第千三百六十五話 囚われのセツナ(二)
最悪の事態というべき状況に陥っている。
セツナは、美女へと変貌したラグナの目だけを見つめながら、ひとり考えていた。
最悪も最悪だ。
黒き矛が敵の手に落ちたのだ。
普通ならば、なんの問題もない。セツナが生きているということは、送還すれば無力化できるし、再召喚することで自分の手に戻ってこさせることも可能だ。セツナの場合、送還と召喚をほとんどの時間差もなく行うことができる。それがセツナの強みであり、ファリアたち純粋な武装召喚師から卑怯者と謗られる所以だ。通常、送還はともかく、召喚にはある程度の時間がかかるものだ。呪文を唱えなくてはならない。呪文は一言一句足りとも間違えることは許されず、間違えれば最初からやり直しだ。その点、セツナは楽でよかった。
が、声を出せないことには召喚することはできないのだ。声が封じられている以上、どうにもできない。もちろん、黒き矛を奪われたところで、悪用される可能性は限りなく低い。なぜならば、黒き矛を扱うのは至難の業であり、マリク=マジクですら長時間の運用は不可能だと判断したほどだ。いかに十三騎士といえど、武装召喚師としての訓練を受けていないものたちに使えるわけがなかった。
と、セツナはそこまで考えて、送還ならば可能なのではないかと考えた。送還に呪文はいらない。ただ、念じればいい。心の中で強く思えば、送還はなる。
(そうだ。そうだった。送還はいつも、念じていたんだ)
自分の勘違いに気づいて、彼は心底安堵した。送還さえしてしまえば、召喚できなくとも、当面の問題はない。召喚できないということは戦力的に大きな不安を残すことになるのだが、それはそれだ。
セツナは、黒き矛の送還を心の中で念じると、ようやく安心することができた。黒き矛が視界に存在しない以上、送還が上手くいったかどうかはわからないが、上手くいったと願うほかない。そもそも、送還が失敗することは考えにくい。どれだけ離れていても、召喚物が召喚者の送還命令を無視することなどできないはずだ。
不意にラグナの右手が首筋に触れて、セツナは驚いた。冷ややかな指先がセツナの首を伝い、撫でる。
(なんだ?)
「ここじゃな」
(ん?)
ラグナの指が首の一点で止まった。すると、ラグナの目が淡く輝きだした。翡翠色に光を発する様を見れば、彼女が人間ではないことは一目瞭然だ。魔法でも使っているのかもしれない。
「ここに封印が施されておる。この封印が、おぬしの声を封じておるのじゃろう」
(封印……)
「おぬしの声が聞けぬのは寂しい。どれ、わしが封印を解いてやろう」
(解けるのか?)
思わず声を出そうとしてしまい、セツナはすさまじい激痛に襲われて顔をしかめた。喉が破壊されるような痛み。二度と声を発したくなくなるほどに強烈であり、封印とやらの強力さがわかるというものだ。
「安心せよ。痛くはせぬ」
(痛く……?)
セツナが喉の痛みの中で疑問を浮かべた直後だった。ラグナはおもむろに顔を近づけてくると、セツナの目の前で口を開いた。八重歯が牙のように見えたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。ラグナは、セツナの首筋に噛み付いたのだ。彼女の八重歯が牙となって首筋の皮膚を突き破った感触があった。しかし、ラグナがいったように痛みはなかった。まるで麻酔でもかかったかのようだ。麻酔とは異なるのは、ラグナの牙が皮膚を突き破った感触があるということだ。痛みはなく、ただ生暖かい血液が首筋を伝っているのがわかる。動脈に牙を突き立てたのだろうか。だとすれば、黙って待っていていいものかどうか。
(おい……)
セツナはラグナを離そうとしたが、全身が金縛りにでもあったかのように動かなかった。魔法による麻酔が全身に作用しているのかもしれないし、別の理由かもしれない。
こうなれば、ラグナが事を終えるのを待つしかなかった。
しばらくして、ラグナが首筋から顔を離した。彼女の口についた血の跡がなんとも生々しい。セツナの血だろう。ラグナは、血を拭おうともせず、にやりとした。獰猛な肉食獣が獲物を前に見せる笑みのように思えたが、実際は、そうではない。彼女は口を開き、こう告げてきたからだ。
「終わったぞ、セツナ。これで声を発することができるはずじゃ」
ラグナの一言で、全身の金縛りが解けた。手足が思うように動き、首筋に痛みが生じる。噛みつかれたのだ。痛みもあるだろう。が、些細な痛みだ。これで声が出せるようになったというのであれば、非難する理由はない。
(声が出れば、の話だがな)
これで声が出せないままなら、ラグナを怒るだけのことだ。
そう考えながら、セツナは口を開き、徐に声を発した。
「……あ」
「あ?」
「おお……本当だ」
セツナは、自分の声が聞こえたことよりも、喉に痛みが生じなかったことにこそ歓喜した。封印による痛みは、セツナがいままでに感じたどの痛みよりも強烈だったのだ。腹を刺され、死にかけたときよりもだ。それくらいの激痛を感じずに済むようになったのだ。これを喜ばずして、なにを喜ぶのか。
「喋れるぞ」
「おお、良かったのじゃ。これでおぬしの声を聴き放題じゃな」
ラグナが妙に弾んだ声を発した。彼女がセツナの声にここまで言及するのはめずらしいことのように思えた。それくらい長い間、セツナが眠っていたということかもしれない。セツナが目覚めるまで、彼女はずっと待ち続けてくれていたのだろう。
どういうわけか、人間の姿で。
「……で、いま、なにしたんだ?」
「封印が施された箇所に直接魔法を叩き込んだのじゃ。そして、封印を破壊したのじゃ」
「だから、噛み付いたってのか?」
「うむ。封印そのものが強固じゃったからな。ああでもせねば、無駄に魔力を浪費したじゃろう」
「俺の首よりも魔力のほうが大事なのかよ」
「魔力を大切にせよ、とはおぬしの言葉じゃ。わしは御主人様の御命令を順守しただけじゃー」
そういいながら、彼女はセツナに頬ずりしてきた。小飛竜のころの仕草を美女の姿になってやられると、なんともいいようのない感情が湧き上がってきて、セツナは反応に困らざるを得なかった。同時に彼女がどうしようもなくラグナであるということを認識する。セツナにここまでべったりなのは、疑いもなくラグナだ。ミリュウ以外では、ラグナしか考えられない。
「……はあ」
「なんじゃ?」
「おまえ、本当にラグナなんだな」
「なんじゃ、信じておらんかったのか?」
「そういう意味じゃねえよ」
セツナは、ラグナの頭を軽く撫でて、彼女の両肩を掴んだ。それから、彼女の体を引き剥がす。ラグナは不服そうな顔をしたが、いつまでも裸の美女に覆い被さられている場合ではない。いや、むしろそのほうが精神衛生上よかったのかもしれない、とラグナを元の状態に戻してから想ったりした。座られると、主張の激しいものが視界に飛び込んでくるからだ。
できるだけラグナの頭上を見るようにしながら、問う。
「なんでまた、人間の姿になってるんだよ」
「ドラゴンのままのほうが良かったか?」
「それもある」
「ほほう」
ラグナが満面の笑みを浮かべたのは、やはり、彼女が生粋のドラゴンであり、竜としての自分にこそ誇りと自負があるからなのだろう。
「が、それ以上におまえほどのドラゴンがなんで人間になったのか、不思議でな」
「簡単な理屈じゃ」
ラグナは嬉しそうな表情のまま、続けてくる。
「以前、結婚がどうとかいう話をしておったじゃろう」
「……結婚?」
セツナは、ラグナが発した言葉の意味を理解した瞬間、脳裏に過るものがあって、顔をしかめた。結婚の話題になると周囲がざわつくのを肌で覚えている。結婚については考えなくてはならないことだ。今後、ガンディアで生き続けるということは、そういうことなのだ。
臣下たるもの、結婚し、子を成し、血を繋いでいかなければならない。セツナ=カミヤの血を遺していかなければならないのだ。
それも、そう遠い将来の話ではない。セツナは昨年、ガンディアにおいては成人といえる十八歳になったのだ。結婚してもおかしくはない年齢であり、さっさと結婚し、子供を儲けるべきだという声がそこかしこから聞こえてきていた。
立場もある。
エンジュールと龍府の領伯という責任ある立場にいる以上、身を固める必要に迫られるのは当然のことだった。
セツナがいつ死んでもいいように、だ。
もちろん、死なないのが一番だが、いつなにが起きるかわからないのがこの世界だ。
実際、セツナは何度も死にかけている。奇跡的に生き抜いてきたものの、運が悪ければ、とっくに命を落としていても不思議ではなかった。つぎは、ないかもしれない。だからこそ、結婚し、子を成すべきなのだろうが。
あいにく、セツナにはまだ、そのようなつもりはなかった。
「そういえば、そんな話もあったな。それがどうかしたのか?」
「あれから先輩やミリュウたちから話を聞いて、結婚について調べたのじゃ。結婚とは、契約というではないか。人間の雌雄が添い遂げるための契であり約束じゃと」
「……そうだな」
古代から連綿と受け継がれてきた風習。人類が社会を形成する上で掟となり、法として成立していった儀式。まさに契約であろう。
「わしは、おぬしとともにありたいのじゃ。じゃから、おぬしと結婚できるよう、人間の姿にも慣れておこうと想ってのう」
「それで、人間の、それも女ってわけか」
セツナは、ラグナの想いを素直に嬉しく想ったが、これでまた、ややこしいことになるのではないかと想ったりした。そもそも彼女はドラゴンだ。ドラゴンと人間が結婚できるのか。いや、それ以前に、ラグナならばドラゴンのままでも、側に居続けることくらいできるのではないか。想ったが、口に出してはいわなかった。
ラグナの気持ちを踏みにじるようなことは、いいたくなかったからだ。
「そうじゃ。結婚は男子と女子でなければならぬのであろう?」
「まあ、そうだな」
セツナは、ラグナの問いを肯定する以外の答えを持ち合わせていなかった。この世界で同性婚が認められているかどうかはわからない。それから、セツナは彼女がラグナだと判明したときから抱いていた疑問をついに口にした。
「でも、おまえって雄じゃなかったのか?」
「雄もなにも、わしら転生竜に雌雄はないぞ」
「そうだったのか」
驚くほかない。
てっきり、ラグナは雄だとばかり認識し、想いこんでいたからだ。声は可愛らしかったものの、口調や尊大かつ傲岸不遜な言動が、セツナたちをしてラグナの人格を男だと認識させたのだろう。まさか、転生竜に雌雄がないなどとは、想像しようもない。
「うむ。数多いるわしらの眷属は子を成すため雌雄に別れたが、わしやラムレス、ラングウィンといった転生竜は、子を成す必要がない。死んでも生まれ変わるのじゃからな」
「なるほど。それで男でも女でもなかったってわけか」
納得のいく理由ではある。
転生竜は、子を成す必要が無いのだから、雌雄の別もない。
逆に、一般的な竜は、子を成す必要があるから、雌雄に別れている。
理にかなっている。
「そうじゃ。雌雄がないから、どちらにでもなれるということじゃな」
「もし俺が女だったら、男になっていたのか」
「そういうことじゃ」
ラグナはそういって、満足気に笑った。それから、手を伸ばしたり、肘を曲げたりして、感覚を確かめるような動きをした。そのたびに豊満な胸が揺れるのが、セツナの精神衛生上よろしくなかった。
「変化には多少の魔力を用いることにはなるがのう。将来のことを考えれば、いまのうちに慣れておくのも悪くはあるまい」
「だからってなんで、ここで、なんだよ」
セツナが問うと、彼女は、あっけらかんと答えてきたのだった。
「おぬしが眠っている間、暇じゃったからじゃ」
「……そういうことか」
セツナは、苦笑するしかなかった。
ラグナが暇に感じるほどの長時間、セツナは眠りについていたらしい。




