第千三百八十一話 愛をこの手に(一)
リノンクレアが軍使としてルシオン軍が占拠しているバルサー要塞に赴いたちょうどそのころ、レオンガンドは、バルサー要塞の北側に展開する軍勢の中にいた。
ガンディア解放軍は、マルスールにザルワーン方面軍に配置し、マルスールの防衛戦力とするとともに北への牽制とした。同時にリノンクレア率いる白聖騎士隊を軍使としてバルサー要塞に向かわせ、その護衛としてログナー方面軍二千をつけた。ガンディア方面軍ではなくログナー方面軍なのは、ルシオン軍を出来る限り刺激しないためだが、それほど意味のあるものでもあるまい。レオンガンドの軍勢であることに違いはないのだ。しかしながら、白聖騎士隊とリノンクレアが前面に出ていれば、ルシオン軍とて攻撃的にはならないだろうという安心感もあった。
そして、ガンディア解放軍本隊もまた、マルスールを発し、南下。バルサー要塞北部に戦力を展開し、部隊配置を整えた。
軍議では、いかにしてバルサー要塞を攻略するかが問題となった。バルサー要塞は堅牢な要塞だ。長年に渡ってログナーからの攻撃を防ぎ続けた絶対の防壁。通常戦力ならば、攻略するのは困難を極めるだろう。しかし、戦力が充実したいまのガンディア軍であれば、バルサー要塞にも手こずることはないといいきったのは、参謀局の面々だ。ガンディア解放軍の戦力を持ってすれば、バルサー要塞を抜くこと、それ自体は問題ではないという。城門を破壊するのであればウルクを使えばよく、要塞そのものを破壊するのであれば、ミリュウに頼ればいい。
懸念があるとすれば、ルシオン軍の戦力であり、それ次第で攻略の難易度は大きく変わるかもしれない。
ルシオンも、武装召喚師の獲得に全力を上げていた。独自に武装召喚術の研究施設を作っており、支配下の武装召喚師たちに日々、研究を積み重ねさせているという評判だった。武装召喚師には武装召喚師を当てるしかなく、武装召喚師以外の戦力には、武装召喚師以外の戦力をあてざるを得ない。武装召喚師の実力次第では、武装召喚師頼りの戦い方ができなくなるということだ。
そして、ウルの異能により、ルシオン軍の陣容がほとんど明らかになっていた。それにより、ルシオン軍が随伴した武装召喚師は六名ということがわかったのだが、それら武装召喚師の召喚武装については不明だった。
解放軍が有する武装召喚師は、八名。そのうち六名がガンディアに属する武装召喚師であり、二名がメレドの武装召喚師だ。
八人中、六人を敵武装召喚師に割かなければならなくなる可能性が高いということだ。
もっとも、武装召喚師以外の戦力も充実しているのがガンディア解放軍だ。“剣鬼”ルクス=ヴェインの所属する《蒼き風》や、《紅き羽》といった傭兵たちも頼りになるし、“剣聖”トラン=カルギリウスも役に立つだろう。ガンディア方面軍も、いまやただの弱兵ではない。強兵たるルシオン軍に食らいつくくらいのことはできるだろう。
「説得に応じてくれるでしょうか?」
そう尋ねてきたのは、エイン=ラジャールだった。部隊配置と作戦の通達を終えた彼は、レオンガンドとともに本陣にいた。本陣にはほかに大将軍とふたりの親衛隊長、王宮特務の三人がいる。もっとも、アーリアの姿はだれにも見えないし、この場にいる事自体、不確かなのだが。
「ハルベルクのことだ」
レオンガンドは、遠く南を見遣りながら、口を開いた。鬱蒼と生い茂る森の彼方、バルサー要塞ははっきりとは見えない。肉眼で確認できるほどの距離ではなかったし、なにより、木々が視界を塞いでいる。
「応じはしないだろう」
確信がある。
彼は、己の考えをそう簡単に曲げるような人物ではなかった。
「単刀直入に申し上げます」
リノンクレアが、凛とした口調で告げてきたのは、ふたりきりになってすぐのことだった。彼女は、無事の再会を喜ぼうともしなかった。彼女はいま、レオンガンドの軍使として、この場にいる。ルシオン王妃にして白聖騎士隊長でありながら、レオンガンド軍の軍使を務めているのだ。なんとも複雑な立場だが、彼女をレオンガンドの元に差し出したのはほかならぬハルベルクであり、この皮肉めいた対面も想定の範囲内の出来事だった。
レオンガンドはともかく、彼女ならば、来るだろう。
「陛下、どうか矛をお納めください」
そして、予想通りの言葉。
ハルベルクは、彼女の目を見つめながら、聞く。彼女の肉声に耳を傾け、声音から感情を読み取ろうとする。そこまでしなくとも、その痛々しいまでに研ぎ澄まされた表情だけで、彼女の内心に渦巻く複雑な想いを感じ取ることはできた。彼は彼女の夫であり、長年、彼女の側で彼女を見つめ続けてきたのだ。考えていることなど、表情ひとつ、まなざしひとつでわかった。
苦しみも、悲しみも、怒りも、嘆きも、包み隠さず伝わってくる。
「いまならばまだ間に合います。ジゼルコート伯の甘言に乗ったのは間違いだった、過ちだったと認め、レオンガンド陛下に話されれば、それで解決できるはずです。ルシオンはガンディアの古くからの同盟国。その紐帯は強く、この程度のことで壊れるようなものではないはずです。矛を収め、もう一度、陛下とともに道を歩んでください」
「ジゼルコートの甘言に乗る? あなたはなにか、勘違いなされているのではないか」
「陛下?」
「わたしは、ジゼルコートの甘言に乗ったつもりなどはないよ。そもそも、ジゼルコートの謀叛になど興味はない。ジゼルコートはわたしにミオンの半分を譲ってもいいといっていたが……そんなものに興味はないのだ」
ジゼルコートの企みに乗ったのは、なにもかも己の夢を追うためだ。それ以外にはない。そのことがジゼルコートに不信を抱かせたようだが、知ったことではなかった。ジゼルコートがなにをどう思おうと、ハルベルクはハルベルク自身の夢のために戦うだけだった。
「わたしはね、リノンクレア。わたしの意志で、彼の謀叛に乗っただけなんだよ」
「陛下!」
「むしろ利用しているといってもいい。わたしは、わたしの目的を果たすために、ジゼルコートの謀叛を使ったまで。その結果、ガンディアがどのようになろうと知ったことではない。ジゼルコートの謀叛が成功しようがしまいが関係がないのだ」
「なにを……」
「わたしはわたしの夢のために」
「夢……!」
リノンクレアが、鋭く睨みつけてくる。そのまなざしの刃のような鋭さこそ、ハルベルクにとってのリノンクレアであり、射抜くような視線にこそ、彼女の本質を見出すのだ。そして、そんな彼女を愛してしまったがゆえに、このような場所に立っているのともいえる。
「あなたの夢は、兄上とともに歩むことではなかったのですか!」
声が、響く。
司令室内に。ハルベルクの頭の中に。心の中に。幾重にも響き、無数に返る。
「ハルベルク……! どうか、どうかいますぐ矛を収めてください。あなたが兄上と争う理由などなにもないでしょう? 夢のためならばなおさら!」
リノンクレアの叫びは、悲鳴に似ていた。いや、実際、悲しみを帯びた叫びだった。耳に突き刺さり、胸を抉る。心に刻まれ、魂までも焼かんとする。
「夢は、兄上とともにあるものでしょう?」
「そう、そうだよ、リノンクレア」
ハルベルクは、ただ認めた。否定せず、肯定するしかない。
夢。
いつか見た夢。
いつしか忘れ、再び思い出したときには遥か彼方に遠ざかっていた夢を、再びこの手にするときがきたのだ。
「その通りだ。わたしの夢は、レオンガンド陛下と……義兄上とともにある」
「だったら……!」
「だからこそ、わたしは義兄上と戦わなければならないのだ」
「なぜ……なぜ、そんな結論に至るのです!」
リノンクレアが体を震わせながら叫んだ。
「馬鹿げている!」
その通りだろう。
馬鹿げた結論だ。
実に馬鹿げた、愚かな考えだった。
そんなことで謀反に同調し、同盟国を内乱状態にしてしまうなど、あり得べきことではない。一国の王としても、同盟国の人間としても。
「確かにそうだ。馬鹿げているかもしれない。愚かなことかもしれない。しかし、わたしがわたしであるためには、こうするしかないのだ」
「兄上とわたし、そしてあなたの三人で力を合わせ、未来を掴み取るのであれば、戦う必要なんてないはずです!」
リノンクレアが身を乗り出して、叫んできた。瞳が揺れている。泣いているのかもしれないし、ただそう見えるだけかもしれない。だが、頭上から一定量の光を注がせる魔晶灯では、瞳が揺らぐことなどありえない。やはり、涙なのだろう。心が傷んだ。だが、引き下がれない。
「いや、あるんだよ、それが」
「どうして!?」
「君を愛しているからさ」
ハルベルクは、立ち上がり、彼女の肩に触れた。鍛え上げられた戦士の肉体は筋肉質で、女性らしさというものは少ないかもしれない。しかし、そういうリノンクレアだからこそ、いいのだろう。
「なにを……」
「君を愛しているから、戦わなくてはならない」
肩から手を離し、席を離れる。そして、告げる。
「義兄上と」
レオンガンド・レイ=ガンディア。
「君の最愛の人と」
恋敵。
「……なにをいっているのです、ハルベルク」
ハルベルクが彼女を振り返ると、リノンクレアは、焦点の合わない目でこちらを見ていた。告白が衝撃的過ぎたから、というわけではあるまい。もっと別の理由だ。
「わたしは、子供の頃から――そう、物心ついたときから、君のことが好きだった。一目惚れだったんだろう。君のことばかり見ていた。だから知っているんだ」
リノンクレアは、いつだって、どんなときだって、レオンガンドを見ていた。
いまでも脳裏に焼き付いている光景がある。レオンガンドとふたりして転んで怪我をしたとき、先に進んでいた彼女が最初に駆け寄ったのはレオンガンドだった。それはレオンガンドが実の兄だからで、それ以上の理由はないのかもしれない。だが、そのとき確かに、ハルベルクは、リノンクレアの中での優先度の違いに気づいたのだ。そしてそのとき以来、ハルベルクはリノンクレアが自分に向ける目と、レオンガンドに向ける目がの明らかな差異を認識するようになった。勘違いではない。妄想ではない。明確な差。愛情の差。リノンクレアにとってレオンガンドは実の兄であり、“うつけ”を演じるようになるまでのレオンガンドは、紛れもなく天才児と呼ばれてもおかしくないほどの子供だった。名君の血を引いているのがだれの目にもわかるほどだ。リノンクレアが子供心ながらにそんなレオンガンドを尊敬するのもわからないではなかったし、むしろ当然のことのように思える。いまならば、彼女がレオンガンドとハルベルクの扱いに差をつけていたのにも、納得しよう。だが、その当時、まだ年端もいかぬ子供に過ぎなかったハルベルクには、衝撃的に過ぎたのだ。
無論、そのことでレオンガンドを憎んだりはしなかった。
ただ、羨ましかった。
リノンクレアの愛情を一身に注がれている彼が眩しかった。
彼のようになりたかった。
レオンガンドに。
レオンガンドの代わりに、彼女に愛を注がれたかった。
それが、始まり。
「君の愛を真に得るためには、あのひとを超えなくてはならない。それがわたしの至上命題なのだ」
告げた直後だった。なにかが倒れるような物音がした。振り向くと、リノンクレアが椅子の上に崩れ落ちていた。全身から力が抜け切ったようなだらしのない姿など、彼女らしくはない。寝ているときでもどこか凛然としているのが彼女だったからだ。
机の上に視線を向ける。冷め切り、湯気も出なくなった茶器に注がれた茶が、少なからず減っているのがわかる。彼女が口をつけたのだ。
不用心にも。
つまるところそれは、彼女がハルベルクを信頼してくれていたということなのだろうが。
「君は強情だからね。こうするしかなかったんだ。済まない」
ガンディア王家のひとびとは、情が深く、そして、頑固で融通が効かないところが多々ある。シウスクラウドにしても、レオンガンドにしてもそうであり、リノンクレアは無論のこと、ジゼルコートですら愛情の深い人物だった。
深い愛は、ときに足枷となる。
ハルベルクは、リノンクレアに歩み寄ると、閉じた瞼からこぼれ落ちた涙を指先で拭った。
「義兄上を越えることができたなら、そのときは、必ず、迎えに行くよ」
できなければ、そのときは、死ぬだけだろう。
レオンガンドが、ハルベルクの裏切り行為を許すとは思い難い。