第千三百七十一話 死神は聖印を切るか(一)
感情が荒れているのを認める。
荒れざるを得ないのだ。
精神の均衡が保たれ、心の海に波風が立つようなことも少なくなってから一年余りが経過していた。感情が無駄に昂ぶることもなければ、落ち込むようなこともない。ただ少しずつ変転していく日常の中で、あるがままに、ありのままに振る舞うことを許され、そうすることではじめて人生を謳歌しているのだという実感を抱いていた。
人生。
十年ほど前に終わり、再び始まったそれは、死神としての生涯であり、それもまた、一年ほどまえに唐突に終わった。
死神としての二度目の生を与えてくれた張本人が、彼女の二度目の生を終わらせた。
いま、彼女は三度目の生の中にいる。
そしてその三度目の生こそ、これまの生とは比べ物にならないほど充実したものであり、これが人生なのだと想うほどに彼女は喜びに満ちた日々を送っていた。無論、哀しいこともあるし、辛いこともある。楽しいことばかりではない。痛みもある。だが、それでも、これまでの人生とは大きく違うことがある。
満たされているという感覚。
その感覚が彼女の精神に平衡をもたらし、心を安定させる要因となっているのだろう。
なぜ、満たされているのか。
それはよくわからない。
たったひとりの主の存在か。あるいは、主と周囲のひとびととの関係か。両方だろう。それ以外の要因も考えられる。つまるところ、様々な要因が複雑に絡み合って、彼女の心の平衡は保たれているということだ。
その平衡を破壊するものがあるとすれば、それは、過去からの亡霊にほかならない――と、彼女は思っていたのだが、事実、その通りになった。
死神部隊。
彼女にとって特別極まる名称を持つ特務部隊が、新たに発足され、ジベルの主力として機能しているという話を聞いたとき、彼女は血の気が引くような想いがした。一瞬にして心の海が荒れ狂い、無数の感情が渦を巻いた。中でも深い悲しみと激しい怒りが奔流となって逆巻き、彼女の心の中を撹拌するかのようだった。
「じきにスルークだ。気合入れろよ、てめえら」
エスク=ソーマの声に、彼女は我に返った。激しく揺れる馬車の荷台に彼女たちはいる。レムとエスク率いるシドニア戦技隊の隊士たちだ。一台では収まりきらず、二台の馬車に分乗することになったが、問題はない。
その二台の馬車は、龍府からスルークに向かっている最中であり、エスクのいうようにもうすぐでスルークに着くところだった。スルークは、ジベル軍によって制圧されており、レムたちはその奪還を命令されていた。
暗い馬車の中、ドーリン=ノーグが赤い髭を撫でた。
「それはわかっとりますがね、スルークにいるジベル軍の陣容は、我々だけで対処できるものなんですかね?」
「我々だけでどうにかしなければならない、ということでしょう?」
「そういうこった、ドーリン。ジベル軍がどれだけの戦力を用意していようと、俺たちと死神殿の力で撃退するしかねえんだよ」
レミル=フォークレイのにべもない返答にエスクが同意する。
スルーク奪還に当てられた戦力は、レムとシドニア戦技隊だけだった。三十人にも満たない戦力で都市を奪還しろというのは、無茶にもほどがあるのだが、戦力差を考えれば、不可能な数字ではない。
「まあ、数はわかってる。百人程度だと」
「百人……ですか」
「それくらいなら、俺達だけでもなんとかなるだろ」
その百名あまりのジベル軍は、真死神部隊と名乗っているという。
死神部隊。
彼女にとって特別な意味を持つ名称は、かつて、彼女の直訴によって封印されたはずだった。クルセルク戦争後、彼女を隊長として再結成された死神部隊は、彼女の意志によって解散する運びとなったのだ。そして、死神たる彼女がジベルを離れたことで、死神部隊が結成される理由はなくなったはずだ。死神部隊は、レムたち“死神”使いがいたからこそ成立した部隊なのだ。“死神”使いがレムひとりである以上、新たに結成されたとしても、それは死神部隊とはいえまい。
だが、ジベルは、スルークを制圧した部隊に、真死神部隊と名乗らせている。
クレイグ・ゼム=ミドナスが死に、闇黒の仮面が黒き矛とひとつになった以上、“死神”使いの死神はいないはずだ。似たような召喚武装が存在する可能性は捨てきれないが、そうとは思えない。おそらく、死神とは名ばかりの連中なのだろう。
つまり、偽りの死神部隊なのだ。
(ハーマイン=セクトル……!)
ジベルの将軍にして国政の一切をも取り仕切る人物の名を胸中で叫び、彼女は拳を握った。そして、胸中でエイン=ラジャールに感謝した。
死神には死神を――ただそれだけが理由ではないにしても、そのようにして自分を偽りの死神たちにぶつけてくれた彼にはなんとお礼をいったらいいのかわからなかった。
『お礼なんていいですよ。むしろ、少数で相手をさせるんです。無茶振りです。解放軍の戦力を考えるとしかたがないこととはいえ、無理をしているのは間違いないんです。感謝しなければならないのは、こちらのほうなんですから』
エインは、そんな風にいってきたものだが。
レムは、それでも、エインに感謝の印としてなにかお礼をしたいと思っていた。もちろん、それは偽りの死神たちを血祭りにあげ、ジベルに、二度と死神の名を語らせないよう、徹底的な楔を打ち込んでからのこととなるが。
「レム殿」
不意に話しかけてきたのは、エスクだ。レムが彼を見ると、めずらしく神妙な表情をしていた。彼が真面目な顔をすると、途端に美丈夫であることを思い出させる。もちろん、レムの琴線に触れることなどありえないし、なんとも思わないのだが、レミルが彼に惚れるのは理解できた。
「はい。なんでございましょう?」
「あまりこういうこといいたかないし、いう資格もねえが」
「はい?」
「冷静にな」
「エスク様」
レムは、エスクの整った顔を見つめながら、ほほ笑みを返した。
「お気遣いには感謝いたしますが、勘違いなさらないでくださいませ。わたくしは至って冷静にございます」
「……そうかい。なら、いいんだ」
「うふふ。冷静に偽神どもを始末するだけにございます」
レムの宣言に荷台の中が凍りついたとき、馬車の揺れが止まった。スルークに辿り着いたにしては早過ぎる。そう思っていると、御者台から鋭い叫び声が届く。
「前方に敵部隊発見!」
「敵部隊だあ?」
「スルークから龍府に向かっていたのでしょうかね」
「は? 龍府の戦力をたかだか百人足らずで相手しようって考えてるってのか? 冗談だろ」
エスクが武器を確かめながら口早にいった。そして、すぐに考えを改める。
「……いや、冗談でもねえな」
スルークを落としたということを考えれば、あながちできないことでもないかもしれない。だから、ジベル軍はスルークを発したのだ。
もちろん、それは龍府にガンディア解放軍が到着していないことが前提であり、スルークのジベル軍は、まだガンディア解放軍の詳細な情報を掴んでいないということの証明だった。いかにジベル軍の部隊が精強であろうとも、解放軍全軍を相手に戦いを挑もうとするほど愚かではあるまい。龍府は割け、マルウェールに狙いを変更するだろう。
だから、というわけではないが、レムは立ち上がりながらエスクの言を否定した。
「いえ、ただの虚仮威しにございます」
「レム殿?」
「真ならざる偽りの死神如きが御主人様の龍府を落とせるわけがございませぬ」
告げて、馬車の荷台を出る。
「っ、シドニア戦技隊、後に続けえ!」
『おおーっ!』
雄叫びと喚声を背後に聞きながら、レムは馬車を抜け出していた。夕闇が空を覆う頃合い。春の夜の風が妙に冷ややかに、妙に空々しく吹き抜け、レムの髪を撫でた。闇の中、視界を失うことはない。場所は、スルークを目前に控えた街道だ。二台の馬車の荷台から戦技隊士たちが飛び出している中、レムは馬車の前方に向かって飛ぶように急いだ。
夕闇が降り注ぐ空の下、街道の両脇には雑木林があり、木々が風に揺れて不気味な雰囲気を演出していた。渦巻く風の音、風にざわめく木々の音、心の音。
レムは、“死神”を呼び出し、前方の敵部隊を認識した。
敵は百名あまり。
真死神部隊と名乗る愚か者の集団そのもののようだった。
彼らは、こちらの存在を認識しているのだろう。部隊を展開し、戦闘態勢に入っていた。百人を五十人五十人の二手に分けている。荷台の馬車をそれぞれ五十人で襲うつもりだったようだが、だとすれば街道沿いの雑木林にでも身を潜めておくべきだった。こちらがジベル軍の接近に気がついた時点で、なにもかも無意味になった。
どうやらジベル軍の指揮官は、戦術のせの字も知らないらしい。
レムは地を滑るように駆け抜けながら腰を屈ませ、みずからの影の中に右手を突っ込ませた。どろりとした液体の中に手を入れたかのような感触の中、指先がなにかに触れる。すぐさま掴み取り、影の中から引き上げる。巨大な鎌だ。禍々しいまでに歪な刃を持つ大鎌は、昔から彼女の得物だった。
死神の大鎌を掲げながら疾駆し、敵軍との接触まで数秒というところまできたとき、彼女は“死神”ともども右に飛んだ。闇の中を矢が貫いていく。精確にレムを射抜くように発射された一矢。相手も夜目が利くらしい。
望むところだと、彼女は想った。
敵は百人。
すべて切り刻み、血祭りにあげなければ、この怒りは収まらない。