第千四百話 スルーク防衛戦
ガンディア王国ザルワーン方面スルーク。
ジゼルコートの謀反に乗じ、ジベルの真死神部隊によって制圧されたこの都市がレムたちの手で奪還したのは、四月十六日のことだ。
それからというもの、レムたちはスルークに滞在し、周囲を警戒していた。ザルワーン南部の都市、ナグラシアは未だジベル軍の制圧下にあり、ジベル軍がザルワーン方面制圧を諦めていない可能性が高かったからだ。
「ジベルの連中が諦めてくれりゃあいいんだがねえ」
エスク=ソーマがそんなことをいったのは、ジベル軍が諦めないかぎり、レムたちはスルークを離れることができないからだ。エスクとしては、すぐにでもスルークを離れ、解放軍本隊に合流したかったに違いない。スルークでジベル軍を牽制するよりも、解放軍本隊に同道したほうが苛烈な戦場に遭遇すること間違いなく、“剣魔”エスクにはそのほうが嬉しいのだろう。戦場こそが彼の居場所であり、戦場で戦果を上げることがセツナ軍の評価に繋がる、と彼は考えている。主たるセツナのためにも、セツナ軍は評価を上げる必要があるのだ、と。
エスクがそこまでセツナに入れ込んでいる理由は不明なものの、レムにとっては悪い気がしないことではあった。セツナはレムにとって掛け替えのないひとであり、たったひとりの主だ。彼のことを想い、彼のために戦うエスクたちのことを嫌いになれないのは、当然のことだった。
「諦めないのであれば、諦めさせてさし上げましょうか」
「どうすんだ?」
「ナグラシアに攻め込むのはいかがでございましょう?」
「この少人数でか?」
「もちろん」
「冗談だろ」
エスクは笑って取り合わなかったが、レムは半ば本気だった。
スルークは、真死神部隊を名乗る総勢百人ほどの戦力によって制圧されていたのだが、ナグラシアには紅き角戦闘団という二千人規模の軍団が入っているという話だった。レムたちは三十人にも満たない少人数であり、多勢に無勢というまでもないほどの物量差があるのだ。いくらシドニア戦技隊が強くとも、さすがに勝てるとは思えないらしい。レムもそれはわかっているのだが、それでもなんとかなるのではないか、と考えていた。
こちらには、死神と“剣魔”、召喚武装使いがふたりいるのだ。
数の上では負けていても、質の上では凌駕しているのではないか。
レムはそう考えた上で提案したのだが、エスクに却下されたこともあり、それ以上はなにもいわなかった。
スルーク滞在中、シドニア戦技隊のドーリン=ノーグとレミル=フォークレイは、先の戦いで入手した召喚武装を扱えるようになるべく、日々、訓練を行っていた。エスクは直感的にソードケインを使いこなせるようになったというが、普通、召喚武装というのは簡単には使いこなせるものではないらしく、レミルもドーリンも苦労していた。
ドーリンは、超長距離射程の弓にエアトーカーと名付け、それを使いこなせるようになるべく、日々、訓練を行っていた。当初こそ覚束なかったものの、さすがは弓の名手というべきか、毎日矢を射ているうちにコツを掴み始めたらしく、十日も経つと、かなり正確に目標を射抜けるようになっていた。エアトーカーで放たれた矢は、スルークの西端から東端まで余裕で届き、城壁上に置かれた標的を粉々に粉砕するほどの威力を見せた。
一方、レミルは、ホーリーシンボルに苦闘を強いられていた。ホーリーシンボルの能力は、ある程度判明している。ホーリーシンボルから印を投射するという能力であり、印を付加されたものは、身体能力が向上し、途端に並外れた戦力となる。それだけではなく、印を付加した対象が多ければ多いほど、ホーリーシンボルの持ち主が強化されるらしく、それにより、ナダ=ラージャは凶悪な力を発揮したものだった。もっとも、死神の前では意味をなさなかったが。
ホーリーシンボルの印を付与するのは簡単なことではないらしく、現状、レミルが印を付与できてふたりまでであり、その程度では自身の強化も実感できるものではないということだった。
「こればかりは時間をかけて覚えていくしかねえよな」
「武装召喚師の皆様に話を聞くべきなのかもしれませんね」
「だな」
そのためにも、武装召喚師たちと合流しなければならないのだが、それにはナグラシアのジベル軍が邪魔であり、だからこそレムはナグラシアの攻略を提案したのだが、戦力差を考え、却下された。
しかし、そんな風にして十日ほどが過ぎた二十七日午前、スルークにジベル軍が接近中という知らせが届いた。ナグラシアからの攻め上ってきているというのだ。
「いまさらかよ」
報せを聞いたエスクが唾棄するようにいったのは、スルーク奪還から日数が経ちすぎているからだ。再びスルークを制圧するつもりなのであれば、真死神部隊の敗北を知った直後に軍を動かすべきであり、レムたちに回復の機会を与えるべきではなかった。だが、ジベル軍は、真死神部隊の全滅を理解しながらも、即座に軍を動かさなかった。ナグラシアからであれば二日もあれば、軍勢を差し向けることは不可能ではない。
「あちらにも事情があるのでしょうな」
ドーリンが長い髭を撫でながら、いった。
「どういう意図があって、スルークを狙うのでございましょう?」
「……ああ、そういうことか」
「はい?」
「解放軍本隊がログナー以南に到達したという報せでも入ったんじゃないか?」
「……なるほど」
「ログナー奪還中のいまこそ、ザルワーンを制圧するべくスルークを落とさんとしている、と」
「だとすれば、正念場でございますね」
「ああ」
エスクがにやりとした。
ジベル軍がガンディアの内乱に乗じ、ザルワーン方面を我が物にしようとしているのであれば、ナグラシアの軍勢のみならず、他の戦力も同時に動かしている可能性も少なくはなかった。ガロン砦やスマアダの戦力がナグラシアの軍勢とともにこのスルークに押し寄せてくるのであれば、それこそ激戦になる。
そうなれば戦力差は圧倒的だ。
レムたちといえど、抵抗しようもないかもしれない。
だが、エスクは不敵に笑うのだ。そして、シドニア戦技隊全隊士に迎撃準備を命じると、みずからも戦いに備え始めた。
「ここでジベル軍に痛撃を食らわせるのも悪かねえ。そうだろ」
「そうでございますね」
「本隊での活躍は、まあ、“剣鬼”の野郎に任せるさ」
エスクは、未練を捨て去るように告げたものだ。
スルークには、奪還後から今日に至るまでの間にザルワーン方面軍の第二軍団から五百名ほどが入ってきており、当初よりもレムたちの戦力は増大していた。無論、第二軍団の指揮権などレムたちにあるわけもないが、ジベル軍の接近に伴い開かれた会議において、第二軍団副長シノン=ベリルがレムたちと協力して敵に当たるということを明言し、スルーク防衛の詳細が取り決められた。
スルークに接近中の敵軍の詳細が明らかになったのは、翌朝二十八日。
やはりナグラシアからだけではなく、スマアダ、ガロン砦のジベル軍もこちらに向かってきており、総勢三千名超の大軍勢がスルークに肉薄していた。
「たいした数だな、おい」
エスクが、スルーク東側の城壁から眼下を見渡しながら、呆れ気味にいった。眼下、迫り来る敵兵は波のようにも見える。もちろん、もっと多くの敵軍を目の当たりにしたこともあるし、クルセルクの魔王軍などはこの程度のものではなかったが、それは、それだ。
今回は、味方が少ないのだ。
「三千対五百。数の上では、圧倒的に不利ですな」
ドーリンは髭を撫でると、弓を掲げた。エアトーカーと名付けられた召喚武装を構える彼の姿は、様になっている。吹き抜ける風が彼の長い髭を激しく揺らす。
「ま、ワラルとの戦いに比べれば、遥かにましだがな」
「とはいえ、あのときはセツナ様や《獅子の尾》の皆様が一緒でしたからね」
レミルはというと、ホーリーシンボルを手にしている。生粋の戦士である自分が杖を握ることになるなど考えてもいなかったという彼女だったが、いまではホーリーシンボルの使い手として自覚した行動を取るようになっていた。
ホーリーシンボルの印は隊士ふたりに刻印される手はずになっていた。エスクとドーリンに印を付与することでふたりの力を底上げするよりも、強い駒を増やしたほうが得策だろうという判断が下されている。召喚武装を手にし、強化されているエスクとドーリンをさらに強くしたところで、劇的に手数が増えるとは思えないからだ。
「ああ。今回はそういうわけにはいかねえ」
エスクがソードケインを手にする。一見、短杖にしか見えないそれは、使用者の意思により光の刃を発生させるという能力を持つ召喚武装だ。
「召喚武装の素人ふたりに、慣れてきたとはいえ使いこなせていないのがひとり――頼りになるのは死神様だけだな」
エスクがちらりとこちらを見た。レムは、予期せぬ一言に少しばかり驚いた。
「わたくしでございますか?」
「レム殿、頼りにしているよ」
「頼られました」
レムは、なんだか嬉しくなって、にっこりと微笑んだ。
やがて、ジベル軍がスルークの東側に布陣しきったのは、二十八日の午前十時を過ぎた頃だった。そのころにはスルーク側の布陣も終わっていて、城壁上に数多の弓兵が待機し、敵軍が射程範囲に入る瞬間をいまかいまかと待ち構えていた。
もちろん、地上にも部隊は展開している。
スルークの城壁外にザルワーン方面軍第二軍団五百名のうちの三百名が、シドニア戦技隊とともに待機していた。合計、三百二十五名。それだけで十倍近い敵戦力と対峙しているのだ。恐怖に震えるものがいたとしてもおかしくはなかったが、シドニア戦技隊の面々は、誰ひとりとして怖気づいたりはしていなかった。むしろ、武者震いが止まらないといった風情であり、だれもがこの戦いで死ぬことなど考えてもいないようだった。
レムにはそれがいかにも頼もしく思えて、セツナが彼らを配下に加えたのは正しい判断だったのだと想わざるを得なかった。
「そろそろだな」
地上部隊の先頭に、エスクはいる。彼は、ソードケインを頭上に掲げると、光の刃を発生させた。短杖の先端に生じた光の刃は、まばゆい輝きを発しながら膨張し、遥か頭上へと至る。攻撃のためのものではない。合図だ。
城壁上で弓を構え、攻撃のときを待つ彼の腹心に向かっての合図。
敵軍はまだ、通常弓の届く距離には至ってはいない。が、ドーリン=ノーグの弓エアトーカーは召喚武装であり、その能力は完全に解明されているわけではないものの、矢が圧倒的な飛距離を得ることができるのは確かであり、城壁上から敵軍の陣地までは余裕で届くだろうことはレムにもわかっていた。だから、エスクは合図を出したのだ。
敵軍が接近するよりも早く攻撃し、敵兵の数を減らすとともに敵軍に脅威を恐怖を叩き込むのだ。そうすることで少しでも戦いを有利にすすめることができるだろうというのが、エスクの考えであり、レムも同意見だった。
すると、前方に土煙が上がり、敵陣から悲鳴や怒号のようなものが聞こえてきた。
ドーリンが矢を放ったのだ。
「野郎ども、行くぜ!」
エスクが吼え、シドニア戦技隊の隊士たちが続いた。
レムもそれに習って声を上げると、“死神”とともに駆け出していた。
スルーク防衛戦が始まったのだ。
レムたち地上部隊が敵軍に接敵するころには、ドーリンの放った矢が敵陣後方に多数の被害をもたらしており、敵軍の動きに乱れが生じていた。攻撃されたのは後方なのだ。まるで後背を衝かれた日のような損害の出方に、後方に敵部隊が出現したのではないかと疑うものが現れても不思議ではない。無論、矢はスルーク城壁上から放たれており、よく見ればわかるのだが、そもそも、エアトーカーの放つ矢の速度は、常人の目で捉えられるものではない。気がついたら矢が味方を射抜き、地面を破壊しているのだ。後方からの攻撃を疑い、軍勢の動きが鈍ったのだとしても、仕方のないことなのかもしれない。
そしてそれこそ、エスクの狙い通りであり、エスク率いるシドニア戦技隊は、動きの鈍くなった敵軍目掛けて殺到した。それにザルワーン方面軍第二軍団が続く。敵は三千。味方は三百。数の上では圧倒的に不利だが、その不利を覆すことには慣れている。
「死にたい奴からかかってきな!」
エスクは不敵に告げ、ソードケインを横薙ぎに振り抜く。長大な光の刃が敵軍の前衛を容易く薙ぎ払い、盾ごと多数の敵兵を切り裂いてみせた。そこへシドニアの戦士たちが突っ込み、致命傷を与える。中でもレミルと彼女に印を付与された二名の活躍は凄まじく、物量差などものともしない戦いぶりには、敵陣に動揺が生まれるほどだった。そこへザルワーン方面軍の後押しが入ると、三千対三百とはとても思えないような戦況が生まれる。数だけならばジベル軍のほうが圧倒的に有利だというのに、戦況はレムたちに傾いている。
レムはレムで、零号から陸号までの六体の“死神”を具現し、多数の敵兵を血祭りに上げていた。零号が黒の剣で斬りつければ、弐号が一対の戦輪を投げつけて敵を切り裂き、参号が長棍を振り回して敵陣を駆け抜ける。肆号の両刃槍が敵兵を切り刻み、伍号が両手に短刀を持って疾駆したあとには肉塊と成り果てたものが残る。陸号の豪腕は地面に大穴を開けるほどの威力を持ち、敵兵を粉々に破壊する。
「これこそ死神部隊でございます。ジベルの皆様方にはどうぞお見知り置きを」
レム自身、闇色の大鎌を手に敵兵を切り裂きながら、そんなことを言い放った。
たったひとりで死神部隊を作り上げることができるのが、レムの能力だった。それもこれも、セツナが生み出した闇人形との同化によって得られた能力だ。以前は、いずれか一体しか呼び出せなかった。闇人形と同化したことで、“死神”は壱号に統合された。壱号は完全な“死神”となり、力だけならばすべての“死神”を遥かに凌駕する存在となった。よって、“死神”を使い分ける必要はなくなったのだが、今回のように戦力を必要とするのであれば、壱号を分化させ、複数の“死神”を同時に動かすほうがいい場合もある。
「“死神”……“死神”!?」
「はい、わたくしが死神でございます。先日、スルークを占拠していた偽りの死神とはわけが違うのです」
告げ、ジベル兵の首を刎ねる。
ジベルは、レムが生まれ育った国だ。が、国を愛してなどいなかった。むしろ、憎んでさえいた。あの国に留まっていたのは、そうしなければ生きていられなかったからにほかならない。
呪縛。
クレイグ・ゼム=ミドナスという呪縛が彼女をジベルに縛り付けていた。
クレイグが死に、レムが三度目の生を受けたとき、呪縛は消えて失せていた。代わりに彼女を縛り付けるのは、新たな契約だ。新たな約束。クレイグの呪縛よりもずっと優しく、ずっと根深いもの。命の根底。魂の奥深くに結ばれた絆。そのために彼女は今日も戦うのだ。
レムたちが押していたのは、最初のうちだけだった。敵軍が冷静さを取り戻すと、数による圧倒が始まった。味方に死傷者が出始め、このままでは数に押し潰されかねないという状況にまでなった。
「上出来だ、引くぞ!」
エスクは、躊躇せず、後退を命じた。
殿を務めるのは、当然、レムだった。軍議の場では、シドニア戦技隊の面々が自分たちこそ殿を務めるべきだといいはったが、エスクの一声でレムに決まった。レムは死んでも死なないが、シドニアの戦士たちの命はひとつだ。歴戦の猛者など、そう簡単に補充できるものではない。エスクとしては失うわけにはいかないし、それはレムにしても同じだ。シドニア戦技隊はセツナの大事な配下なのだ。セツナ軍の戦力でもある。シドニア戦技隊を失うということは、セツナ軍の戦力が低下するということにほかならない。
無論、だからという理由で殿を買って出たわけではなく、端的にいえば、自分が不死不滅の存在だからだ。
レムは、味方が後退を始めると同時に“死神”ともども自軍後方に移動し、敵軍との間に“死神”の壁を構築した。レムと六体の“死神”がそれぞれの得物を構え、敵兵の波を押し留める。ジベル軍が足を止めたのは、ジベル軍の中に死神レムの名がそれなりに浸透していたからかもしれないし、死神部隊の雷名を聞き及んでいるものが多かったからかもしれない。あるいは、真死神部隊の死に様を聞いていたからなのか、どうか。
「なにをしている! 追撃せよ! 追撃!」
「追撃!」
「追撃ーっ!」
後方から響く声が、ジベル軍を再び進軍させる。
「ここで止まっていてくだされば、良かったものを」
レムは、大鎌を軽く旋回させると、後方を一瞥した。味方部隊との距離はそこそこ離れているが、もう少し、時間を稼いだほうがいいだろう。前方に向き直る。無数の矢が飛来してきていた。黙殺し、前へ。矢が皮膚を裂き、服を貫く。が、彼女は無視した。ひたすらに無視し、迫り来る敵兵に対応する。鎌を振り下ろし、眼前の敵を真っ二つに両断すると、さらに真横に薙ぎ払って左右の敵も絶命させる。その両側では“死神”たちが踊るように敵兵を殺戮しており、このまま戦い続ければレムひとりで圧倒できるのではないかと想うほどだった。
ある程度敵兵を殺すと、敵軍が攻勢を取り止めた。死神相手に真正面からぶつかっても意味がないということを理解したらしく、弓兵による射撃を強化した。が、それも無意味だ。矢でどれだけ射られようと、痛みを感じるだけのことだ。それでは、レムを滅ぼすことなどできるわけもない。
レムは、“死神”に後方を確認させ、エスクたちが所定の位置に到着したのを把握した。
(ここは作戦通りに)
レムひとりによるジベル軍殲滅を試みるのも悪くはなかったが。
レムは、後ろ髪を引かれる思いで、後退した。ジベル軍は、すぐには追撃に打って出てこなかた。殿に残ったレムが突如として後退し始めたのだ。策や計略を疑うのは当然のことだ。しかし、ジベル軍の目的がスルークの制圧である以上、足を止めている場合ではなく、前進するしかないのだ。
「さすがはレム殿」
レムがエスクたちの元に到達すると、エスクがそんな言葉で出迎えてくれた。
「死神の名に遜色ない働きぶりですね」
とは、レミル。ホーリーシンボルの扱いに慣れてきたのか、表情に余裕が現れ始めている。
「褒めてもなにも出ませんよ」
「言葉の割に嬉しそうだ」
「ええ、まあ」
レムは笑って返しながら、敵軍を振り返った。ジベル軍は、罠や計略を警戒し、ゆっくりと接近してきている。こちらと接触するのも時間の問題だが、無論、接触するまでもない。敵軍の大半が所定の位置に入り、敵軍の前衛がレムたちを視界に捉えたとき、矢の雨が敵陣に降り注いだからだ。ドーリンの矢だけではなく、城壁上に展開した二百の弓兵が一斉に矢を叩き込んだのだ。間断なく降り注ぐ矢の雨は、敵軍を混乱させた。進路上だけを注意し、弓兵の射程範囲を考慮していなかったことが混乱の原因だろう。
「おおー、いい感じに効いてるねえ」
「これで少しは楽になりますでしょうか」
「あと少し押せば、退いてくれるさ」
戦力差を覆して勝利するためにはどのような戦術を取ればいいのか。エスクが開いた軍議では、そのことばかり考えられた。レムは、自分がひとりで突っ込むという案を出したものの、エスクによって却下された。レムひとりの戦功になるのは、エスクとしてはつまらないという理由であり、また、それでは自分たちの存在意義がないともいった。
その上で考えだされたのがこの誘引策であり、これならばレム、シドニア戦技隊、ザルワーン方面軍第二軍団に花を持たせることができるとのことだった。
矢の雨は降り止まないが、その中を突っ切ってくる敵兵もいないではなかった。しかし、少人数の部隊が突出してきたところで、エスクやレムが対応するだけのことであり、突出してきた部隊は返り討ちに遭うだけのことだった。
敵軍は、矢を嫌って軍勢を散開させた。矢は一箇所に集中的に降り注いでいた。部隊を分ければ、それだけで矢の対象を分散させることになり、被害は減るだろうという安易な考えは、射程範囲から逃れきれていないだけで無駄に終わった。城壁上の弓兵たちは、矢を一点に集中させ、分散した敵軍の一部隊を瞬く間に壊滅状態に陥らせたのだ。
ジベル軍は、三分の一ほどの戦力を失ったところで撤退を始めた。スルークひとつを制圧するためだけにこれ以上の戦力を失うのは痛いと判断したのだろう。
レムたちは、予定通り、少人数で追撃を開始。
鬼のように追いかけ、ジベル軍の殿軍を壊滅させ、もう二度とスルークに攻め込む気が起きないよう徹底的に攻撃を叩き込んだのだった。
レムたちがスルークに戻ると、敵味方の損害の詳細が明らかになっていた。
「ジベル軍の死者は千百二十二名。対して、我々のほうの死者は二十三名」
「二十三人も死んだか」
報告を聞いたエスクの一言に報告者のザルワーン兵は怪訝な顔をした。も、という言葉に引っ狩りを覚えたのだろう。三千の敵軍と戦ったのだ。地上戦力だけならば、兵力差は百倍に近かった。それで二十三人しか死者がでなかったのは、むしろ驚くべきことだ。少なすぎるといってもよかった。それくらい引き際が鮮やかだったということだが、それにしても、と想う。
ジベル軍が弱かった、というわけではあるまい。
確かに武装召喚師のひとりもいなかったが、それにしても上手く行きすぎたのではないか。
「まあ、上手くいったのは間違いねえがな。俺としては、ひとりの死者も出したくなかったのよ」
エスクがそんな風に付け足すと、ザルワーン兵も納得したような顔を見せた。
レムは、エスクがそんなことを考えているとは思いも寄らず、彼の新たな一面を発見する想いがした。