第千四百十三話 風を超えて(前)
まさに天使と呼ぶに相応しい光の翼。神々しいまでに美しい輝きを帯びた翼の群れ。ルウファが翼型の召喚武装に憧れたのは、グロリアと初めてあった時の記憶が鮮烈に焼き付いているからだ。皇魔の群れを一蹴する光の翼。天使の降臨を目撃したような気分だったし、その高揚感と興奮の中で、ルウファは彼女に弟子入りを志願した。
グロリアは困り果てたようだったが、ルウファの話を聞いてくれ、その上で、了承してくれた。地獄のような日々を送ることになる、という彼女の脅し文句に嘘偽りも誇張もなかったが、その地獄を越えた先にこそ天使は降臨するものだと信じた。
そして、ルウファはシルフィードフェザーを得た。
『わたしの真似をして、どうする』
呆れ果てたグロリアの言葉が印象に残っている。しかし、彼女はこうもいった。
『まあ、同じ翼型のほうが教えやすくはあるがな』
そこからが本当の意味での地獄の日々が始まったのだが、そのおかげで、ルウファは武装召喚師として一人前と胸を張れるくらいに成長したのだから、なにもいうことはない。
その憧れが、目の前にある。
彼の人生を大きく変えた存在。
メイルケルビムの光の翼が、静かに、ただ穏やかにルウファを包み込んでいく。大気を支配し、風を操り、嵐を起こす召喚武装。性能的にはシルフィードフェザーの完全な上位互換といっていい。翼の数は、大気を支配する力の現れだ。シルフィードフェザーは、限界まで能力を引き出してようやく六枚の翼になる。対してメイルケルビムは、グロリアの精神力次第で数十枚の翼を発生させることができた。もちろん、それはメイルケルビムの性能が優れているだけのことではない。グロリアが武装召喚師として優れていることの現れだ。ルウファがメイルケルビムを装備したとして、同じ数の翼を発生させることができるかどうかはわからないのだ。
武装召喚師としての年季が違うのだ。比べるだけ虚しい。
(でも)
潜り抜けてきた修羅場の数ならば、負ける気はしなかった。むしろ、勝っているはずだ。厳しく、辛い戦いを乗り越えて、ここまできた。数多の戦い。武装召喚術を覚えた皇魔との死闘、十三騎士との激闘は、ルウファの糧となっている。
「俺は、あなたに勝つ方法をずっと考えていた」
光の翼に包まれたまま、ルウファは抗わなかった。抗った瞬間、爆砕されるのはわかりきっている。だから、なにもしない。ただ、シルフィードフェザーの力を引き出し続ける。
「ほう」
「師匠。あなたは強い。俺が知る中で誰よりも強い」
黒き矛を手にしたセツナのほうが強いのは、わかっている。だが、グロリアがセツナに負ける光景は想像できなかった。それくらい、ルウファの中でグロリアという存在は大きい。実際に戦っても負けない可能性もあった。戦闘経験では、セツナよりもグロリアのほうが多く、グロリアとメイルケルビムの高速戦闘にセツナが対応しきれるかどうかは不明なところも多い。
「そんなあなたに勝つためにはどうすればいいか」
グロリアの強さの一因は、もちろんながらメイルケルビムにある。メイルケルビムは、翼型と呼ばれる種類の召喚武装であり、翼型の特徴として、大気を支配する能力を有している。大気を支配することで浮力を得、飛行することができるのだ。そして、支配した大気を攻撃に用いるのもまた、翼型召喚武装の特徴のひとつだ。
メイルケルビムが強いのは、翼の数を際限なく増やすことができるからだ。先にもいった通り、大気の支配力には翼の数が大きく影響する。翼の数が多ければ多いほど、支配力が強くなるのだ。召喚武装そのものの能力と武装召喚師の力量が関係するため、翼の数が純粋に比例するわけではないにせよ、目安にはなる。
そして、メイルケルビムの能力はいわずもがな、グロリアの力量は疑うまでもない。
結果、圧倒的な支配力の差が戦力の差となって現れている。
「戦闘経験上、あなたを出し抜くのは不可能だ」
小細工を弄しても、意味は無い。といって、正面からぶつかりあっても、勝てるわけがない。大気の支配力の差が勝敗をわけるからだ。
「では、どうする? 負けを認めるか?」
「負けを認めて、どうなるっていうんです」
「わたしのもとにくればいい。そうすれば、おまえを殺す必要はなくなる」
下れ、というのだろう。
ジゼルコートの軍門に下り、ジゼルコート配下の武装召喚師になれ、と。
確かにそうなれば、ジゼルコートはルウファを殺そうとはすまい。ルウファの武装召喚師としての実力を知らないジゼルコートではないのだ。ルウファが自軍戦力になるというのであれば、生かすだろう。もちろん、そんな話を受け入れられるルウファではないのだが。
「残念ですが、俺は、レオンガンド陛下とガンディア王家のものです。自分の命欲しさに陛下を裏切るだなんてこと、できるわけがありませんよ」
ガンディアの将アルガザード=バルガザールの二男として生まれ落ちたときから定められていた人生といっていい。バルガザール家の人間たるもの、ガンディア王家のために戦い、ガンディア王家のために死ぬ。それがすべてだ。そして、ルウファはそのために武装召喚師になった。武装召喚師になるため、グロリアに師事を仰いだ。
すべては、ガンディア王家に命を捧げるためだ。
それが生まれた理由なのだ。そこに疑問を差し込む余地はない。
「……いいな」
「はい?」
「わたしは、おまえのそういうところが気に入った。おまえのそういう純粋さが、わたしには眩しかった。だから弟子にし、育て上げた。おまえが一人前の武装召喚師として成長したとき、嬉しかったものだ。そしておまえの活躍を耳にする度に涙したものだよ。おまえは、だれよりも結果を求めていたからな」
「師匠……」
「だから、惜しむ。いまここでわたしが力を加えれば、おまえは死ぬ。その肉体は粉々に砕け散り、跡形もなく消え失せる。おまえはメイルケルビムの腕に抱かれている」
事実、光り輝く無数の翼が、ルウファを包み込んでいた。メイルケルビムの背部から発生した光の翼たち。数え切れない量の翼は、メイルケルビムに秘められた力の凄まじさと、グロリアの武装召喚師としての力量を示している。そしてなによりも美しく、神々しい。
ルウファがシルフィードフェザーを愛用するようになったのは、それこそ、原風景だったからだ。
メイルケルビムを纏い、天使の如く降臨するグロリアの姿がすべての始まりだった。その始まりに抱かれて終わるのも、悪くはないかもしれない。
「負けを認めよ。なにも命を投げ捨てることはあるまい?」
「……そういうわけには参りませんよ」
「わからずやめ」
「すみません、師匠。俺は、俺なんですよ。ルウファ・ゼノン=バルガザール。バルガザール家の次男坊で、王宮召喚師で、《獅子の尾》の副長かつ隊長代理なんです」
師の顔を見つめながらも、脳裏を過るのは主君の顔であり、直属の上官たる隊長の顔であり、その補佐官の顔であり、隊士の顔であり、婚約者の顔だった。無論、専属軍医の顔も思い浮かぶ。《獅子の尾》はいつの間にか、ルウファの心の拠り所となっていたのだ。道理だ。ルウファは、《獅子の尾》の一員だったからこそ、これまでの戦績を積み上げることができたのだ。《獅子の尾》に入っていなければ、いまのような立場にはいられず、エミルとも出会えはしなかっただろう。
だから、というわけではないが、《獅子の尾》は大切だった。主君であるレオンガンドとガンディア王家のつぎに大事な存在だった。そんな《獅子の尾》のためにも、グロリアの言に耳を傾ける事はできない。
「ここで負けを認めれば、命乞いをすれば、皆に申し訳が立たない。皆の期待を裏切ることになる。信頼を踏み躙ることになる。あなたは強い。圧倒的だ。俺があなたに勝つのは至難の業だ。でも、だからといって、ジゼルコートにくだるわけにはいかないんですよ。皆を、裏切るわけにはいかないんですよ」
「……だが、時間切れだ」
「まだ、十秒、残ってますよ」
「その十秒でなにができる」
グロリアが訝しむ。
グロリアにとって絶対的有利な状況。ルウファになにができるわけもないと想っているだろう。実際、なにができるというのか。全周囲を光の翼に囲まれ、身動きひとつ取れない。制限時間も迫りつつある。
「そうですね。残りの力を解放するくらいですか」
「状況は変わらんぞ」
「ええ」
「……わからんな」
「わからないでしょうね」
「なにを企んでいる?」
「さあ?」
ルウファは、わざとらしく笑って返した。そうする間にもときは流れている。残すところ十秒も、もはや、零に近い。
(時間だ)
シルフィードフェザー・オーバードライブの限界が来る。きっかり七十秒。六枚の翼が同時に崩壊を始める。ばらばらに砕け散り、外套の一部分だけが残る。途方も無い疲労感が襲い掛かってくる。凄まじいまでの力の消耗。オーバードライブを行使したことへの反動は、いつになく凄まじい。それもそうだろう。
ルウファは、全周囲の大気を支配するためだけに力を解き放ち続けたのだ。目眩がするほどの消耗に全身の力という力が抜けていくのを認める。このままでは、意識も長くは持つまい。
「なにをした?」
グロリアが、はじめて驚いたような声を発した。表情に焦りが見える。師がこれほどまでに焦りを見せたのは、何年も前、ルウファが一度死にかけたとき以来かもしれない。それも最初の最初だけだ。それ以降、どれだけ瀕死になったとしても、グロリアは眉ひとつ動かさなかった。そんなことを思い出してしまったのは、それほど、グロリアが表情を変化させるのが珍しいできごとだったからにほかならない。
「オーバードライブの制限時間がきただけですよ」
ルウファは、伸ばした腕をグロリアの腰に回し、がっちりと締め付けた。メイルケルビムの凍てついたような硬質感は昔となんら変わらない。グロリアは、最初こそ抗ったものの、すぐさま無意味だということに気がついたらしい。
「オーバードライブによって支配した大気が霧散しただけのことです。となれば、落ちるのは必定」
「メイルケルビムまでも浮力を失うのはなぜだ?」
「それだけ広範囲に渡って支配していたからですよ、師匠」
「……そういうことか」
グロリアは、ルウファのわずかな説明で把握したようだった。さすがはルウファの師というべきだろう。ルウファが思考を瞬時に想像できてしまうのだから、やはり、師匠というほかない。
「だが、これで勝ったといえるのか? 確かにこのまま落下すれば、わたしは死ぬが、おまえも死ぬぞ?」
「……残念ですが、ほかに師匠を倒す方法が見つからなかったんですよね」
ルウファは、もはや抗いもしなくなったグロリアの体を抱きしめたまま、自由落下に身を任せた。高高度。地面に激突するまでの時間は、まだ、ある。
「師匠、強すぎですよ」
「……だろうな」
グロリアが、小さく苦笑を漏らした。風の音もなにも聞こえない。完全な無風。大気がルウファとグロリアの周囲から逃げていくのだから、音など聞こえるはずもない。
「わたしは強い。それは事実だ。おまえがわたしを出し抜くにはみずからの死を覚悟しなければならないほどにはな。しかしな、せっかくの命、無駄にするのか」
「いったはずです。ジゼルコートに下るわけにはいかないと。下るくらいなら、いっそのこと、死んだほうがいい」
「馬鹿弟子め」
(もちろん、なにも考えていないわけじゃないけれど)
上手くいくかどうかは、わからない。
運次第、といったところだ。
落下は、止まるところを知らない。