第千四百五話 マルダールの戦い(一)
『ハルベルクのことは、仕方がなかったのです』
リノンクレアの脳裏には、あの日のことが焼き付いていた。離れないわけがない。忘れられるわけがない。思い出したくなくとも、浮かび上がる。眼前に戦場が迫っているというのに。戦いがいまにも始まろうとしているというのに。
感情というものは、ままならないものらしい。
『兄上は、陛下は、なにも間違ったことはなされておりませぬ。ハルベルクが斬りかかったのです。陛下は、ハルベルクを斬らねばならなかった。でなければ、陛下が命を落とす結果になっていたのですから、陛下はあのとき、剣を振るうよりほかなかった』
リノンクレアがそう告げたとき、網膜に浮かんだのは、その瞬間の光景だったのは間違いなかった。最愛の兄が最愛の夫を斬り殺す瞬間の映像。目に焼きつき、記憶に刻みつけられた絶望の刹那。ハルベルクがジゼルコートの謀反に同調したことが明らかになったときから恐れていた出来事。
レオンガンドが振り下ろした剣がハルベルクを斬り裂き、噴き出した血のあざやかな紅さが嘘みたいに綺麗だった。
なにもかもが虚構のようだった。
そのまますべてが嘘になればいいと想った。
だが、彼女が両腕で抱き止めた彼の体は重く、すべて現実であることを示していた。そして、すべてが嘘偽りのない現実だとわかったとき、彼女の中でなにかが音を立てて壊れた。
『そのことは、だれの目にも明らかです』
レオンガンドが正しく、ハルベルクが間違っていたのは、だれの目にも明らかだ。ハルベルクをこの世で一番愛し、信じていたリノンクレアでさえ、彼が間違っていたと想っている。彼の判断の愚かさは、彼を思うものほど実感するだろう。ルシオンの王としても、一個人としても、間違った判断を下したというほかない。
『ですから、陛下、どうか、お顔を上げてください。謝らないでください。なにひとつ、間違ったことはしていないのですから』
それは、バルサー要塞に入ったあとのことだった。
ハルベルクの亡骸を前にして、ひとり彼の冥福を祈っていると、レオンガンドがやってきたのだ。そしてレオンガンドは、リノンクレアの心中を想い、ただハルベルクを手に掛けたことを謝ってきたのだ。レオンガンドはなにひとつ間違っていないというのに。レオンガンドにはなにひとつ落ち度はないというのに。
それでも、荒れ狂う激情を抑えつけるのは至難の業で、だからこそリノンクレアは、レオンガンドに早く部屋を出て行って欲しかったのだ。でなければ、リノンクレアまでレオンガンドの手にかかって死ぬことになりかねない。
愛は、ときに理性を吹き飛ばすものらしい。
『正しいことをなされたのですから』
正しいこと。
そう、自分はいった。
正しいこと。
本当にそう想っているからこそ出た言葉だ。そうであるはずだ。正しいこと。そう思い込もうとしているわけではないはずだ。
(正しいこと)
「リノンクレア様」
呼びかけられて、我に返る。彼女率いるルシオン軍が足を止めていた。リノンクレアと白聖騎士隊副長サーリャ=シークウェルのみが突出していた。サーリャが突出しているのは、リノンクレアを呼び止めるためだろう。実質、突出したのは彼女だけということだ。
「わかっている」
それだけをいって、頭を振った。わかってなどいないから、突出してしまったのではないか。言い訳を考えて、やめる。なにをいっても、意味はない。
リノンクレアたちルシオン軍は、この戦いにおいて左翼を担当している。左翼とはバルサー要塞から見た場合のことであり、東のラクシャ軍を任されたということだ。ラクシャ軍と戦うのはルシオン軍だけでなく、ザルワーン方面軍との共同作戦を行うことになっていた。そのため、突出するべきではないのだ。
「ザルワーン方面軍が所定の位置につき次第、攻撃を開始する。いいな?」
「はっ」
副長は首肯すると、後退した。
ルシオン軍三千が、リノンクレアの指揮下に入っている。
ルシオン軍は、敗戦後、すみやかにレオンガンドに投降し、そのままリノンクレアに預けられた。
リノンクレアは、ルシオンの王妃なのだ。国王ハルベルクがレオンガンドに戦いを挑み、敗れ、戦死したものの、リノンクレア個人としてはレオンガンドと敵対する理由はなかった。レオンガンドがハルベルクを殺したことに関しては、複雑な感情が渦を巻いている。しかし、国王亡きあと、ルシオンの頂点に立つものとして正しい判断を下さなければならない以上、感情に左右されている場合ではなかった。レオンガンドに告げたように、彼は正しいことをしたのだ。間違っていたのは、ハルベルクのほうであり、そのことについては、戦後、すべてが落ち着いてから考えるべきなのだ。
ルシオン軍はレオンガンドを裏切り、敵対したものの、それはハルベルクの命令であり、ハルベルクはジゼルコートに唆されただけであって、罪はないとレオンガンドは宣言した。ハルベルクの罪をなかったことにすることで、戦後のガンディアとルシオンの関係の悪化を未然に防ぐとともに、ルシオン軍を解放軍の戦力として使う言い分を得たのだ。ルシオン軍将兵も、無罪放免といわれれば、レオンガンドに協力しやすくはなる。
中には、もはやガンディアに従う必要はない、などと言い張るものもいたが、そういう主張するものは連れて来ていなかった。リノンクレアに従うものだけで三千名なのだ。
また、ハルベルクの裏切りを好ましく思っていなかったものも少なくはない。ガンディアは長年の同盟国だ。理由もなく同盟国を裏切るなどあっていいことではない。もちろん、ハルベルクにはハルベルクなりの如何ともし難い理由があったのだろうが、それにしても、国や民のためを考えれば、取るべき行動ではなかったのは間違いない。
頭を振る。
そんなことを考えている状況ではない。戦場なのだ。戦いに集中するべきだ。
リノンクレアは、前方を見遣った。平原を敵軍が動いているのがわかる。複数の部隊がこちらへの接近を試みているようだった。ラクシャ軍は総勢五千の大軍だ。三千のルシオン軍だけでは手に余るが、ザルワーン方面軍約三千の協力があれば、勝てない数ではない。
左を見遣る。
川を挟んだ遥か彼方をザルワーン方面軍が進軍しているはずだ。見えやしないし、想像するしかないのだが。
ザルワーン方面軍は、ラクシャ軍側面を急襲する予定であり、ルシオン軍はそれに合わせて突撃する算段を立てていた。しかし、敵の反応が想像していたよりも早い。
(どうする? 待つか?)
それとも、打って出るか。
敵軍の動きは、ルシオン軍のみに向いている。ザルワーン方面軍には気づいていないようだった。それはそうだろう。ザルワーン方面軍は、大きく迂回して移動しているのだ。敵軍の警戒網に引っかからないよう細心の注意を払いながら、疾駆しているだろう。しかし、このままルシオン軍が動かなければ、ラクシャ軍も不審に思うかもしれない。罠や計略を疑うかもしれない。
(ここは、出よう)
リノンクレアは、決断すると、腰に帯びた剣を抜いて、天に掲げた。登り始めた太陽の光が刀身に反射し、輝く。
「全軍、突撃せよ!」
ルシオン軍の猛攻が始まった。
バルサー要塞から出撃した解放軍の右翼は、ログナー方面軍と傭兵局に任されていた。
右翼部隊が担当するのは、アザーク軍だ。兵数は四千ほど。ログナー方面軍と傭兵局の合計兵数よりわずかに少ないくらいだ。戦力差がどれほどのものなのかは、よくわからないアザーク軍の戦力が明らかになっていないからだ。
アザークはガンディア本土の西に隣接する国であり、長らく敵対関係にあったものの、第二王子カリス・レウス=アザークが実権を握り、即位すると、すぐさま方針を転換、ガンディアと友好関係を結ぼうと躍起になっていた。ガンディアも、近隣国との協調関係を強めたいと考えていたこともあり、長らく敵であったアザークを友好国として迎え入れた。それからしばらくは友好的な関係が続いていたのだが、あるときを境に事情が変わる。それこそ、ジゼルコートによるアザークの従属であり、アザークはジゼルコートとの交渉の末、ガンディアの属国と成り果てた。
アザークとは友好関係の強化だけでよいと考えていたレオンガンドには寝耳に水の話であったものの、小国家群統一を目指す上では、ジゼルコートの判断に間違いはなく、むしろ正しいことだった。友好関係などすぐに崩れ去るが、従属関係はそう簡単には変わらないからだ。
だが、その従属関係が偽りのものであることは、ジゼルコートの謀反によって白日の下に曝された。アザークもラクシャもジゼルコートの謀反を知り、仮初に従属していただけに過ぎなかったということだ。
三国同盟時代からミオンにちょっかいを出していたラクシャはともかく、親ガンディア派として知られていたカリスが国王を務めるアザークまでもがジゼルコートについたというのは、レオンガンドら首脳陣にとっては少しばかり衝撃的だったようだ。まさかカリスがジゼルコートに靡くとは、さすがの参謀局も読めなかったらしい。
とはいえ、アザークは、強い国ではない。
ガンディアの隣国であるアザークは、ガンディアの偉大なる指導者が病床に伏してからというもの、度々国境を乗り越え、侵攻してきたのだが、そのたびにガンディアの弱兵たちによって撃退されてきたという歴史がある。つまり、ガンディア軍にさえ勝てない国ということだが、それでアザークの現在の戦力を図るのは早計というほかない。
「小国家群の戦国乱世っていのは、つまるところ小競り合いがすべてだ。弱小国の群体に過ぎない世界において、他国領土を攻め取るために大戦力を投入するというのは、自殺行為にほかならなかった。その隙を隣国に攻めこまれ、国土を失う可能性が高いからだ」
「そんなわかりきったことを得意気に解説されてもですね」
「だから、アザークの真の実力ってのは、どの程度のものなのかわかんねえっていってんだよ」
ルクスがからかうと、シグルドは険しい顔をして睨んできた。
進軍真っ只中のことだ。傭兵局の《蒼き風》と《紅き羽》は、ログナー方面軍と共同してアザーク軍に当たることになっており、《蒼き風》と《紅き羽》が前衛を担っているのだ。敵軍は右前方からこちらに向かって進軍中であり、もう少しすれば激突するだろう。そして、そのときこそ、彼の出番なのだ。
「兵数はおよそ四千。兵力的にはこちらとほぼ同等か、こちらがわずかに上回っている程度。勝敗を分かつのは戦術と、戦力になるでしょう」
「戦力ならこっちには“剣鬼”と“剣聖”がいるからな」
「そうそう、わたしの旦那がいるものね」
背後からの声にルクスは憮然とした。ベネディクト=フィットラインだ。
「いつから旦那になったんだか」
「この戦いが終わったら、式を挙げましょうよ。いますぐでもいいわよ」
「よくないっての」
「怖い声ださないの」
ベネディクトの注意に、ルクスはなにも言い返さなかった。彼女の発言に振り回されている場合ではない。
「まったく、緊張感もなにもあったものではないな」
冷ややかに告げてきたのは、トラン=カルギリウスだ。ルシオン軍との戦いで圧倒的な力を魅せつけた彼は、傭兵たちの間でも一目置かれる存在となっていた。“剣聖”とは名ばかりの、召喚武装の能力に頼りきった存在ではないということが証明されたからだ。トランは、召喚武装を用いずとも常人とは思えないほどの力を発揮し、敵兵を薙ぎ倒したものだ。
そしてルクスは、そんな彼の真似をすることで、さらなる高みへと至れた。
「あんたがいえたことですか」
「ふむ?」
「あんたの弟子たちも、緊張感皆無だったじゃん」
告げると、トランが面食らったような顔をした。アニャン=リヨンとクユン=ベセリウス。彼のふたりの弟子は、いまもマルスールで療養中だ。ふたりは武装召喚師であり、無事であれば解放軍の戦力として利用できたのだろう。それも強力な武装召喚師だった。しかしながら、トランたちを味方に引き入れることになるなど、だれが想像できるはずもなく、負傷退場させたことはなにひとつ間違いではなかった。
おかげでトランが独特の呼吸法を用い、ルクスにその使い方を見せてくれたと考えれば、悪いことではない。むしろ、アニャンたちが戦闘に参加していた場合、トランが呼吸法を用いることはなかっただろうし、そういう意味では、彼女たちが負傷退場したことこそが正解だったのだろう。
「それもそうだな」
「認めるのか」
「認めよう」
トランが厳かに頷く。“剣聖”の仕草はどれをとっても威厳に満ちあふれている。さすがは“剣聖”と長年呼ばれてきただけのことはあるというべきか。
「君もな」
「俺?」
「君ほどの人物に出逢ったのは、生まれて初めてだ。尊敬に値する」
トランの言葉が、ルクスには理解できなかった。
「尊敬……? なにいってんだ、あんた」
「竜の呼吸法を見よう見まねで体得するなど、常人にできることではない。天賦の才を持つものですら、不可能だろう」
トランは、いう。
「君だけだ」
ルクスは、その一言に妙な感覚を覚えた。心の奥底でなにかが震える。こみ上げてくるのは膨大な熱量。心を焦がし、肉を焼く――そんな波動を感じながら、手綱を握る手を見下ろした。
「俺だけ」
才能の有無については、よくいわれたことだ。類稀なる剣才の持ち主だと褒めそやされたこともある。剣に関しては天賦の才能があるのだから、努力を怠らなければだれにも負けない剣術家になれるだろうとシグルドからお墨付きをもらったからこそ、ルクスは剣の鍛錬に打ち込んでこられたのだ。才能。様々な言葉で賞賛された。賞賛されるたび、空疎な言葉だと想った。もちろん、シグルドやジンに褒められるのは嬉しいし、だからこそやってこられたのだが、それでも、才能という言葉ほど虚しい物はないと想えた。
才能などという言葉で自分を表してくれるな、という想いもある。
才能で、切り開いてきたわけではない。
そんなものだけで得た力ではない。
それだけでどうにかなるような世界ならば、もっと楽だったはずだ。そうではなかったからこそ、才能という言葉を嫌った。
だから、というわけではないが、トランの賞賛の言葉には感じるものがあった。彼は、才能をほめてはいなかった。ルクス=ヴェインという人間を賞賛したのだ。
「そう、君以外にはいまい。君だけが、成し遂げたのだ」
「なるほど。つまり、ルクスは“剣聖”殿をも超える大天才ってことだな」
「大天才などという言葉すら、生ぬるい」
「へえ。すげえじゃねえか、ルクス」
馬上、突然頭を叩かれて、ルクスは呆然とした。
「さすがは、俺が見込んだ男だぜ」
横を見ると、シグルドの野性的な笑みがあざやかに輝いていた。