第千三百八十話 ハルベルク・レイ=ルシオン
バルサー要塞は、かつてガンディアが弱小国だったころ、北の隣国ログナーとの境界を示す要塞として知られていた。堅牢にして難攻不落。平原の中に聳え立つ巨大な要塞は、ガンディア軍の象徴ともいえる代物であり、何十年、いや何百年もの間、ガンディアを北の侵攻から守り続けてきたという歴史があった。
その不落の歴史が幕を閉じたのは二年ほど前のことだが、それも武装召喚師の介入によるものであり、通常戦力だけが相手ならば落ちることはなかっただろう。しかも、ガンディア軍は英傑王シウスクラウド・レイ=ガンディアを喪ったばかりということもあり、浮き足立っていたというのも大きい。ログナーは、ガンディアが喪に服しているのを好機と見、攻め込んできたのだ。そこへクオン=カミヤが参戦し、ログナーに圧倒的な勝利をもたらした。
それが二年前のバルサー要塞の戦いだ。
バルサー要塞は半年後、ガンディア軍の手によって奪還されたのだが、その奪還戦において類まれな活躍を見せ、名を挙げたのがセツナ=カミヤだった。
ふたりのカミヤが同じバルサー要塞に関わる戦いで名を挙げるというのは、数奇な運命というしかない。
ハルベルク・レイ=ルシオンは、バルサー要塞天守司令室にあって、ふと、そんなことを考えていた。バルサー要塞奪還戦には、ハルベルクも参加している。リノンクレア率いる白聖騎士隊とともにガンディア軍の主力として参戦し、多少の戦果を上げたものだ。その当時は、ミオンも同盟国として存在感を発揮し、ギルバート=ハーディの突撃騎兵隊もその実力を発揮したものだった。
(なぜ)
ハルベルクは、自問する。
司令室内には、軍幹部が集まっている。白天戦団長バルベリド=ウォースーン、副団長ゼファイル=シルクール、各軍団長に王宮召喚師クロード・ゼノン=マイス、ベレイン=ネイン、シャルティア=フォウス、そしてハルレイン=ウォースーン。
彼らは皆、一様に難しい顔をしており、戦術について話し合っていた。
軍議の真っ只中だったのだ。
マルスールが、落ちた。
レオンガンド軍の猛攻によって一日も立たずに取り戻されたのだ。マルスールを占拠していた白天戦団の千名の内、二百名が戦死、四百名が捕虜として捕らえられ、残る四百名がバルサー要塞に逃げ帰り、本隊との合流を果たした。逃げ延びた四百名によると、レオンガンド軍の兵力は圧倒的であり、ルシオン軍ではとてもじゃないが勝ち目はないということだった。
敵はおよそ二万。
対して、バルサー要塞のルシオン軍は六千に過ぎない。三倍以上の兵力差があるということだ。しかも、報告によれば、マルスール駐屯軍が破れたのは、レオンガンド軍のひとりに対してといってもいいほどであり、レオンガンド軍が飛び抜けた戦力を有していることが明らかになった。黒き矛のセツナが不在だという確定情報もあったが、セツナひとりいないことがレオンガンド軍にとって大した問題ではないことが浮き彫りになったのだ。軍議の場が静まり返るのも無理はなかった。
ジゼルコートは、謀叛を成功させるため、レオンガンドの軍勢を分断させようとした。そのためにマルディアを動かし、騎士団をも動かしたのだという。そして、レオンガンド軍は、確かに戦力を分散させることになった。
黒き矛のセツナひとりを騎士団に当てたのだ。
たったひとり。
だが、それだけでも十分すぎるほどの戦力低下が見込まれた。セツナは、ただひとりで数万の兵に値する戦力だ。万魔不当――つまり一万の皇魔を以ってしても当たりえないということは、数万の兵でもってしても倒しきれないほどの存在だということだ。規格外。化物。怪物。ほかに形容するべき言葉が見当たらないほどの存在がセツナだ。彼ひとりでもマルディアの地に置き去りにすることができたのは、ジゼルコートの勝利といってもいい。
しかし、現実には、セツナひとりを失ったところで、レオンガンド軍が強敵であることに変わりはなかった。無論、セツナがいないだけで大きく戦力は低下しているはずだ。一騎当万の武装召喚師が不在なのだ。大きな痛手といっていい。けれども、レオンガンド軍には、セツナに匹敵はせずとも追随する実力を持った武装召喚師たちが多数いて、さらに兵数も膨大だった。
ジゼルコートとしては、セツナのみならず、それら膨大な兵力も削りたかったはずだ。そのためにジベルやイシカを動かしたのだ。が、情報によれば、レオンガンド軍はそれらに対して戦力を繰り出したものの、それでもなお二万以上の兵数を誇っているという。
もちろん、すべてがすべてこのバルサー要塞に向かってくるわけではあるまい。マイラムの牽制のため、マルスールに二千から三千ほどは配置するだろう。だが、それでも一万以上の兵力差がある。兵力差だけを考えれば、ルシオン軍に勝ち目はなかった。
(いや)
ハルベルクは、胸中で頭を振る。
兵力差だけではない。戦力差でも、圧倒的に負けている。つまり、勝利する方法はひとつしかないのだ。
軍議も、その勝利条件を前提に進んでいた。ルシオンにガンディアやシャルルムのような軍師はいない。白天戦団長バルベリドと副団長がその役割を担っている。ふたりの確かな戦術眼がルシオンに数多の勝利と栄光をもたらしてきたのだ。この戦いも、ふたりの戦術に頼るほかなかった。
「報告!」
不意に司令室の静寂を破ったのは、伝令兵の声だった。
「マルスールを発ったレオンガンド軍から、軍使がバルサー要塞に接近中」
「軍使?」
「はっ。それも、白聖騎士隊の方々を伴っている模様」
「白聖騎士隊……リノンクレアか」
ハルベルクが目を細めると、伝令兵が恐縮したように身を縮めた。
「軍使となれば、丁重に迎えて差し上げろ」
「はっ」
伝令兵は敬礼すると、素早く司令室を後にした。司令室の扉が閉じると、室内には再び静寂が戻り、重苦しい空気に包まれる。バルベリドが口を開いた。
「王妃殿下が軍使……ですか」
「レオンガンドの差金ではないだろうな」
ハルベルクがいうと、バルベリドも静かにうなずいた。レオンガンドがそのような手を使うとは、だれも思ってはいないのだ。彼は、ガンディア王家の人間だ。ガンディア王家の人間は、情が深い。要は、身内に甘いのだ。だからラインス=アンスリウスを増長させ、ジゼルコートに謀叛を起こさせるに至ったのだが、それはそれとして、身内に甘いということは、身内を駆け引きに使わないということでもある。特にレオンガンドがリノンクレアを使うことなど考えようがなかった。彼はリノンクレアを溺愛していた。
それこそ、ハルベルクが嫉妬を覚えるほどに。
「リノンクレアのことだ。彼女が言い出したに決まっている」
リノンクレアの性格は、知りすぎるほどに知っている。彼女のことだ。ハルベルクの裏切りが気の迷いかなにかだと想っているに違いない。いや、そう思い込もうとしているのだ。そうでもしなければやっていけないから。そうでもしなければ、この現実に押し負けてしまうから。
ハルベルクは、リノンクレアの心情を想い、胸が痛むのを感じた。
軍使として差し向けられた以上、対応するしかない。
「バルベリド」
「はい」
「出撃準備を整えろ」
「はっ」
バルベリドは一も二もなくうなずくが、副団長や軍団長らは困惑の顔を見せた。
「我々が勝利する唯一の方法は、レオンガンドを討つことだ。それ以外に手はない」
「王妃殿下はどうなされるのですか?」
「もちろん、逢うさ」
ハルベルクは、ハルレインの目を見据えた。仮面の奥の瞳が、揺れている。
「逢ったからといって、わたしの考えが変わることはない。ただそれだけのことだよ」
レオンガンド軍と戦うという決意を表明しただけのことだ。情にほだされ、攻撃を取りやめては、なんのためにジゼルコートに与し、裏切り者の烙印を押されたのかわかったものではない。ここで足を止めるわけにはいかないのだ。
ここで前進を止めれば、もう二度と、彼には追いつけない。
彼に追いつけなくなったとき、ハルベルクは、すべてを失うことになるだろう。
日を待たず、レオンガンド軍の軍使一行がバルサー要塞に到着した。
白聖騎士隊約五百名にレオンガンド軍の二千名が随伴しており、大所帯もいいところだったが、バルサー要塞の手前まで来ると、レオンガンド軍は行軍を止め、白聖騎士隊のみがバルサー要塞に入ってきた。警戒もあっただろうし、ルシオン軍に余計な刺激を与えないためもあっただろう。
白聖騎士隊は、元々ルシオンの一部隊だ。バルサー要塞に入っているルシオンの将兵のだれもが、白聖騎士隊の勇猛さを知っていたし、憧れるものも少なくはない。女性のみの騎士隊でありながら、その実力はルシオンでも屈指といってもいい。レオンガンド軍ならばいざしらず、白聖騎士隊がルシオン軍の拠点に入ることには問題はなかった。
ハルベルクが王子時代に作り上げた親衛隊であり、王子妃となったリノンクレアのために結成した組織だ。王妃となったいまも、リノンクレアが隊長を務めており、今回も、彼女が隊長として白聖騎士隊を率いてバルサー要塞に入った。
彼女たちがバルサー要塞に入ると、要塞内は歓声で満ちた。リノンクレアの帰還を喜ぶ声が多い。リノンクレアはガンディア人であり、レオンガンドの実の妹であるが、ハルベルクとの結婚以来、ルシオン国内での人気は凄まじいものとなっていた。軍人の中でも彼女を支持するものは多い。なぜならば彼女自身が軍人気質であり、軍人たちのことをよく理解しているからだ。王家の中に理解者を得られたのだ。軍人たちがリノンクレアを支持し、彼女を盛り立てようとするのもわからないではなかった。そんな彼女の人気をハルベルクは大いに利用したし、その成果もあって、ルシオン軍は最強に相応しい軍集団へと進化していった。
そして、ハルベルクは、だれもいなくなった司令室にて、リノンクレアと約二ヶ月ぶりの対面を果たした。
「よく参られた」
彼女はレオンガンド軍の軍使として、このバルサー要塞を訪れている。つまり、レオンガンドの代理人といってもいい。丁重にもてなさなければならない。粗相があってはならないのだ。たとえレオンガンドがこれから倒すべき敵であったとしても、だ。
それが戦場の作法というものであろう。
「丁重なもてなし、痛み入ります」
リノンクレアの涼やかで美しい容貌を見つめながら、ハルベルクは、妙な息苦しさを覚えた。
それはきっと、これから話さなければならないことが彼にとっても重く苦しいことだからなのだろう。
ハルベルクは、彼女の要望を受け入れることなどできないのだ。