第千三百八十二話 愛をこの手に(二)
バルサー要塞は、ガンディア方面の最北に位置している。
ログナー方面と呼ばれる地域との境界といってよく、南側はバルサー平原と名付けられた平原が広がっており、北側には森林地帯が横たわっている。鬱蒼とした森林地帯は広大であり、ガンディア人にとってログナーが緑の国という印象があるのは、そのせいもあった。ガンディアからログナーに入れば、まず目につくのが南部の森林地帯だからだ。実際には、ログナーは緑の国でもなんでもない。他国同様、様々な側面を持つ国に過ぎないのだ。
ガンディア解放軍は、バルサー要塞に軍使を派遣しながらも、攻略のための準備を怠らなかった。リノンクレア・レア=ルシオン率いる白聖騎士隊を軍使としてバルサー要塞に届けると、護衛として途中まで同行したザルワーン方面軍二千は、バルサー方面北部に待機、交渉の結果次第で即時攻撃に移れるよう布陣した。
本隊はザルワーン方面軍のさらに北側、森林地帯深部に展開しており、森林地帯東部にログナー方面軍、森林地帯西部にメレド軍、傭兵局などの混成部隊が配置された。全軍を一箇所に纏めなかったのは、バルサー要塞のルシオン軍が打って出てくる可能性が捨てきれなかったからだ。
バルサー要塞は難攻不落の要塞だ。幾重もの堅牢な城壁に守られた要塞を攻略するのは、生半可な戦力では困難を極めるに違いない。しかし、ガンディア解放軍の戦力は圧倒的であり、バルサー要塞を突破することそのものは大した問題ではなかった。そのことは、ルシオン軍も理解しているはずであり、籠城戦が無意味だということも把握しているはずだった。援軍が期待できないからではない。むしろ、後方――ガンディア本土からの援軍は大いに期待できるのが、ルシオン軍の現状であるはずだ。問題はそこではなく、バルサー要塞の鉄壁の防御力も、ガンディア解放軍の圧倒的攻撃力の前では意味を成さないということなのだ。援軍を期待して籠城したところで、援軍が辿り着く前に要塞を攻略されてしまえば意味がない。
ルシオン軍は、これまで何度となくガンディア軍とともに戦場に赴き、戦い抜いてきた。ガンディア軍の戦力がいかなるものか、知らないわけがないのだ。マルディア救援軍としての戦闘の数々も、情報として入手しているだろう。ガンディア軍がこれまで以上に破壊力を持った戦闘集団となっていることはわかりすぎるくらいにわかっているはずだ。
となれば、バルサー要塞を頼ることなどできはしない、ということも理解しているはずであり、打って出てくる可能性は低くなかった。打って出たところで、圧倒的な戦力差があるものの、戦術次第では戦力差を覆すことは必ずしも不可能ではない。
『不可能ですけどね』
エイン=ラジャールが冷ややかに付け足した言葉をレオンガンドは忘れはしないだろう。
解放軍の部隊配置は、エインとアレグリアの描き出した戦術通りのものだ。ルシオン軍が打って出てきた場合、即座に全軍を動かし、包囲し、覆滅する。数倍の兵力差。どれだけ強力な武装召喚師がいたとしても、簡単には覆し得ない。もし、凶悪な召喚武装の使い手がいたとしても、武装召喚師を当てればいい。そして、通常戦力は通常戦力で当たるのだ。通常戦力を相手にするのであれば、数が力となる。
兵力差は膨大。
負ける要素は微塵もなかった。
銀獅子の鎧兜を見につけたレオンガンドは、前線の様子を伺いながら、リノンクレアの説得が失敗に終わるのを待った。
成功することなどありえないだろう。
ハルベルクは、そういう男だ。
昔からそうだった。
一度決めたことを最後までやり遂げるのが彼であり、だからこそ、レオンガンドは、リノンクレアを彼に託すことができたのだ。彼ならば、必ずやリノンクレアを幸せにしてくれるだろう。彼女との愛をまっとうしてくれるだろう。良き夫として、良き理解者として、ともに人生を歩み続けてくれるだろう。
そう、信じた。
そして、それは間違いではなかった。
ただ一点を除いて。
(ハルベルク……)
レオンガンドは、拳を握り締めながら、義理の弟のことを想った。
彼がなぜ、どうして自分と敵対する道を選んだのかなど、考えはしなかった。ジゼルコートの謀反に同調したのだ。敵に回ったのだ。ならば、もはや倒すしかない。倒し、滅ぼし、消し去らなければならない。でなければ、レオンガンド・レイ=ガンディアの名は地に落ちるだろう。
敵は、滅ぼさなければならない。
そうやってここまできたのだ。
これからもそうするだろう。
やがて状況が動いたのは、リノンクレアたちがバルサー要塞に入って一日が経過してからのことだった。
四月二十七日、午前。
朝靄が森林地帯を包み込み、粘り気を帯びた空気が呼吸さえ困難にさせる中、バルサー要塞の北門が開いたのだ。北門が開いたかと思うと、ルシオン軍が雪崩を打って飛び出し、バルサー要塞北側に展開していたザルワーン方面軍を攻撃した。猛攻といっていい。武装召喚師や弓兵による遠距離攻撃を皮切りに、騎兵隊や歩兵隊による突撃が叩きこまれたのだ。凄まじいまでの攻勢にザルワーン方面軍は一時にして壊乱、陣形を乱しながら後退した。
ザルワーン方面軍が後退し始めたころには、解放軍本隊、ログナー方面軍、メレド混成軍がそれぞれに動き出した。ルシオン軍からの突然の攻撃行動に驚きながらも瞬時に対応しようとしたのだが、動き出せたときにはザルワーン方面軍は壊乱状態になっていたということだ。
「さすがはルシオンだな」
レオンガンドは、前線からの報告に敵を褒め称えるしかなかった。ガンディア、ログナー、ザルワーンといった国々よりも、兵士ひとりひとりの質が優れているのがルシオンだった。尚武の国ルシオンは、末端の兵に至るまで強くなければならなかった。弱兵は不要という考えがあり、強兵でなければ兵ではないという強い意志がルシオン軍を支配しているのだ。故に、ルシオンに弱兵はおらず、だれもが優れた戦士なのだ。ザルワーン方面軍があっさり敗れたのは当然というべきかもしれない。
もっとも、ザルワーン方面軍が敗れ、北へと逃れたのは、戦術通りであり、ザルワーン方面軍が情けないわけではなかった。予定ではもう少し持ち堪えてから後退するはずだったのだが、持ち堪えられなかったのであれば仕方がないし、敵がルシオン軍であれば持ち堪えられないのも致し方のないことだ。
ザルワーン方面軍は、いわば餌なのだ。バルサー要塞から打って出てきたルシオン軍を森林地帯中央部まで引き入れるための餌。ルシオン軍は精強であり、強兵であるということを末端の兵のひとりひとりに至るまで自負し、誇っている。そんな強者なればこそ、逃げ惑う弱者を許せず、猛追するだろうというエインたちの考えから練り上げられたのが、今回の戦術だった。
北へ逃れたザルワーン方面軍を追い、ルシオン軍が森林地帯中央部に至れば、北、東、西の三方をガンディア解放軍に囲われているという寸法であり、そのまま包囲覆滅することで戦いを終わらせるというのがエインたちの戦術だった。
そして、現状、エインたちの思惑通りに状況は推移していた。
バルサー要塞から打って出たルシオン軍は、ザルワーン方面軍を壊乱させると、後退する軍勢を猛追した。ときには追いつき、殿に食らいついて戦果を挙げる。餌を求める獰猛な獣のように、彼らは敵を求めて戦野を駆けた。駆けて駆けて駆け抜けて、やがて、足を止めた。ようやく気づいたのだ。自分たちが追いかけていたのは餌ではなく、罠だったということに。
北に解放軍本隊、東にログナー方面軍、西にメレド混成軍が展開し、森林地帯に乱立する草木とともにルシオン軍を包囲した。南側の一点が空いており、完全な包囲とはなっていないが、それもまた、エインの戦術だった。
『逃げ道を一箇所、用意しておくべきですね』
そうすることで、包囲された側の心理に圧力をかけるのだ。逃げ道がなければ死を覚悟するものだが、逃げ道があれば、そこから逃れたいという意識が生まれる。生き残れる可能性を与えることこそ、逃げ道を奪うよりも有効な手段なのだという。
「敵はおよそ三千」
「三千? おかしいですね。バルサー要塞のルシオン軍は、六千はいるはずですが」
「残り三千が別働隊として動いているのではないか?」
「……別働隊」
エインが難しい顔をする。別働隊
「報告!」
悲鳴染みた大声が本陣に響く。
本陣に急速接近した伝令兵が馬から飛び降りると、平伏しながら報告してくる。
「後方からルシオン軍が接近中!」
「なんだと……?」
「後方に? どういうこと?」
「わかりません! 突然、出現した模様!」
「突然? 隠れていたとでもいうのか?」
ありえないことだった。
後方とはつまり、解放軍本隊がつい今し方通過してきた場所だ。森林地帯。兵が隠れるには打って付けにしても、こちらの兵数は膨大だ。それら何千もの兵が警戒を怠ったとしても、だれかは発見するだろう。いや、そもそも、何千もの兵が隠れられるはずもない。
召喚武装の能力を用いれば不可能ではないかもしれないが、だとしても、いつの間に隠れたというのか。
「西と東にもルシオンの軍旗が出現しました!」
「出現……」
「まさか空間転移?」
アレグリアの茫然とした一言こそが、ルシオン軍のこの不可解な襲撃の答えのように想えて、レオンガンドはエインと顔を見合わせた。