砕かれ、跡形もなく消し飛ぶだろう。
「最後まで強く、気高く、美しかった!」
ミリュウを賞賛するアスラの言葉は、彼女が勝利を確信したからこそのものだったのだろうが。
「そう? セツナも喜んでくれるかしら」
ミリュウは、想像を絶する速度で突っ込んでくるアスラを見据えながらも、その遥か上空からさらなる速度で迫り来る数多の光を視ていた。
無数の光は、さながら流星雨のように降り注ぎ、アスラの両肩を空王もろとも貫くと、ミリュウの周囲に着弾し、盛大な爆発を起こした。