第百三十八話 強襲
「いやあ、さすがはガンディアの黒き矛! 噂に違わぬ実力! いよっ、色男!」
ドルカが囃し立ててきたのは、セツナたちが国境防衛拠点をあとにし、混合部隊の先頭集団に追いついてからだった。軽い声は、いつも以上に馴れ馴れしく感じるのだが、セツナの耳には妙に心地の良い響きだった。セツナはドルカが嫌いではないのだ。
「静かにできんのか」
「あ、すみません」
グラードが窘めると、ドルカは素直に謝った。
国境を突破した一団は、ナグラシア近郊の丘の上で行軍を一時停止していた。
夜明け前、だろうか。
既に日は変わっているようだが、相変わらずの雷雲が頭上を覆い、深い闇がザルワーンの大地を包み込んでいる。雨脚は途切れることなく降り続き、早いところ屋根のあるところで休みたいというのがセツナの本音だった。しかし、そのためには眼下の街を落とさなければならない。
ナグラシア。情報通り、四方を城壁に覆われた街だ。都市というほどの規模ではないにせよ、千五百のザルワーン兵が駐屯できる程度の広さも設備もあるのだろう。それにログナー国境に近い街でもある。防備を怠るわけもない。国境防衛拠点のように簡単に制圧できるとは思えない。
「しかし、さすがの手際ですな。こちら側が一兵も損ずることなく国境を突破できたのは、《獅子の尾》の活躍があったればこそですな」
「あれくらいなら容易いことですよ。敵に武装召喚師もいなかったし」
セツナはグラードの言葉を否定はしなかった。実際、自分たちがいなければ、国境防衛部隊との戦闘で多少の損害は出ていただろう。《獅子の尾》の実力が遺憾なく発揮されたのだ。それ自体は喜ぶべきことだし、悪いことではない。
セツナはそれよりも、カオスブリンガー送還後の反動の少なさに安堵していた。黒き矛召喚による感覚肥大や運動能力の増大は、セツナの心身に多大な負担を強いるものなのだ。召喚中はいい。肉体も酷使されることを喜ぶかのようであり、疲労も感じないのだ。だが、一度矛を収めると、強烈な反動となって跳ね返ってくることが多かった。そのせいで戦後まともに動けないことが多く、セツナ自身の懸念材料となっていたのだが、今回は以前ほどの反動はなかった。これは王都での日々の鍛錬のおかげだといってもいいだろう。ルクスを師と仰ぎ、日夜繰り返してきた苛烈な鍛錬が、カオスブリンガーの負担にある程度は耐えられる肉体を作っていったのだ。
もっとも、先の戦闘は小競り合いのようなもので、全力を発揮したわけではない。油断はできないし、これで強くなったと錯覚できるほど、セツナも落ちてはいない。
「ま、隊長に任せておけばちょちょいのちょいってね」
ルウファが軽口を叩くが、ファリアが流すようにグラードに報告する。
「連絡用の鳩はほぼ撃ち落せたと思いますが、見逃している可能性もあります」
「いや、十分です。どうしたところで情報は漏れるもの。それに、あの拠点からもっとも近いのがナグラシアです。門を閉ざされ、迎撃の準備に入ったところで、元より望むところでもありますな。そしてナグラシアから情報が拡散しところで、援軍が来るまでには数日を要するでしょう」
「それまでにナグラシアを落とせば、我々の任務は大成功―! ファリアちゃんの口づけもいただきですよ」
親指を立て、あまつさえ片目を閉じてくる色男に、ファリアが悲鳴を上げた。
「はぁ!?」
「あれ、駄目なの?」
「駄目に決まっているでしょう!」
きょとんとするドルカにファリアが猛然と抗議した。
「そうですよ、駄目です」
セツナがファリアを援護したのは、彼女の強い視線に気づいたからだが。
ドルカは、至極残念そうに肩を落としたが、その隣のニナは少しほっとしたような表情を浮かべたのをセツナは見逃さなかった。もっとも、こちらの視線に気づいた彼女は、いつもの鉄面皮に戻ってしまったが。
「ふむむ……部下の身も心も隊長のものですものね……仕方がない」
「そういうことではなくて」
ファリアの泣きそうな声に、ドルカが満足気な顔になった。ファリアを気に入っているのは間違いないが、好意の表現方法が他人とは異なるのだろう。セツナはドルカの表情にそんな感想を抱いた。
「ファリアちゃんってば、すぐに本気にしちゃうから可愛いよねえ」
「あのですね……」
きっと脱力しているのであろうファリアを慰めてあげたかったが、いまは馬上である。しかもルウファの操る馬の背に同乗させてもらっているのだ。好きなようには動けなかった。ルウファがぽつりとつぶやいてくる。
「なんていうか、俺、ああいう風に余裕のある男になりたいですね」
「え……?」
「隊長もそう思いませんか?」
「いや、俺は遠慮しておくよ」
そうはいったものの、ドルカ自体は決して嫌いではない。それどころか、場の空気を軽くしてくれる彼の存在は、この部隊行動において大いに役に立っていた。被害に遭いがちなファリアのことは可哀想ではあったが、ドルカに悪意がない以上、取り立てて糾弾するようなことでもない。あとで機嫌を取ろう。セツナは戦場にありながらそんなことを考えられる自分がおかしかったが、笑いはしなかった。
空気は、緊迫しつつある。
「それにしても、一日足らずでナグラシアを目前にするとはねー」
「強行軍だったからな。馬は少し休ませたいところだが」
「ナグラシアさえ落とせば休み放題ですぜ」
「ザルワーンの動向に注意しながら後詰の受け入れを準備するのだ。気楽ではないよ」
「わかっていますとも」
ドルカたちは、丘の向こうに目を向けていた。
眼下、魔晶灯の光がきらめく街が広がっている。
雷鳴に叩き起こされるのは何度目だろう。
そんなことを思いながらゴードン=フェネックは瞼を開けた。目の前には闇があり、意識の裏からは眠気の魔の手が伸びてきている。振り払う気にもなれないし、そんな必要もない。時間がくれば部下が起こしにきてくれるだろう。それくらい緩い組織だ。緩すぎて、会議中にあくびをしていてもだれも怒らないくらいだ。のんびりしている彼にはちょうどいい環境ではあったが、たまに物足りなく感じることもある。
中央にいたころは、そんなことはなかったのだ。寝ぼけ眼はこじ開けられ、寝癖は注意された。あくびなど言語道断だったし、ちょっとした失敗が査定に響いた。それが中央で働くということなのだと思いながら日夜懸命に働き、彼の評価はそこそこ良かったようだ。そのまま頑張れば、龍府の高官も夢ではなかった。
国主ミレルバス=ライバーンは実力主義者であり、才能をこよなく愛する人物との評判があった。実際、卑賤の身から立身したものもいたし、流浪の身から軍師にまで上り詰めた人物の話は有名だった。もっとも、軍師に関しては前歴からして高名であり、立身出世とは別の話かもしれないが。
ともかく、没落した家を背負っていたゴードンにとっては、ミレルバスの治世ほど良いものはなかった。彼の元ならば、実力次第でどこまでも登れるのだ。
と、夢を見ていたら、いつの間にか地方に飛ばされていた。
龍府からナグラシアへの転勤だけならばただの左遷だと納得したのだが、彼に与えられた役職は第三龍鱗軍翼将――つまりナグラシア駐屯部隊の指揮官であり、文官出身の彼にはあり得ないものだった。
栄転、などではあるまい。確かに地位は向上したものの、彼が目指したのは龍府に務める官僚であり、地方防衛の大将などではなかった。身に余るのだ。不安しかないし、自分には無理だと何度も思った。しかし、親類縁者は喜んでおり、彼もそれならいいか、と思い直したりもした。
彼をナグラシアの守将に任じたのは、当然、国主ミレルバスだが、献策したのはナーレス=ラグナホルンだった。件の流浪の身から軍師となった人物で、ミレルバスの片腕と呼ばれるほどの男だ。その彼がいうのだ。
「あなたを推薦したのは、あなたの篤実な性格、実務能力が、気性の荒いナグラシアの部隊を纏める上で大いに役立つと見込んだからです」
軍師の冷徹な声音は、疑問さえ許さなかった。
ゴードンも軍人である。命令された以上は従うよりほかはなかったし、文官の道を閉ざされたわけでもない。ナグラシア駐屯軍で務めあげれば、ミレルバスの目に止まり、ふたたび中央に返り咲くことも夢ではない。
(夢だよ……)
自分の愚かな考えを胸中で否定して、彼は布団に潜ろうとした。夏だというのに、昨夜から妙に冷え込んでいる。雷雨のせいだとしても、異常な感じがあった。
(悪いことがなければいい……)
つまらないことで中央の印象を悪くしたくはない。たとえ返り咲けないにしても、これ以上の配置転換は御免被りたかった。
いまでも、そこそこ幸せなのだ。薔薇色の人生とは言い難いものの、気立てのいい妻との家庭は円満だったし、給与には不満もない。高級官僚にでもならなければ貰えないほどの額だ。中央に夢さえ見なければ、悪くはない人生とも思える。
気性の荒いといわれていた連中も、腹を割ってじっくり話し合えば、気のいい連中だと判明した。そこに至るまでが辛かったものの、いまとなってはいい思い出になっている。
彼らと日がな一日、ナグラシアの防衛について益体もない会議するのも、街のひとたちと交流するのも、ゴードンには至福のときだった。
だから、なにも起こらなくていいのだ。変化はいらない。なにも変わらず、このまま穏やかにときが流れていけばいい。
横を見ると、妻のシーナが安らかな寝顔をこちらに向けていた。決して美人とは言い難いが、笑顔が堪らなく魅力的な、ゴードン自慢の妻だった。
そのとき、雷鳴に混じってどたどたという物音が聞こえた気がしたが、ゴードンは聞こえない振りをして瞼を下ろした。もう一度寝ようと思った。
しかし、ドアを叩く音は穏やかではなかった。まるで雷鳴のように激しく、一方的だ。
「翼将殿! 敵襲です!」
その言葉の意味を理解したとき、ゴードンは跳ね起きてベッドから転げ落ち、雷鳴に負けないほどの物音を立てた。