第千三百七十九話 リノンクレア・レア=ルシオン
「陛下。お忙しい中、お呼び立てして申し訳ありません。そして、わたくしの望みを聞き入れてくださり、誠にありがとうございます」
「いや、王妃殿下たっての希望とあらば、聞き入れるのは当然のこと」
レオンガンドは、恭しいまでの挨拶に面食らう想いがした。リノンクレアとふたりきりのときは、いつだって砕けた話し方だったからだ。彼女がハルベルクの元に嫁ぎ、ルシオンの王子妃となってからも、その関係は変わらなかった。そして、ふたりきりで話しているときほど、心安らぐ時間はなく、一時期は、それだけが心の拠り所だった。
いまでは、ナージュがその役割を担ってくれている。
「しかし……いやに他人行儀だな」
「当然でしょう」
リノンクレアが、息を潜めるようにいってきた。
「現状、わたくしの立場を考えれば、陛下はわたくしと距離を取っておくべきです」
彼女の立場というのは、いわずもがな、背信国の王妃という立場だ。ルシオンはレオンガンドのみならず、ガンディア臣民の信頼を裏切り、踏み躙った。同盟国でありながら、ジゼルコートの謀叛に同調し、ジゼルコートの意志の赴くままにログナー方面へと侵攻、市民に被害こそなかったものの、マルスール、マイラムを落とし、防衛に当たっていたザルワーン方面軍に多数の死傷者が出ている。完全に敵となったのだ。敵対したのだ。その国の王妃である彼女に対する風当たりが強くなるのは当然だった。無論、表向きはそうではない。リノンクレア率いる白聖騎士隊は、マルディア救援軍に参加し、一戦力として活躍している。リノンクレアたちがガンディアのために血を流して戦ったことは、救援軍に参加しただれもが知っていることなのだ。そして、ルシオンの裏切りがリノンクレアにとっても衝撃的であり、知らざることだったということも、周知の事実だった。元々ガンディアの王女であり、レオンガンドの妹であるリノンクレアの心情を慮り、同情する声も多い。しかし、中にはリノンクレアも裏切っているのではないかと考えるものもいるのだ。そして、それを否定することは、レオンガンドにすらできない。リノンクレアが驚き、否定していたのも、演技かもしれない。可能性は、皆無とは言い切れないのだ。
だが、レオンガンドはリノンクレアを信じていたし、だからこそ、彼女からの呼び立てに応じた。彼女を疑う理由はなかった。彼女は最愛の妹であり、ともに夢を見た同志のひとりだった。彼女が裏切り、レオンガンドを暗殺することを企んでいるのだとすれば、仕方のないことだと諦めもつく。自分に見る目がなかったというだけのことだろう。
マルスールにあるログナー方面軍第三軍団の拠点に、レオンガンドたちはいる。拠点はルシオン軍によって占拠されていたころの名残があるものの、話し合いの場として利用する分にはなんの問題もなかった。室内にはレオンガンドとリノンクレアのふたりしかいない。リノンクレアの供回りも、レオンガンドの護衛もいない。アーリアもだ。もしここでリノンクレアがレオンガンドを殺そうと思えば、殺せるということだ。もちろん、ふたりとも武器を携帯しているわけではないし、室内にもそのようなものがあるわけではない。
「そうはいうがな……わたしとしては、おまえの本音を聞きたいのだ」
「わたし……ですか」
「……ふむ」
苦笑する。
「俺……だな」
いつの間にか、自分も他人行儀になっていたらしい。
「それでこそ、いつもの兄上です」
リノンクレアがどこか儚げに微笑んだ。
それはまるで、もはや取り戻せない過去を垣間見てしまったことを後悔するような表情で、レオンガンドの胸の内に苦味が残った。
「マルスールを制圧したってことは、つぎはバルサー要塞よね?」
そう尋ねてきたのは、ミリュウだった。
エインは、マルスール奪還の事後処理に追われているのだが、なぜか彼の仕事場は知人の溜まり場と成り果てていた。ミリュウ以外にも、ファリア、ルウファ、エミル=リジル、マリア=スコール、ウルク、ミドガルド=ウェハラムなどが集まってきており、それぞれに話し合っている。
「そうなりますね」
エインは返答が適当になるのを自覚しながらも、それこそ仕方のないことだと認識していた。情報の確認だけとはいえ、仕事の最中だった。
「バルサー要塞ってことは、ルシオンの王様と戦うことになるのよね?」
「そうなりますね」
「ハルベルク陛下と戦うことになるのよね?」
「そうなりますね」
三度も同じ言葉で返答をしたからか、ミリュウがぴたりと話しかけてこなくなった。嘆息が聞こえる。深く大きなため息。エインの反応のせいではないのは、彼女の言葉で理解できた。
「……なんか、嫌な感じね」
「……そうですね」
ハルベルクと戦うことが、だろう。
《獅子の尾》のミリュウは、以前、援軍としてルシオンに派遣されたことがあり、そのとき、ハルベルクと言葉を交わしたこともあるのかもしれない。
「まさかハルベルク様が陛下の敵に回るだなんてねえ……」
「想像もつかないことですよ」
ジゼルコートがレオンガンドを裏切る可能性については考慮していた。ジゼルコートが独自の考えで動き、ベノアガルドと繋がっているということがわかった時点で、彼がレオンガンドの敵に回る可能性が生まれた。以来、その本性を隠し続けていたものの、ところどころに現れてはエインたちの警戒を煽った。やがて、国内にジゼルコート以外の敵対者がいる可能性が増大し、それらを一挙にあぶり出し、殲滅する計画が練られた。
それが大規模遠征であり、そのための地にマルディアが選ばれたのは偶然だった。
いや、偶然かと思われていた。
実際は、ジゼルコートによる誘導であり、マルディアの反乱も、反乱軍が騎士団を使ったのも、マルディアがガンディアに救援を求めてきたのも、すべてジゼルコートの計画だった。まんまと彼の計画に乗ってしまったということだ。
それは、いい。
そこまでは問題にもならないことだ。いかにジゼルコートの策が上手くいったところで、戦力差はいかんともしがたい。ジゼルコートの私設軍隊など、ガンディア軍の足元にも及ばない――はずだった。だが、実際は、違った。ジゼルコートは私設軍隊の力だけを頼みにするような愚か者ではなかったのだ。
ジゼルコートの反乱を潰すべく配置したルシオン軍が、ジゼルコートに与していた。
その衝撃たるや、エインも呆然とするほどだった。
まさか、ハルベルク率いるルシオンがレオンガンドの敵に回るなど、考えられようもない。
「リノン様……だいじょうぶかしら」
ファリアが心配そうにつぶやいた。ファリアが個人的にリノンクレアと仲良くしているという話は、無論、エインも知っている。そんな彼女から見ても心配になるくらい、リノンクレアの精神状況というのは危ういらしい。
ミリュウが頭を振る。
「だいじょうぶなわけないわ」
「……そうよね」
「たとえばさ、ありえないことだけど、セツナがあたしたちの敵に回ることなんてあったら、あたし、生きていられないもの」
「……うん」
ミリュウとファリアが沈む傍らで、ルウファが怒ったように口を開く。
「隊長が敵になるなんてこと、あるわけないじゃないですか」
「そうですよ。セツナ様ですよ、セツナ様」
ルウファの意見にエインは全力で同意した。セツナがレオンガンドの敵に回ることなど、ありえない。セツナはレオンガンドの忠実な下僕たろうとし、そんなセツナをレオンガンドはこの上もなく大切にしている。ふたりのその関係が壊れないかぎり、敵対する可能性は皆無といっていい。
無論、状況というものは本人の意志など関係なく、周囲が作り出していくものだ。たとえばセツナ派が暴走し、レオンガンド派と敵対する可能性は、ありえないことではない。しかし、そうなったとしても、セツナがレオンガンドと敵対する道を選ぶなど考えられなかった。セツナひとりレオンガンド派につき、セツナ派と対峙するだろう。そこまで見えているから、エインはセツナ派結成という賭けにでたのだ。これが、セツナでなければきっと上手くいってはいないだろう。
「わかってるわよ。だから、ありえないことっていったでしょ?」
「それにあたしはセツナの味方だから、たとえセツナがどんな道を選んだとしても、ついていくだけだし」
「そうね。わたしも、そうかも」
「俺は……ガンディア命ですよ」
「ですよね!」
エミルが嬉しそうにルウファの手を取り、ルウファがそんな彼女に微笑みを浮かべる。その微笑みに悔しさのようなものが見えたのは、気のせいだろうか。
「ま、なんにしたってうちらの隊長殿が陛下の敵に回ることなんてありえないさね」
「兄上、ひとつお願いごとがあるのです」
しばらくの沈黙の後、リノンクレアは、口を開くなり、そういってきた。
「お願いごと?」
反芻して、瞬時に理解する。彼女がなにを考えているのかなど、すぐにわかるのだ。
「駄目だ」
告げると、リノンクレアが眉根を寄せた。顔が険しくなるが、それでもなお彼女の美しさは損なわれていなかった。リノンクレアは美人だ。グレイシアによく似ているのか、若いころのグレイシアそのものだという評判だった。彼女が年を経れば、グレイシアのようになるのかもしれない。とはいえ、いまもグレイシアは十分に若いのだが。
「なぜです?」
「危険だ」
「危険は百も承知です。しかし、そんなことをいっている場合ではないでしょう?」
「いや……しかし……」
「陛下の……いえ、ハルベルクの目を覚まさせるには、わたしが行くしかないのです」
リノンクレアは、決然と告げてきた。
「行って、説得します」
「説得に応じなければ?」
「応じてくれますよ。わたしのハルベルクは、そこまで愚かではありません」
愚かではない。
確かに、そうだろう。ハルベルクはいつだって理性的だ。常に冷静さを失わず、物事を考えることができる。どのような状況であってもだ。だからレオンガンドが“うつけ”を振る舞うようになったときも、冷静に状況を見定め、レオンガンドを見捨てることなく、ついてきてくれたのだ。
そして、だからこそ、とレオンガンドは想うのだ。
(愚かではないからこそ、説得に応じないだろう)
冷静に考えに考えぬいた末の結論が、レオンガンドとの敵対なのだとすれば、いくら最愛の妻とはいえ、リノンクレアの説得に応じるとは思えない。リノンクレアの説得に応じるくらいであれば、ジゼルコートの謀叛になど同調するわけもない。
「……兄上が許可してくれなくとも、説得に赴く所存ですが」
「だろうな」
レオンガンドは、リノンクレアの決意に満ちた目を見つめながら、諦めにも似た感情を抱かざるを得なかった。彼女の決意、気持ちは痛いほどわかるのだ。リノンクレアとしては、ハルベルクの裏切りを信じたくなかっただろうし、受け入れたくはなかったはずだ。それが事実だと判明し、現実にルシオン軍がマルスールを占拠している様を目の当たりにしたとき、彼女も理解せざるを得なかった。ハルベルクがレオンガンドの信頼を裏切り、リノンクレアの想いさえも踏み躙ったということを。それでも彼女はハルベルクを信じることを諦められないのだ。
ジゼルコートについたのはただの気の迷いであり、リノンクレアが誠心誠意説得すれば、すぐにでも矛を収め、レオンガンドについてくれると想いたいのだ。そう思わなければやっていられないはずだ。
「わかった。許可しよう」
「兄上……」
「ただし、猶予は与えられない」
レオンガンドは、リノンクレアの目を見据えながら、告げた。
「おまえがバルサー要塞に入り、一日以内に出てこなければ、攻撃を開始する。何分、悠長にしてはいられないのだ」
バルサー要塞に手間取っている場合ではなかった。一刻も早くバルサー要塞を抜き、ガンディア本土に雪崩れ込む必要がある。ジゼルコートの謀叛を早急に終わらせ、ガンディア全土をレオンガンドの元に取り戻すためには、バルサー要塞如きに時間をかけている暇はない。
たとえ、時間をかければハルベルクを説得できるのだとしても、その時間が惜しかった。
説得のために費やす時間がジゼルコート軍の戦力の充実に繋がるかもしれず、防衛体制を強化させるのは間違いなかった。一日も早く、バルサー要塞のルシオン軍を蹴散らし、ガンディア本土に至らなければならないのだ。
「はい。わかっています」
リノンクレアが静かにうなずく。
「説得の機会を頂けたこと、心より感謝申し上げます」
「……俺とて、ハルベルクを説得できるのであれば、それに越したことはないと想っているさ」
「……兄上は、ガンディアの国王。謀叛人とその同調者を討つべく動くのは、王として当然の結論です。わたしが兄上の立場であれば、同じようにしたでしょう。ですが、わたしは、ハルベルクの妻。あのひとを愛しているのです」
「わかっているよ」
「あのひとが兄上を裏切るだなんて、考えられません。ハルベルクは兄上とともに歩むことを夢見ていたのですから」
リノンクレアの目が潤んでいるように見えたのは、気のせいではあるまい。
「きっと、なにかの間違いです」
だから、説得すればなんとかなるはずだ。
リノンクレアの期待とも希望ともつかない痛々しいまでの想いが、レオンガンドの心に浸透してくるかのようであり、彼は、妹の望みが叶うことを祈った。しかし、叶わないだろうということも知っていた。
ハルベルクが――あの冷静沈着なルシオンの若き王が、間違いを犯すことなどありえない。
彼の裏切りは、冷静な計算の上に成り立っているはずだ。気の迷いなどであるはずがない。
レオンガンドは、部屋を出るリノンクレアの後ろ姿を見遣りながら、そう考えていた。