第十三話 ありがとう
ガンディア。
小さな国だという。
イルス・ヴァレの海に浮かぶワーグラーン大陸の南部に、密集するように存在する小国家群があり、そのうちの一国がこのガンディアという王国らしい。
王都ガンディオンを中心とする狭い領土には、王都のほかにマルダールという都市と、カラン、メレル、クレブールといった小さな街がある。総人口は、二十万人にも届かないそうだ。
本当に小さな国であり、建国から今日に至るまで、領土の死守で手一杯だったのだとか。領土の拡大など夢のまた夢であり、偉大なる先王の死去に伴い、その夢はもはや妄想に等しくなってしまった、という。
そんな話まで聞かされてようやく解放されたセツナは、テントの真っ白な天井をぼんやりと眺めていた。ファリアとの会話――というよりは事情聴取に等しいそれは、セツナに精神的な疲労を強いたのだ。身じろぎひとつする気力もなかった。
しかし、想像を絶するほどの筋肉痛に悩まされているセツナにとっては、小指ひとつ動かすこと自体が苦痛なのだ。動きたくもない。
(ありがとう……か)
セツナが胸中で反芻したその言葉は、ファリアの口から紡がれた言葉であり、そのどこかこそばゆい音の響きは、彼女が去ったいまも彼の耳朶をくすぐり続けていた。
「ありがとう」
「へ?」
唐突としか言いようのないファリアの感謝の言葉に、セツナは、奇妙な表情にならざるを得なかった。当然だろう。セツナが彼女のためになにかをしたことはないのだ。感謝をされる謂れはない。
それは、ファリアによるセツナへの事情聴取とも尋問とも取れる、質問の嵐が止んでからのことだ。
セツナは、もの凄まじいまでの疑問や質問の嵐によって、心身ともにずたずたに切り裂かれたかのような心境であり、疲労困憊といった有様だったのだ。
そんな状況で、突然、感謝されたとしても、生返事を浮かべるしかなかった。
「あなたのおかげでエリナが笑顔を取り戻したって、イサリナさん――エリナの母親よ――から聞かされたのよ」
そう続けるファリアは、微笑を浮かべていた。恐るべき質問の嵐を巻き起こした張本人とは、とても同一人物には見えないほどの微笑みだった。
一瞬、見とれてしまいそうになるのをなんとか振り払って、セツナは、疑問を口にした。
「俺のおかげ?」
「エリナがそう言っているわ」
ファリナが、優しげなまなざしをベッドの縁に腰掛ける少女に向ける。
「うん! お兄ちゃんのおかげなの!」
エリナの屈託のない笑顔は、セツナには眩しすぎた。真夏の太陽ほどの激しさはないにせよ、日の光に似た輝きを発していた。見つめていることもかなわない。
「俺は、なにも……」
セツナは、エリナの笑顔から目を逸らすと、視線をベッドの上に這わせた。真っ白なシーツには汚れひとつ見当たらない。テントの中は、ファリアの言った通り病室そのものだった。
「いいえ!」
力強い声音に驚いて、セツナは、ファリアに目を向けるしかなかった。彼女の顔から笑みは消えており、真摯なまなざしがセツナを見据えていた。
息を呑むほどに真剣な彼女の表情は、束の間、セツナから痛みを忘れさせた。
「セツナ、あなたは大変なことをしたのよ? カランを焼き、多くの人命を奪った武装召喚師を打倒する――そんなこと、どこのだれができるというの? わたしは間に合わず、警備隊の連中なんて当てにはならない。騎士団の出動を待っているなんて、とても無理な状況だったわ」
ファリアが、まるで自嘲するように言った。声音に秘められた激情は、彼女の嘆きであるのかもしれない。
「あなたは、それをたったひとりで為したのよ。身を焼かれ、命を落としそうになりながら、それでも、あなたはランス=ビレインを打ち倒した。これは賞賛されるべきことよ。あなたが彼を打倒しなければ、今頃、マルダールかクレブール、あるいは王都ガンディオンが、この街の二の舞になっていたわ。それは間違いない」
確かに、彼女の考え通りなのかもしれない。あのとき、セツナがあの男――ランス=ビレインを昏倒させなければ、彼は、カランが灰になる前に姿を消していただろう。逃げ果せたランス=ビレインが、別の街に火を放つのは想像に難くない。
彼が狂人であろうとなかろうと、そうするだろう。
世界の果てまで焼き尽くすには、小さな街ひとつでは足りないはずだ。もっとも、ランス=ビレインにとっては満ち足りないはずの小さな街は、彼の業火に飲まれ、灰燼と帰してしまったが。
「……でも、燃えちまったぜ? なにもかもな」
セツナは、脳裏に描き出された光景に、絶望すら抱いていた。紅蓮と燃える町並み。その炎をすべて消し去ったとしても、残るのは廃墟に過ぎない。なにもかも燃え尽き、多くのものが失われた。
取り返しがつかない。
無論、セツナのせいではない。そんなことはわかっている。しかし、どうにかならなかったのか、と思ってしまうのが人間なのだ。もっと早く、迅速に行動していれば、いや、アズマリアによる召喚がもっと早く行われていれば――。
「そうね。カランは全焼、死者の数は五百人以上だといわれているわ」
(ほらな。俺は、なにひとつできなかったんだ……)
セツナは、愕然と、天井を見遣った。死者の数という現実を突きつけられて、無力感に打ちのめされそうになる。もちろん、その原因にセツナは関係ないのだろう。なにひとつ、セツナのせいではない。
頭では理解しているのだ。
セツナが到着したときには、カランは、もはや手の施しようがないくらいに炎上していた。なにをしたところで、焼け石に水にすらならなかったに違いない。
それも、わかっていた。
セツナは、唇を噛んだ。血の味が口の中を満たしていく。
「でも、セツナは、ひとりの少女の笑顔を取り戻したわ」
「気休めは止してくれ」
セツナは、天井を見据えたまま告げた。天幕はしっかりと固定されているものの、時折、強い風に揺れてしまうのは仕方がないだろう。白い布の天井が風に波立つ様は、セツナの心模様を映し出しているかのようだった。
怒り、悲しみ、嘆き――いくつもの感情が渦を巻き、セツナの心を掻き乱していた。目つきも険しくなっていく。
「じゃあ聞くけど、あなたは、なんのためにカランに飛び込んだりしたの?」
「それは……」
問われて、セツナは、あのときのことを思い出した。森を抜けた直後のことだ。街道での出逢いは、終生、忘れ得ないものなのかもしれない。
「許せなかったんだ。あの子を泣かせるような――」
そう、セツナを突き動かしたのは、少女の涙だった。それ以外の理由など要らなかった。後付ならいくらでもできるだろうが、そんなものは必要ない。街道で出逢った女の子が泣いていたのだ。
命を張る理由など、それだけでよかった。
そこで、はたと気づく。
「――もしかして、エリナがあのときの?」
セツナは、半ば呆然としながら、少女に目を向けていた。透き通った青を湛えた少女の瞳が、驚愕に染まった。
「ええーっ!? お兄ちゃん、気づいてなかったの!?」
「いや、本当、ごめんなさい」
平身低頭とは正にこのことだったが、しかし、体を自由に動かせないセツナは、言葉で謝ることしかできなかった。ただ、全身全霊で謝罪する。
エリナの瞳に、顔に見覚えはあったのだ。だがなぜか、母親の腕の中で泣きじゃくっていた少女と、いま、ベッドの上で驚いたまま硬直している少女が結びつかなかったのだ。顔の形が変わっているわけでもない。無論、身に付けている衣服は替わっていたし、身なりも整えられている。しかし、それだけが原因ではないだろう。
(脳の配線でもおかしいんじゃないか? 俺……)
セツナは、未だに凍り付いている少女の瞳を見つめながら、己の記憶力について考えるしかなかった。悪いほうではない。そう断言できるだけの自信はあった。とはいえ、その根拠もなければどこから生まれたのかわからない自信は、いまや急速に失われつつあった。
ふと、セツナは、ファリアの視線に気づいた。
「ふふ。もう一度言うわね」
彼女は、穏やかに笑っていた。
「エリナを救ってくれて、本当にありがとう」