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第千三百九十話 愛をこの手に(十)

 夢を見ていた。

 夢の中で、彼女は、笑っていた。

 いや、泣いていたのかもしれない。

 微妙な夢。

 奇妙な夢。

 楽しくて、嬉しくて、けれどもなぜか悲しくて、寂しい夢。

 夢。

 瞼を開いたときには忘れてしまう、そんな夢。

(夢……)

 リノンクレアは、ぼんやりとした思考の中で目を覚ました。胸に残る小さな痛みが、夢の残滓を認識させる。きっと辛い夢だったのだろう。どのような夢だったのか、朧気にも思い出せないが、きっと、辛い夢だったのだ。でなければ、このような苦い痛みが残っているわけもない。思い出したいが、思い出せない。夢とはそれほどまでに曖昧で、あっという間に消えてしまうものだ。

 記憶の奥底に沈んでしまったものを掬い上げることなどできない。

 少なくともいまは。

 視界に入り込んでくるのは、薄明かりに曝された室内であり、石の天井だ。飾り気のない天井に吊るされた魔晶灯に光は灯っていない。見覚えのない天井の様子に疑問を抱きながら、上体を起こすと、寝台の硬さにも違和感を覚える。自分の部屋とはなにもかもが様子が違う。そこで、そもそもこの二ヶ月近く、自分の部屋で寝ていたわけではなかったことを思い出した。北へ行くときも、南に戻るときも、野営することが少なくなかった。硬くとも寝台があるだけましというものだ。

 そんなことをぼんやりと考える。

 思考が正常に働かない。なにもかも判然としない。頭の中に霞がかかったような、そんな感覚。寝起きだからだろう。ひとり納得するのだが、どうも腑に落ちないところがある。違和感。奇妙だ。なにもかも、おかしい。単純に頭がまわらないからそう感じるだけなのだろうか。

「お目覚めになられましたか」

 聞き知った声が聞こえてきて、リノンクレアは、ゆっくりとそちらに視線を向けた。寝台から遠く離れた場所に道化師めいた人物が立っている。目元の火傷を隠すための仮面が、そう思わせるのだろう。名は確か。

「……あなたは、ハルレイン?」

 ハルレイン=ウォースーン。白天戦団長バルベリド=ウォースーンの養子である彼は、子宝に恵まれなかったバルベリド夫妻に溺愛されていた。優しく、気遣いの行き届いた少年であり、リノンクレアも気に入ってはいた。ハルベルクが彼を寵愛するのが納得できるくらいには。

 しかし、解せないこともある。

「どうして、あなたがわたしの部屋に?」

 問うと、彼は少しぎょっとしたような反応を示した。どういうわけかわからない。そして、彼はその場で口を開く。

「……王命なれば」

「王命……陛下が命じられたのですね?」

「はい」

「そうでしたか。そうであれば、仕方ありませんね」

 仕方がない、というのは、王妃の寝室に国王以外の人間が入ってくることそのものだ。通常、あってはならないことだろう。侍女ですら、理由もなく立ち入ることを禁じている。王妃とは国王の妻であり、国王のものなのだ。国王以外の人間に無防備な姿を晒すようなことがあってはならない。よって、寝室に立ち入ることを禁じているのだが、王命となれば、仕方があるまい。

「はい」

「……陛下?」

 ふと、思い出す。

 陛下。

 ハルベルク・レイ=ルシオン。

 ルシオン国王にして、彼女の最愛の夫。最愛のひと。この世でもっとも大切な人物。そして、もっと大事なことが彼女の脳裏を過ぎった。思考が鮮明になっていく。なぜ自分が寝室でもない石造りの部屋で寝ていたのか、理解する。ここはバルサー要塞で、バルサー要塞にいるのは、彼に逢うためだった。

 逢って、説得するためだった。

 暴挙を止めるためだった。

「そうでした。わたしは、陛下と話さなければならないのです。陛下を止めなくては」

 リノンクレアは、思い立つと同時に寝台から降りていた。そして、衣服を着替えるべく室内を見回す。すると、ハルレインがおずおずと口を開いた。

「殿下……」

「ハルレイン? どうしたのです?」

 見ると、彼は強張った表情でこちらを見ていた。仮面の奥の目がなにかを物語っている。まるで、リノンクレアの心情を思いやるようなまなざし。優しい視線。

「ハルレイン?」

「陛下は……もう」

「もう? もう、なんなのです? まさか……」

 思い至ったことに愕然とする。

「そんなこと……そんな」

 ハルベルクがすでにレオンガンドと戦いを始めたとでもいうのか。

 ルシオンとガンディアの間で戦争が起こったというのか。

「あってはならないわ。あってはならないことよ。陛下が兄上と戦うなど、おかしいことよ。そうでしょう? 戦う理由がないもの。なにひとつ、ない」

 少なくとも、リノンクレアには、そう想えた。

 なにもかも上手くいっていたのだ。

 物心ついたときから、今日に至るまで、ずっと。

 すべてが上手く廻っていたはずだ。

 ガンディアとルシオンの関係も、リノンクレアとハルベルクの関係も、ハルベルクとレオンガンドの関係すら、上手くいっていたはずだ。

 ガンディアとルシオンの紐帯は強く、深い絆で結ばれているといってよかった。ガンディアにとってルシオンはなくてはならない国だったし、ルシオンにとってもガンディアの大国化はありがたいことだった。ルシオンが今後国土を拡大するにしても、現状維持のまま行くのだとしても、ガンディアが後ろ盾になってくれることほど心強いものはない。ガンディアのために何度となく援軍を派遣した意味があるというものだろう。ガンディアの拡大路線は、ルシオンにとっても良いことだったのだ。そういう意味でルシオンがガンディアに敵対する理由はなかった。レオンガンドと戦う意味もない。むしろ、戦うということは同盟の解消を意味しており、ガンディアの庇護を失うということでもある。

 百害あって一利なしなのだ。

 ルシオン国王であるハルベルクがその事実を理解していないわけがない。

 それなのに、なぜ、彼はレオンガンドと戦うことに固執するのか。

 呆然とする。

 ハルベルクの言葉が脳裏に復活したからだ。

『君の愛を真に得るためには、あのひとを超えなくてはならない。それがわたしの至上命題なのだ――』

 リノンクレアは、ハルレインを室外に追いやると、すぐさま着替え、部屋を出た。ハルレインの制止を振り切り、要塞内を駆け巡る。そうするうち、白聖騎士隊の騎士たちがつぎつぎと合流し、リノンクレアの戦力となった。彼女たちが出撃しなかったのは、リノンクレアの身辺警護を命じられたからだということだった。ハルベルクは、どこまでもリノンクレアのことを大切にしている。その事実が胸を締め付ける。

 大切に想っているのは、自分も同じだ。

 いやむしろ、自分のほうが彼以上に想っているという自負があった。だれよりも彼を愛している。だからこそ、リノンクレアは彼を止めなければならなかった。

 戦いは既に始まっている。

 なんの意味もない、理に適わぬ戦い。

 止めなくては――。

 


 ハルベルクの目は、レオンガンドを捉えていた。

 レオンガンド・レイ=ガンディア。

 ガンディアの若き国王は、この数年で以前とは見違えるほどに成長していた。それこそ、ハルベルクが畏怖を感じるほどの変化が起きていた。片目を失ったことにより、美しいだけの容貌に厳しさが刻まれ、隻眼の獅子王という呼び名も様になった。

 容姿だけではない。

 内からあふれる自信が圧力となって外部に放たれ、ハルベルクなどは、レオンガンドの姿をまともに見ることができないこともあった。それほどまでの威厳を手に入れたのだ。度重なる戦争と政争が彼をして獅子王に相応しい人物へと成長させたに違いない。

(わたしはどうだ? レオンガンド)

 一歩、また一歩と近づきながら、胸中で問いかける。

 銀獅子の甲冑が黎明の空の下、輝いて見えた。頭上、空が覗いている。

(レオンガンド・レイ=ガンディア)

 物心ついたときには、憧れの対象となっていた。

 憧れ。

 そう、憧れなのだ。

 子供の頃から、ハルベルクにとってレオンガンドとは憧れの対象であり、それがいつしか越えるべき対象となるのになんの疑問も抱かなかった。彼を超えなくては、彼を愛する彼女を手に入れることなど夢のまた夢でしかない。

 夢。

 夢を叶えるために、ひとは生きている。

(わたしは、あなたに一歩でも近づけたか?)

 大地を蹴り、レオンガンドに迫る。

 召喚武装を通して、周囲の状況を把握する。敵が数多、動いている。ハルベルクの接近を阻止するためだろうが、もはや遅い。遅すぎる。ハルベルクは、すでにレオンガンドを間合いに捉えていた。レオンガンドは、動かない。まるで観念したとでもいうように、剣を携えたまま、身じろぎひとつせず、こちらを見ていた。隻眼。深い青の瞳がハルベルクを見ている。茫洋とした視線。ハルベルクがここまで近づいてきたことが信じられないのだろう。愕然とするのも当然だ。ハルベルク自身、驚いてさえいる。ここまで上手くいくとは思ってもいなかった。

(近づいたよな?)

 ここまで完璧に近くレオンガンドに接近できるとは、想像さえしていなかった。

 いや、そのために多大な犠牲を払ったのだ。

 近づけて当然だ。

 なにもかも売り払い、すべてを失って、ようやくここまで来られたのだ。

(そしていま、あなたを越える)

 ハルベルクは、レオンガンドに向かって、剣を握る手を伸ばしていた。肩を狙った鋭い突き。レオンガンドは、剣を受け止めようともしなかった。それどころか、避ける素振りさえ見せない。切っ先がレオンガンドの肩当てを突き破り、肩を貫いた。レオンガンドの上体が乱暴に揺れる。

(やった――!)

 ハルベルクが勝利を確信したときだった。

 レオンガンドの体が、音もなく崩れ去った。


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