第千四百十四話 風を超えて(後)
空が遠ざかっていく。
青空。
どこまでも広く、どこまでも遠い。
滲んだ青。
見慣れた景色。
グロリアの髪越しにみるそれが人生最後の光景になったとしても、構いはしなかった。
もちろん、死ぬつもりはなかった。死にたくなどあるわけがない。なんとしてもグロリアを打倒し、生き延びてみせようと考えていた。だが、実際に対峙してみて、それは不可能に近いということが判明した。
グロリア=オウレリアは、強かった。ルウファよりも明らかに強かったのだ。正面からぶつかりあって勝てる相手ではない。オーバードライブを駆使した瞬間、理解した。シルフィードフェザーの全能力を叩きつけても、彼女には敵わない。メイルケルビムを圧倒することなど不可能だった。
完全なる上位互換。
倒す方法はひとつしかなかった。
グロリアを誘導しつつ、すべての力を開放し続けた。大気を支配し、支配圏を拡大し続けた。無論、グロリアも負けじと支配圏を拡大している。だが、グロリアには、余裕があった。メイルケルビムとシルフィードフェザーの能力差から来る余裕。決して油断したわけではあるまい。油断しなかったからこそ、グロリアはルウファを攻撃することに意識を傾けたのだ。大気を支配するよりも、攻撃にメイルケルビムの力を注いだ。
そのおかげだ。そのおかげで、ルウファは負傷したが、グロリアよりも広範囲の大気を支配することに成功した。そして、時間が来た。オーバードライブの制限時間。シルフィードフェザーが力を失い、その瞬間、大気が怒り狂ったかのようにルウファの周囲を離れた。忌避するように。嫌悪するように、離れていく。大気の離散を止めることはできない。何者にも。そう、メイルケルビムにさえ。
シルフィードフェザーにせよ、メイルケルビムにせよ、翼型の召喚武装が空を飛ぶことができるのは、大気を支配するという能力があるからだ。大気を支配し、風を操り、浮力を得る。また、風の力を推進力に変えて前進することで、飛行する。空を自由自在に飛び回るためには、大気を支配し、上手く操らなければならない。
大気がなければ、空を飛ぶことは愚か、高度を維持することなどできるわけもない。
結果、落下するしかなくなる。
高高度からの自由落下。
地面に叩きつけられれば、ルウファもグロリアも無残に砕け散り、肉塊に成り果てる。武装召喚師といえど、肉体はただの肉体と同じだ。強靭な肉体、超人的な動体視力、戦闘能力を持っていたとしても、超上空から地面に激突してただで済むわけがない。一命を取り留める可能性もない。
死ぬだけだ。
「まあ、いいさ」
「師匠?」
「わたしの負けだよ、ルウファ」
グロリアは、爽やかに微笑んでいた。
「まさか、おまえが命を投げ出してまで、わたしを殺しにかかるとはな」
「師匠を倒すには、これ以外に方法はありませんから」
ルウファは、笑い返した。命を賭けなければ倒せない相手だということは、敵対したときからわかっていた。いや、そのもっとずっと前から、それこそ、師事し、師の力量を理解できるようになったときから、わかりきっていたことだ。無論、そのときは、本当に命がけで倒すことになるとは夢にも思わなかったし、そんな日が来るはずもないと信じていた。
「それに、あなたは命を賭してでも倒すだけの価値のあるひとだ」
「……まったく」
髪をくしゃくしゃに掻き回されて、ルウファは変な気分になった。師にそこまでされたことがあっただろうか。
「本当に馬鹿だな、おまえは。昔からなにも変わっていない」
「そうですかね」
「ああ。あのときのままだ」
グロリアのまなざしは、優しい。
(でも俺は)
顔を上に向ける。地上へ。大地が迫っている。音はない。だが、前方に見える平原に変化が起きたのを彼は見逃さなかった。大地に亀裂が走り、陥没した。ルウファは歓喜した。地面は目の前――。
(来る……!)
つぎの瞬間、ルウファの全身を衝撃が貫いていた。凄まじい痛みの中で、視界が激しく変転する。吹き飛ばされている。天に向かって、打ち上げられている。光の羽が舞い散るのが見えた。無数の羽が舞い踊り、視界を埋め尽くす勢いで乱舞する。
「これは……!?」
グロリアの悲鳴にも似た声を聞きながら、ルウファは、右腕を伸ばした。自分同様、地上から跳ね返ってきた衝撃波に打ち上げられるグロリアの手を掴む。衝撃波を叩きつけられた際、離してしまっていたからだ。引き寄せ、ぐるりと体を回す。グロリアを下にし、落下。地面に激突した瞬間、グロリアがうめく声がルウファの耳に刺さった。地面に激突した衝撃は、しかし、高高度からの落下よりも遥かに優しく、人体を粉々に破壊するほどのものではない。
大地を跳ね返ってきた衝撃波は、ルウファとグロリアの落下速度を極端に減速させたのだ。
とはいえ、ルウファも全身を激しく強打したような痛みに苛まれ、グロリアの体の上で倒れ込まなければならなかった。グロリアこそ全身に大打撃を受けている。グロリアがうめいた。
「おまえは……これを狙っていたのか」
「ええ」
ルウファは、実に苦しそうなグロリアの声に、さすがに気の毒になった。痺れる腕で上体を起こし、グロリアの上から移動する。といっても、真横の地面に寝転がっただけだが。仰向けになると、頭上に広がる空に砂塵とともに舞う、無数の光の羽が見えた。幻想的な光景だった。
「上手くいくかどうかはわかりませんでしたけどね。でも、どうやら上手くいったみたいです。師匠が諦めてくれたおかげですよ」
グロリアが死を受け入れたからこその結果だった。もし、彼女が最後まで諦めていなかったら、最後の最後で逆転されていた可能性が高い。
大地を跳ね返ってきた衝撃波がふたりを貫いた瞬間、風力を得ることだって、できないわけではなかったのだ。もちろん、一瞬の出来事だ。瞬時に反応できなければ、意味がない。
「……わたしは、おまえとなら死んでも良かったと想っただけだよ」
「師匠?」
「夢も希望もない、つまらぬ人生だ。最愛の弟子の腕の中で終わるのなら、それもいい。そう想ったのだがな……まさか、出し抜かれるとは」
「師匠……」
ルウファは、なんといっていいのかわからなかった。グロリアがそのような嘆きを発するなど、想像もできなかった。夢も希望もないつまらない人生。そんな人生を送っていると考えているとは、思うわけもない。武装召喚師として、人生を謳歌しているものだと想っていたからだ。
「ルウファ。おまえの勝ちだ。さっさと殺せ。それで、おまえの勝利は確定する」
横目に見ると、グロリアと目が合った。瞳には、諦観が浮かんでいる。
「師匠。投降してくれませんか?」
「……なんだと?」
「俺は、まだ師匠に遠く及びません。武装召喚師としての技量でも、戦闘者としての実力でも、師匠のほうが遥かに上でしょう」
「はっ……よくいう」
グロリアが、苦笑した。
「嫌味にしか聞こえんぞ」
「俺は、もっと武装召喚師としての腕を磨きたいんです。師匠なら、俺を強くできるでしょう?」
「当然のことのようにいうな」
彼女は笑うしかないとでもいいたげな表情をした。
「おまえは十分、強いよ。わたしがいうんだ。間違いない」
「ですが」
ルウファが食い下がると、グロリアはやれやれと頭を振った。そんな師の仕草のひとつひとつが、なんとも懐かしい。
「……わかったわかった。おまえのいうとおりにしよう。敗者は勝者に従うもの。これからは、わたしはおまえのために生きるとしよう」
「……そんなあっさりでいいんですか?」
「どっちなんだ」
「え、えーと」
「ま、おまえがいいたいこともわからんではないがな。わたしがジゼルコート伯の配下となったのは、我が師マクスウェル=アルキエルの呼びかけがあったからだ。師への恩義は果たした。伯には、恩義もなにもあったものではない。給料分は働いたしな。それに、負けたのだ。敗者が勝者にどうされようと、ジゼルコートもなにもいえまい」
グロリアがゆっくりと告げてきた言葉に、ルウファはなにもいわなかった。敗者は勝者に従う。それがこの世の習いだ。何百年も続く戦国乱世に於ける掟といってもいい。勝者こそが絶対の理であり、敗者には語る言葉などあろうはずもない。勝者が死ねといえば死ぬしかなく、生かされたとしても、勝者の思うままに動くしかない。勝者の思い通りになるのが嫌ならば、みずから命を断つ以外にはなかった。そして、ジゼルコートにグロリアが自害しないことを責める権利はないだろう。
負けたのだ。
「しかし、いますぐは動けんな」
「俺も、です」
「しばらく、休むとしよう」
「はい」
「昔語りでもしながら、な」
グロリアのどこか爽やかな声を聞きながら、ルウファは青空を見た。
戦場のマルダールは遠く離れている。あまりに遠く、這ってでも近づこうとすれば日が暮れるだろう。それくらい遠くまで離れていた。戦況が気になったが、どうしようもない。力は尽きていたし、全身を強く打ち、まともに動かすこともできない状態だった。
ルウファは、マルダールの戦いが解放軍の勝利に終わることを祈った。
(俺は、役目を果たしたよ)
グロリアの撃破。
これにより、マルダールの戦力は激減した。
少なくとも、グロリアはほかふたりの武装召喚師よりもずっと強いのだ。アスラ=ビューネル、オウラ=マグニスよりもずっと。
ミリュウとファリアならば心配する必要はあるまい。
ルウファはそう想い、目を閉じた。消耗と疲労が眠気を呼んでいる。
「どうした、ファリア。そんなものか!」
爆風の如く突っ込んでくるのは、砂の拳だ。巨人の如き――いや、巨人よりも何倍も巨大な砂の拳が、オウラ=マグニスの身振りに合わせて襲い掛かってくるのだ。
アースレイカーの能力なのだろうが、こんな攻撃方法はファリアは知らなかった。クルセルク戦争で披露しなかったことを考えると、クルセルク戦争以降に編み出された能力なのだろう。オーロラストーム対策と同時期かどうかはわからないが。
(まだまだ)
砂の巨拳を大きく飛び退いて回避しながら、ファリアは胸中で告げた。地面に激突した拳は砂となって飛散したかと思うと、すぐさま拳の形を取り戻す。砂なのだ。形はなく、壊れてもすぐさま再生する。その上、こちらは破壊する手段もない。雷撃は、オウラの作り上げた領域では霧散するだけであり、クリスタルビットも使えない。といって、オーロラストームで殴りつけたところで、なんの意味もない。拳を壊すので精一杯だ。
しかも、厄介なことに、砂の拳はひとつではなかった。右手と左手、ふたつの拳がつぎつぎと襲い掛かってくるのだ。
ファリアは、それらを辛くもかわしながら、攻撃の機会を窺っているのだが、オウラには隙は見当たらなかった。