第百三十六話 休憩地で
雷鳴が聞こえる。屋根を叩く雨音もだ。
雨脚が強くなり、木の下に隠れていても濡れることが多く、セツナたちは馬車の荷台に避難していた。セツナたちのように馬車の荷台で安全に雨宿りができるのは、限られた人間だけだった。軍団長たちは会議をしたテントで雨露を凌いでいるのだろうが、多くの兵士が森の中で雨が止むのを待っていた。各部隊長や副長は、セツナたちと同じように馬車の荷台に分乗しているようだが。
兵士たちが作った晩御飯を平らげ、お腹は満たされていた。肉と野菜をふんだんに使ったスープとパンだけではあったが、味気ない携行食とは比較にならないほど美味しかったし、おかわりもできたのだ。セツナはスープを二杯とパンをふたつ食べて、幸福感でいっぱいになっていた。
「寒いわね」
ファリアが、膝を抱えながらいった。濡れた髪はまだ乾ききっておらず、肌もしっとりとしているようだった。魔晶灯の明かりさえない闇の中、至近距離だからこそ、彼女の様子がわかる。荷台の片隅、セツナはファリアと肩を寄せ合うようにしており、ルウファもセツナの隣に座っている。
「大雨ですからね」
ルウファの言う通り、雨が運ぶ冷気が一帯の温度を急激に下げていた。夏だというのに身震いするほどに冷え込んできている。荷台に乗っているだけましな方だとは思うのだが、これでは休憩にもならない。
セツナは、寒そうにしているファリアやルウファが気の毒でならなかった。セツナだけなら耐え切る自信があったのだが。
「毛布でも借りてこようか?」
問うと、ファリアが少し驚いたような顔をした。
「隊長にそんなことさせるわけには……」
「といいながら動こうともしないファリア隊長補佐であった」
「……副長も動いていませんが」
ルウファの軽口にファリアが冷たい言葉で反撃するのが、この隊の日常なのかもしれない。セツナはそこにも幸福を見出し、くすりと笑った。
「いいよ、いつもふたりには頑張ってもらっているんだし、たまには俺が力にならないと」
「セツナ……」
「隊長!」
「確か、後ろの方の馬車にあったよね、備品」
セツナは記憶を探った。セツナたちが乗せてもらっている馬車は第一軍団の二番馬車であり、毛布などの備品は後方の馬車に詰め込んでいるのを見かけた気がした。前方には人員、後方には備品というのが、グラードの手配によるものかはわからないが。
「そうだけど、気をつけてね」
「わかってるよ」
ファリアに見送られながら荷台を飛び出すと、雨風がセツナを出迎えた。一瞬びっくりしたものの、即座に気を取り直して走りだす。地面に溜まった水を撥ね飛ばしながら、森の中へ進路を取る。樹の枝が屋根になってくれている森の中のほうが、まだ濡れずに済むだろう。
馬車そのものは、森の脇に並べてあった。何十台もの馬車が整然と並び、数百頭の馬が木に繋がれて休んでいる。木々の根本には荷台に乗れなかった兵士たちが身を寄せ合っており、雨避けのためか、毛布を被っているものもいた。兵士たちのことも気の毒に考えるのだが、それは偽善だろう。自分たちは安穏と荷台の中で雨風をしのいでいるのだ。そういう立場にあるからこその発想に過ぎない。
毛布を求めて後方の馬車へ向かう。
「あれー? カミヤ殿―?」
呼びかけられたのは、いくつかの荷台を当たり、毛布の獲得に失敗している最中のことだ。
「こんなところでなにしているんですかー? てっきり、ファリアちゃんといちゃいちゃしているのかと思って、こっそり覗きに行こうとしてたんですけど」
「いきなりなんなんですか」
森の影から姿を見せるなりそんなことをいってきた男に、セツナは思わず後ずさりした。ドルカ=フォームだ。彼の背後に立つ女は、無言で傘を差している。が、雨風が強すぎて、ドルカの髪も服もびしょ濡れになっていた。一方、女はそれほど濡れていない。自分だけ安全を確保しているようにも見えるが、ドルカは気づいていないのだろうか。
発言の内容自体には、セツナはあえて言及しなかった。いろいろと経験の豊富そうな男だ。適当な事をいっていると、藪蛇になりかねない。
「いやいや、先に質問したのはこっちなんだけどね」
ドルカの表情も声音も笑ってはいたが、視線は鋭かった。稲光に反射して、きらめく。セツナは彼の目にただならぬものを感じたが、それは敵意とは違うものだと認識して、少し安堵する。
「あー……すみません。毛布を借りようと思ったんですけど、連戦連敗で」
「それで困っていたと。よろしい、ついてきてくださいな。毛布の一枚や二枚や十枚百枚、どーんと貸して差し上げましょう」
ドルカが意気揚々と馬車に向かおうとすると、部下の女が無表情を崩さすに告げた。
「それは無理です」
「ニナちゃんってば冷たいのね、カミヤ殿がこんなに困っているというのに」
ドルカは、彼女の耳元で囁くようにつぶやく。ニナと呼ばれた女は、それでも表情ひとつ変えない。
「いえ、十枚百枚が無理だと」
「なるほど! 理解した!」
そういうと、彼はニナを軽く抱き、森の奥へと向かった。抱かれた瞬間、ニナが表情を変えたように見えたが、一瞬過ぎて気のせいだったかもしれない。彼女は、セツナに視線を向けてくる。
「……こういう方ですので、真剣に受け取らないでください」
「は、はあ」
セツナが生返事を浮かべたのは、ドルカに聞かれたら面倒だと思ったからだ。それに、ドルカの軽薄な言動すべてをまじめに受け止めていたら、命がいくつあっても足りないかもしれない。彼自身は浮薄なだけの人物ではなさそうなのだが、言動の軽さは、狙ったものなのだとしても、中々に受け入れがたい。
セツナには、そんな人物に心当たりがあった。
(リューグみたいだな……)
ログナー潜入直前に出会った野盗の剣士。薄情で軽躁な彼は、付き合いづらくはあったが、剣の腕だけは認めざるを得なかった。戦後はラクサスに雇われたようだ。彼には居場所がなく、主人と定めたラクサスの元を離れるつもりもなかったようだし、それでよかったのだろう。バルガザール家の用心棒として気楽にやっているらしい。
第四軍団の馬車列に辿り着くと、ドルカは、おもむろに馬車の荷台を覗きこんだ。
「諸君、毛布を二枚ほど寄越し給え」
「うわ、軍団長」
「うわとはなんだ、うわとは。減点百!」
「ぎゃー! 点数、マイナス振り切ったー!」
「可哀想に……」
「馬鹿だなあ、あいつ」
馬車の中から悲鳴やらなにやらが聞こえてきて、セツナは隣のニナに問いかけた。
「減点?」
「気にしないでください。馬鹿の極みですから」
ニナは相も変わらぬ鉄面皮だったが、セツナを傘の中に入れてくれていた。ドルカは傘を抜けだして先行していたのだ。
しばらくすると、荷台の奥から渡されたのだろう毛布を抱えたドルカが、鼻歌まじりにやってきた。雨に濡れ、水も滴るいい男という言葉がよく似合うのだが、行動そのものは美丈夫には似つかわしくない。
「カミヤ殿、どうぞ」
「あ、ありがとうございます。助かりました」
受け取った毛布は二枚。ファリアとルウファの分があるのだ。これでいい。セツナ自身は、数時間くらい我慢できるのだ。体を冷やすとつぎの戦闘に支障がありそうだが、黒き矛さえあればたいした問題はないだろう――などと考えていると、ドルカがこちらをじっと見つめていることに気づいた。雨に打たれるのも構わず、ただ、見ている。やはり、男前だ。レオンガンドやクオンとは違い、男性的な美しさがある。
「どうしたんですか?」
「黒き矛セツナ=カミヤ。あなたがログナー人を大量に殺してくれたおかげで、戦争はあっという間に終結した。ウェインくんも、あなたが殺したそうで」
言葉そのものには毒があるように思うのだが、彼の声音に敵意は微塵もなかった。しかし、軽薄さもなくなっている。浮ついたような言葉ではなく、地に足のついた言葉だ。だから心に刺さるのだ。だが、セツナはもう迷いはしない。ただ認めるだけだ。
「……ええ」
「そうか。ウェインくんがねえ……しかしまあ、それはいいんだ。本当に恨んじゃいない。あなたを恨んで、どうにかなるものでもない。死んだ人間は蘇ったりはしない。死んだものは死んだまま。復讐の無意味さもよおおく、知ってる」
ドルカは、じっとセツナを見つめていた。まるで魅入られたように、視線をそらそうとしない。結果、セツナも目を逸らせなくなってしまった。強いまなざしだ。かといって、負ける訳にはいかないと睨むわけにもいかない。喧嘩をしているのではない。
「それに、あのときもいったけど、国がガンディアに変わったおかげで俺は日の目を見ることができたんだ。ログナー時代はそりゃあ酷いもんだったさ。門閥貴族が幅を利かせてね。家の力がなければ、上に立つことなどできない。家名こそがすべてで、実力なんて関係なかった。だから、ジオなんてのが将軍になれたっていう話だが……ああ、いまのレノには内緒にしてくださいな」
「レノ?」
「レノ=ギルバース殿はログナー方面軍の第二軍団長で、後詰として合流するはずです」
ニナの説明を聞いて、セツナは得心した。彼の言うジオが、バルサー要塞を守っていたログナーの将軍ジオ=ギルバースだということも理解する。
「俺が兄を悪くいってたなんて思われるのは嫌でして」
「だったらいわなければいいだけのことです」
ニナがにべもなく告げると、ドルカは憮然とした顔になった。
「それもそうだが……ここは譲れぬところだ」
「お好きな様に」
「むう……」
ふたりのやりとりに置いてけぼりにされた気になったセツナは、しばらくの沈黙の後、半眼になって問いかけた。
「それで、ドルカ軍団長は俺になにがいいたいんです?」
「……そうだった。いいたいことがあるから、引き止めているんだった」
ドルカは、本当に忘れていたのか、はっとしたように目を見開いた。そして、思案するような顔になる。セツナが嘆息すると、ニナがくすりと笑ったような気がしたが、目を向けるといつもの鉄面皮だった。
ドルカが、口を開く。
「俺がいいたいのはですな、ガンディアが発展すれば、俺ももっと上に行けるんじゃないかってことです。たぶん、そういうことですよ、うん」
自信もなさ気な答えに、セツナは生返事を浮かべるしかない。
「はあ」
「ですから、カミヤ殿にはこれからも粉骨砕身頑張って頂きたく存じます」
「いやまあ、やることをやるだけですけど」
「それは我々も同じ。やることをやって、栄達を掴み取る。そのための踏み台になってもらいます」
ドルカはにやりと笑ったが、言葉に反して、表情にも声音にも悪意はなかった。むしろ爽やかな風が吹き抜けるようだった。悪い男ではない。第一印象の軽薄さは、自分の本心を隠すための仮面であり、本当のところは野心にあふれた人物なのかもしれない。そして、彼の歯に衣着せぬ物言いは、セツナには好印象だった。自分にはできないことだからだろう。
「できるものなら、やってみてください」
セツナがいうと、彼は呆気に取られたのか、目を丸くした。
セツナはふたりに毛布のお礼をして、その場をあとにした。背後から笑い声が聞こえてきたが、それはどういう意味での笑いだったのだろう。気にはなったが、確かめに戻る気にはなれなかった。毛布が濡れる前に戻ろう。そう考えると、自然、早足になっていた。
荷台に戻ると、ファリアとルウファが飛び出すような勢いでセツナを出迎えた。
「な、なに?」
セツナが尋ねると、ルウファが顔を出してきた。
「隊長補佐ったら隊長のことが心配で心配で、そんなだったら一緒に行ってやればよかったのにっていうくらいに――」
「副長?」
「あはは、冗談ですよ」
ファリアの半眼に、ルウファは笑いながら奥へと消えた。セツナはルウファがいっていたことを脳裏で反芻しながら、ファリアに毛布を手渡した。多少雨に濡れてしまったが、毛布は体を温めてくれるだろう。
「随分遠くまで探しに行ってたのね」
ファリアが、毛布を抱きしめながらこちらに目を向けてきた。その仕草が、なぜかセツナの胸を打った。返事が遅れたのは、そのせいだろう。
「第一軍団の馬車には全然余ってなくてさ、困ってたところでドルカ軍団長に会ったんだよ」
「ドルカ軍団長……ねえ」
ファリアが困ったような顔をしたのが、暗闇の中でもわかった。マイラムでの初対面のときから口説かれ続け、苦手意識が生まれているのだろう。彼女がそのたびに拒絶しているのだが、ドルカはまったく諦める素振りを見せていなかった。とはいえ、その軟派な態度すら偽りなのかもしれないと思うと、セツナにはどうも嫌いにはなれなかった。
「悪い人じゃなかったよ、二枚も貸してくれたし」
「二枚も、って。ひとり分足りないじゃない」
「俺はいいよ。ふたりがしっかり休んでくれるならさ」
告げると。奥に退散していたルウファが顔を覗かせた。
「隊長、俺達に気を使い過ぎじゃないですか? 隊長こそ休むべきだと俺は思いますが」
「あ、いまのは隊長命令ね」
セツナは、ルウファの気遣いに胸中で感謝したものの、語気を強めていった。
「こういうときだけ隊長ぶるのね」
「こういうときくらいしか、使い道ないよ。隊長権限なんて」
それは実感でもある。王立親衛隊《獅子の尾》隊長という立場になってしばらく経つが、隊長らしい振る舞いをしたことなど数えるほどしかない。セツナのやるべきことなど以前と大きな違いはないのだ。責任を持ち、自覚をしろ、というのはわかるし、そうしたいのもやまやまではあるのだが、隊としての行動自体が少ないのだから仕方がない面もあるだろう。
「隊長って、いろいろと損をしそうな性格してますね」
ファリアのため息にセツナは笑って返した。
雨音が激しい。
雷鳴と閃光が、夜の闇を切り裂くようだ。
「作戦開始まで数時間。いまはしっかり休もう」
隊長らしく命令して、セツナは荷台の片隅の定位置に座った。