第百三十七話 雷鳴の先へ
ログナー方面軍第一第四混合部隊が動き出したのは、真夜中のことだ。
雨脚が多少鈍くなった頃合いを見計らい、第一軍団長グラード=クライド指揮の元、休憩地点の森から離れた。一糸乱れぬ行軍は、セツナが呆然と見惚れるほどのものだ。
セツナたちは荷台から自分たちの馬に戻っている。戦闘用の軍服の上から外套を纏い、雨露をしのいでいる。夜空は曇天。星ひとつ見えず、闇が重くのしかかってくるようだった。
そんな中を号令のひとつもなく、粛々と進んでいく。
セツナたち《獅子の尾》は先頭集団の中でもさらに先を走っており、先駆けを好むグラードを追いかけるような格好になっていた。
間道を抜け、街道に出る。そのまま国境を越えて間もなく、グラードが馬の速度を落とした。自然、ルウファの駆る馬がグラードを追い抜く。グラードの声が、セツナの耳に聞こえた。
「手筈通り頼みます」
「お任せあれ」
セツナは答えたが、グラードに届いたかどうか。雨音と雷鳴が、声をかき消したかもしれない。
国境を超えると、しばらくしてザルワーンの国境防衛の要である拠点が見えてくる。二重に柵を巡らせただけの簡素な拠点であり、砦とは到底いえるようなものではない。実際、国境付近の防衛拠点に常時滞在している人数は、どこの国もそう多くはないらしい。国境警備としての側面が強く、敵国が攻めこんできた場合も、付近の部隊に連絡を取るのが役目であり、部隊が辿り着くまでの時間稼ぎが防衛隊の主な任務だという。
グラードがいうには、いままではそれでよかったのだという。どこの国も本格的な戦争に踏みだそうとはせず、半ば義務的な小競り合いに終始することが多かった。ログナーとガンディアですら、長年、国境付近での小競り合いで勝った負けたと言い張っていたというのだから驚きだ。だが、それはある種、平穏でもあったのだろう。小競り合いでの死傷者は知れたもので、大きな損害が出ることはない。軍の必要性も失われず、軍人が仕事を失うこともない。均衡であり、不文律。
それが崩れた。
「隊長」
「ああ」
ルウファの声に、セツナは右腕を頭上に掲げた。加速する馬上、左手だけでルウファに掴まるのは少し怖かったが、そんなことをいっている状況でもない。告げる。
「武装召喚」
呪文の末尾。術式を完成させる魔法の言葉。だが、セツナに術式は必要ない。呪文も、この結尾だけでよかった。それだけで異世界の扉が開き、彼の武器が現れるのだ。
セツナの全身が光に包まれ、光の中から何かが出現した。それは右手の中に収斂すると、重量を伝えてくる。ウェインの槍を取り込み、異形さを増した漆黒の矛の柄を握り締める。冷ややかな感触が、手のひらから腕へと伝わり、セツナの脳内に突き刺さってくるかのようだった。黒き矛カオスブリンガー。夢の中では複眼のドラゴンだったが。
「いつ見ても卑怯くさいですよね、それ」
「うん」
ルウファの軽口を適当に流したのは、急激に拡大する感覚に一瞬ついていけなかったからだ。意識が肥大し、先鋭化する。万能感とでもいうのか、圧倒的な力がセツナの全身に流れ込んでくる。視覚も聴覚も嗅覚も、ありとあらゆる感覚が鋭敏化し、周囲の状況を認識してしまう。闇の中を並走する二頭の軍馬、ふたりの乗り手。ルウファとファリアの顔立ちまではっきりと確認できるほどの情報の奔流。それに飲まれてはいけない。制御し、使わなければならない。意識を前方に向ける。
街道沿いに設けられた拠点は、常に警戒態勢にあった。門前に立ったザルワーンの兵士たちが、異変がないことを確認して安堵している様子も、わかる。街道の右手。国境からこっち、遮蔽物はなかったが、雷雨が災いしてこちらの接近を気付けていない。軍馬の怒涛のような足音も、大雨と雷鳴に霞んでしまっている。
街道を疾駆する。まだ、早い。もう少し近づかなければならない。
セツナは、疾駆する馬の上に立った。安定感などまったくないのだが、黒き矛を手にしている以上、なにも心配する必要がなかった。左手でルウファの肩を掴むと、彼は驚いたようだったが。
「なにしてんです!?」
「ルウファとファリアは援護を」
セツナは、彼の声を黙殺して、命じた。さすがに、そろそろ馬蹄の轟く音も聞こえるだろう。二千名に及ぶ先頭集団が通過しようというのだ。無音とはいくまい。
ルウファが馬首を巡らせ、拠点に進路を取る。そのときには、セツナは馬の背を蹴っていた。ただし、全力ではない。そんなことをすれば馬を転倒させてしまうだろう。いまのセツナは、常人ではないのだ。着地とともにさらに跳躍して防衛部隊拠点に殺到する。門番は四人。
暗い雨の中、門番たちはようやくこちらを認識した。
「敵襲!」
「ログ、いや、ガンディア軍!」
叫んだつぎの瞬間、門番ふたりの首は空中に舞っていた。セツナは返す刃で残るふたりを絶命させると、透かさず拠点へと突入した。門は開いていたのだ。恐らく、いつでも戦力を出せるようにということだろうが、不用心極まりなかった。が、それは防衛部隊がいつでも出動出来る状態を維持しているということでもあったらしい。
「敵襲! 敵襲!」
「ログナーの連中かあ!」
「ガンディアだ! 間違えるな!」
拠点内の各所から続々と集まってきた兵士の多くは武装しており、ある程度戦闘に備えていたことがわかった。それぞれに武器を抜くと、雷光に無数の刃がきらめいた。上空で雷鳴が響く。そして、後方からセツナの視界を切り裂いていった雷の帯は、暗闇の空でなにかに当たって飛散した。ファリアが、なにかを射落としたらしい。
ルウファが、背後に降り立った。彼も召喚武装を呼び出したのだ。
だれかが叫ぶ。
「全軍出撃、相手はたった三人だ!」
「はっ、たった三人になにができる!」
ザルワーン兵の言葉に、セツナは笑いもしなかった。黒き矛のもたらす超感覚は、この拠点が動員しうる兵力を冷徹に認識していた。
「たった二百人になにができる」
拠点内に飛び込んだセツナを迎え撃ったのは百人程度。包囲陣を敷き、武器を構えている。それ以外にもさらに百人ほどがそこかしこに潜んでいて、出番を待ち兼ねているのか、射程武器でも携えているのか。恐怖に震えているものはいない。こちらはたったの三人だ。戦局を覆しうるとはいえ、たったの三人なのだ。なにも知らなければ、恐れる道理もない。
セツナの言葉をただの負け惜しみと受け取ったのか、指揮官らしき男が鼻で笑った。
「ふっ……血祭りにあげよ」
「うおおおお!」
セツナは、怒号とともに殺到してくる敵兵の数を冷ややかに数えた。十名。前方四名、左と右から三名ずつ。後方の死角から殺気。遠距離。弓だろう。一歩、踏み込む。猛然と突っ込んでくる敵との距離は、瞬く間に縮む。ルウファが左に飛ぶ。射程兵器にはファリアが対応してくれるはずだ。カオスブリンガーを振り被る。敵兵の殺気はまぶしいほどに激しい。が、気圧されるわけもない。矛を水平に薙ぎ、払う。手応えはほとんどなかったといっていい。振りぬいたとき、矛の軌道上に足を踏み入れていた兵士六人が六人、胴を真っ二つに断たれ、断末魔の悲鳴を上げることもなく死んでいった。撃ち漏らしたのは右端のひとり。突撃の勢いを殺すこともできず、セツナに向かってくる。一瞥する。その表情は驚愕に見開かれていた。左頬に痛み。矢が掠ったらしい。気にせず、迫ってきていた兵士に石突きの一撃をくれてやる。額を割り、昏倒させる。即座に向き直る。指揮官は後方に逃れていた。
セツナは、第一陣が一蹴されたにも関わらず、一糸乱れぬ動きで指揮官を庇おうとする兵士たちの健気さにあきれた。左頬が熱い。血が出ているらしい。後方を一瞥すると、馬上、オーロラストームを構えたファリアは、拠点上空を睨んでいるようだった。
(鳩を射落としているのか?)
闇と雨と雷光の中、よく発見できるものだ、と思ったが、彼女の感覚も拡張されているのは間違いなかった。ファリアもルウファも召喚武装の使い手なのだ。セツナと同程度とは行かない間でも、感覚は強化されており、常人では見つけられないものも見つけられるかもしれない。そして、空中に飛び立つものには、彼女の弓が効果的だった。
ガンディアのザルワーン侵攻に関する情報の伝達が少しでも遅れるなら、それに越したことはない。だから、この拠点の人員は殲滅しなければならない。
「な、なにを手間取っている! さっさと殺せ!」
「隊長! 拠点前を通過する軍勢が!」
「なんだと! どうしてだれも阻止に向かわない!」
指揮官が狼狽するのも無理はないが、拠点外に部隊を展開していなかった時点でその怒号に力はない。セツナが拠点に飛び込んだとき、戦力のほとんどは拠点内にいたのだ。外にいたのは四人の門番であり、彼らはとっくに死んでいる。
敵兵の言った通り、セツナたちが拠点を襲撃している間にグラードたちが通過するというのが、国境を突破するための作戦だった。それはセツナたちなら防衛拠点を沈黙させられるという信頼がなければ取れない作戦だろう。セツナたちが撃退されれば、後背を突かれることになる。そこへナグラシアの部隊が殺到すれば、第一第四混合部隊は壊乱してしまいかねないのだ。
信頼には応えなければならない。
「なにをしている! さっさと追いかけろ! ナグラシアにも伝令を!」
セツナは、指揮官の悲鳴じみた怒号を聞きながら、黙々と漆黒の矛を振り回していた。気合もなく、気負いもない。ただ無心に手近の敵を殺していく。矛の一閃で胴を払い、一突きで頭蓋を砕き、脳を貫く。セツナに迫り来るものはことごとく屍と化し、死体が山のように積み上がっていく。
かといって、ルウファに攻撃目標を変えても同じことだ。変幻自在の純白のマントは、ときに翼となってルウファの体を宙に浮かせ、包囲網を飛び越えさせ、ときに刃のように閃いて周囲の敵を切り刻む。鎧を切り裂くのは困難らしかったが、人体なら簡単に両断するようだった。彼の周囲で血しぶきが上がっても、シルフィードフェザーが赤く濡れることはなかった。そもそも、大雨だ。血は流し落とされる。
そして、拠点の門前にはファリアがいる。彼女は軍馬に騎乗したまま、化け物じみた弓を構えていた。オーロラストームの嘴から雷光が迸るたび、敵兵がひとり、ふたりと倒れた。彼女に近づくことさえもできなかった。弓兵はとっくに沈黙しており、セツナは彼女の手際の良さに感嘆するばかりだった。
「こ、これはいったいどういうことなのだ……! 本国はなにをしている……! なぜ、こうなることを予期していなかったのだ!」
指揮官は、完全に取り乱していた。きっと人員配置を失敗したのだ。こういう状況下でこそ冷静に振る舞える人物でなければ、指揮官などを任せてはいけない。もっとも、この絶望的な状況で混乱するのはわからないではない。セツナが彼の立場にいれば気を失っていたかもしれない。
だが、同情はしない。
「隊長、速やかに撤退命令を!」
「どこに……逃げるというのだ?」
指揮官が皮肉に笑ったのは、セツナが目の前にいたからだろう。既に百人以上の兵士が死んでおり、セツナの背後の地面を埋め尽くしている。
中年の指揮官は、腰に下げた剣の柄にようやく手を伸ばしていた。雷光が、彼の絶望的な表情をセツナに見せた。
「そうか、貴様が黒き矛――」
言い終えるより早く黒き矛が旋回し、指揮官の首は宙を舞った。セツナは、周囲に控えていた部下たちもつぎつぎと殺した。
その後、セツナたちが防衛部隊を殲滅するのにさほど時間はかからなかった。
「終わったな」
拠点内に生存者がいないことを認めると、セツナはルウファとファリアを探した。ふたりは既に軍馬に乗っていて、拠点の門前でセツナを待っていた。
「隊長、行きましょう!」
「早くしないと、追いつかないわよ!」
ふたりの大声に手を上げて応える。が、すぐには動けなかった。拠点内に積み上げられた死体の山が嫌でも視界に入ってくる。国境を警備するという任務についたがために無残に殺されてしまった兵士たち。さぞ無念だろう。だが、これが戦争なのだ。他者の幸せを平然と踏み躙り、塗り潰す。悪行以外の何物でもないかも知れず、その先陣を切る自分は悪魔と誹られても文句はいえまい。
なぜそこまで感傷的になったのか、セツナは黒き矛を見下ろすことでわかった気がした。カオスブリンガーを振り回しているとき、この圧倒的で理不尽な暴力を振るっているという感覚がないのだ。力に酔っているのだ。戦いが苛烈さを増すほど酔いは酷くなり、酩酊状態に至ると自分が自分でなくなっていく。自分がひとではなく、化け物なのだと認識するのはそんなときだ。
化け物。
夢に見たドラゴンを思い出す。漆黒のドラゴンは、あの夢の中でカオスブリンガーを名乗った。
召喚武装は意思を持つという。ならば、夢に干渉してきてもおかしくはないのだろうか。
そんなことを考えながら、セツナは、ザルワーン国境防衛拠点を後にした。