第千三百六十四話 囚われのセツナ(一)
長い夢を見ていた。
きっと、そうだろう。
しかし、どのような夢だったのかは思い出せない。
思い出すには、あまりに辛い夢だったからかもしれない。
重い痛みがいまも胸を締め付けている。夢の記憶が、心にだけ残っている。目が覚めれば忘れてしまうほど些細で、しかし、心に刻まれるほど深い痛み。思い出そうとして、その段階でくじけてしまうくらいの、そんな痛み。なぜ、ここまで苦しまなくてはならないのか。なぜ、ここまで悲しまなくてはならないのか。
失わなくてはならないのか。
(失う?)
いったい、なにを失うというのだろう。
いったい、だれを失うというのだろう。
失いたくなんてないのに。
これ以上、なにも――。
「――起きよ、セツナ」
声が、遠くから聞こえてくる。聞き知った声。聞き慣れた声。妙に甘えているように聞こえるのは、実際に甘えているからだろう。あの小さな竜の声だ。ラグナシア=エルム・ドラース。傲岸で不遜で生意気で常識知らずで、そのくせ甘えたがりな、あの小飛竜。
「――さっさと起きぬか」
夢の深淵から浮上する感覚があった。暗い闇の底から、光に満ちた世界へ。
現実へ。
瞼が開き、視界に光が入る。
目が痛い。何年も目を開かなかったことの影響のような刺激が、網膜に突き刺さる。そして、緑と肌色が視界を埋め尽くしていることに気づき、唖然とする。状況がよく飲み込めない。
(なんだ!?)
声に出して驚いたつもりだったが、喉に激痛が走っただけで声はでなかった。目を開いた瞬間、痛みが生じたのと同じ理屈なのか、どうか。
「ようやく目を覚ましたか。長い眠りじゃったのう」
聞き知った声とともに目の前に迫ってきた女の顔に、セツナはただひたすらに混乱した。
(なななななななな……!?)
美しい女性だった。翡翠のような透明な緑色の髪は長く、仰向けに寝たままのセツナの顔にかかり、鼻をくすぐった。肌は白く、きめ細やかだ。細い眉に深い睫毛に縁取られた大きな目。宝石のように澄んだ瞳も翡翠のようであり、口が開いたときに覗いた八重歯は妙に愛らしかった。十代後半から二十代前半といったところだろうか。そこまで冷静に分析できたのは、彼女が顔を間近に近づけてくれだからかもしれない。
余計な部分を見ずに済んでいる。
「まあ、それだけおぬしが頑張ったということじゃろうな。褒めてつかわそうかの?」
彼女は、セツナに馴れ馴れしかった。そもそも、声が聞き慣れたものなのだ。夢の淵で聞き、現実に呼び戻した竜の声にそっくりだった。だが、目の前にいる女性が彼とは思えない。ラグナが人間の姿をしているわけがない。それも、女性の。
彼女は、眉根を寄せると、至近距離に近づけていた顔を離した。その瞬間、セツナは、彼女の上半身を目の当たりにしてしまい、硬直した。
彼女は、一糸纏わぬ姿だったのだ。衣服を着ていなければ、下着を身につけてもいない。大きな胸も恥ずかしげもなく放り出されたままであり、おそらく、下半身も丸裸なのだろう。彼女がどういう体勢なのか、上半身の状態をみるだけで想像するに余りある。
セツナの腹に跨っているのだ。
「む……どうしたのじゃ? なにを固まっておる」
(裸だからだろ!)
叫びたかったが、声は出なかった。声を出そうとしても、喉に痛みが走るだけだった。どういう理屈かはわからない。喉を潰されたというわけでもなさそうだった。手で触れてみたところ、外傷はないのだ。なにが原因なのかはわからないが、いまは、それよりも彼女のことのほうが問題のように思えた。
「それになぜ、黙っておるのじゃ。なんとかいったらどうなのじゃ」
彼女は、訝しげな表情をした。
「もしかして、わしがだれなのかわかっておらぬのではなかろうな?」
セツナは、云々とうなずきながらも、彼女の言動から、ある可能性を考えつつあった。ラグナは体の大きさをある程度自由に変化させることができる。セツナの頭髪の間に隠れられるほど小さくなることも可能なくらいには、自由が利いた。その上、彼は魔法を用いることができた。防御魔法ばかり使わせたものだが、もちろん、それ以外にも様々な魔法を使うことができるという。中には、肉体を変化させる魔法があったとしても、不思議ではなかった。
そして、彼女は、勝ち誇ったようにいってくるのだ。
「わしはわしじゃ。ラグナシア=エルム・ドラース。おぬしの下僕弐号じゃ」
彼女が胸を張ると、胸元の双丘が自己主張するように揺れた。
悪い夢を見ているような気がして、セツナは、ただただ唖然とした。
セツナは、自分が豪華な寝台の上に寝かされていたことに気がついたのは、彼女がラグナの変身した姿であることを理解してからのことだった。
(ラグナシア=エルム・ドラース)
反芻するように、胸中に浮かべる。相変わらず喉が痛みを発し、発声することさえままならない。そして、そのことをラグナに伝えることさえ、できなかった。
ラグナは、相変わらず寝転がったセツナに跨がり、勝ち誇ったように上体を逸らしている。
(眼福っちゃあ眼福なんだがな)
ラグナの裸体は、刺激が強すぎる。人間の感性からみても美人といえる顔立ち。均整の取れた肢体。長い腕。豊満な胸、細くくびれた腰、ほどよく肉付きした太もも――あらゆる点で抜群といっていい。そんな女性に全裸のまま跨がられている状況というのは、いままで色々なことがあったセツナの人生の中でもとびきり奇妙なことかもしれなかった。奇妙で、刺激的で、理解不能で、納得出来ない事態。
なぜラグナが人間の、それも女性の姿に変身しているのか、セツナには皆目見当もつかなかった。竜であることに誇りを持ち、自尊心も強いラグナが人間に変身する理由がない。セツナを起こすためであろうというのなら、ドラゴンのままでも良かったはずだ。
そもそも、セツナはいま、どのような状況にあるのかがわかっていなかった。
人間に、それもとびきりの美女に変身したラグナに跨がられているというのは、わかる。しかし、それ以外のなにもかもがよくわからない。まず、自分が無事に生きていること自体に驚きを覚える。殺されても不思議はなかった。死んでいたとしても、なんらおかしくないのだ。もしかしたら本当に死んでいて、覚めない夢を見ているのかもしれないとも思ったが、自身の肉体に生じている変化を認識している以上、これは死者の見る夢などではなく、歴とした現実なのだろう。
巨大化したシドに捕まった、ということだ。
つまり、ここは騎士団が拠点とする場所に違いなかった。サントレアか、あるいは、ベノアガルド領内のいずれかの都市ということになる。そこまで考えてサントレアはありえないことに気づく。マルディアはジゼルコートに通じており、セツナを拘束するようスノウらに命令が下されていたものの、騎士団がサントレアに入るということは考えにくかった。
マルディアとベノアガルドの関係は、必ずしも良好ではない。ベノアガルドはマルディアの反乱軍を支援していたからだ。もちろん、それさえもジゼルコートの策だというのであれば、マルディアもベノアガルドとの戦いは織り込み済みだっただろうし、セツナを捕縛したあと、マルディアとベノアガルドの関係が戻ったとしても、別段、不思議なことではないのだが。
シドの目的を考えると、ベノアガルドに戻ったと考えるのが妥当だろう。
確認する。自分が寝ているのは、ふかふかの寝台の上だ。大きな寝台は、大の大人がひとりで使うには大きすぎる。装飾などから高級品だということが理解できる。続いて、広い室内を見回す。高い天井から吊り下げられた魔晶灯は豪華に飾り付けられており、壁に掛けられた絵画や調度品の数々も高級品ばかりのように見えた。空間そのものが高級感にあふれている。なんとも居心地が悪いのは、そのせいもあるだろう。
部屋の一方に窓があるものの、寝台からは遠い。しかし、手足が拘束されていないということを考えれば、窓から屋外に抜け出すことはそう難しくもなさそうだった。もしここがベノアガルド領のいずれかの都市だというのであれば、さっさと抜け出し、ガンディアに帰還しなければならない。
目的は、果たせたはずだ。
騎士団をサントレアに押し留め、ガンディア解放軍をガンディアに到達させるという使命は、果たせただろう。
騎士団の目的がセツナを拘束し、自国領に移送するということだったのであれば、あの戦いのあと、ガンディア解放軍を猛追したとは考えにくい。という以前にあれから追撃をかけたところで、騎士団がガンディア解放軍に追いついたころには、ジゼルコートの反乱は終息していることだろう。
つまり、セツナは使命を果たせたということだ。
「しかし、なんじゃな」
ラグナが、逸らしていた上体を戻すと、自分の細く長い腕を舐めるように見回し始めた。
「人間の体というのは、奇妙なものじゃ。竜とは大きく異る。中々に慣れぬ」
(だったら竜のままでいいだろ)
セツナは、ラグナの嘆息を聞きながら、胸中で告げた。声を出せないことがこれほどまでに不便で、苦しいものだとは思わなかった。意思疎通ができないのだ。表情だけで感情や想いを伝えることができるわけもない。そもそも、ラグナはこちらを見てもいない。しなやかな指を一本一本、確かめるように動かし、握り、開く。人間の手足の感覚を把握しようとしているのだろう。彼女は、生まれながらのドラゴンなのだ。しかも、彼女の幼体ともいうべき姿のころは翼と足だけであり、腕はなかった。翼が腕に当たる器官だったのだろうが、腕と翼では感覚が大きく異なるらしく、ラグナはなんともいえない微妙な表情で自分の腕を動かしていた。翡翠色の長い髪は、ドラゴンの頃の外皮の色によく似ている。もしかしなくとも、ドラゴンの姿の名残に違いなく、ラグナという存在の象徴なのかもしれない、と、セツナは思った。宝石のように美しい瞳もまた、ラグナがドラゴンだったときと変わりない。
「じゃが、慣れればこれはこれで快適かもしれぬ。少々……」
ラグナは、両方の手でみずからの乳房を鷲掴みにした。双丘のように豊かな胸にしなやかな指が食い込んでいく。
「ここが重いがのう」
(だったら小さくするなり、男にでもなってろよ)
セツナは、胸中で突っ込みを入れつつ、ラグナの扇情的な姿から目をそらした。ラグナは、自分がいまどのような姿で、どのような状況なのか理解できていないのかもしれない。いや、よくよく考えれば、彼女はドラゴンであり、人間と同じ価値観、道徳観を求めてはならないのだ。人間が抱くような羞恥心など持ち合わせていないと見るべきなのだろう。
「どうしたのじゃ? セツナ。それになにゆえさきほどから黙りこんでおる。せっかく長い眠りから目を覚ましたのじゃ。声のひとつくらい聞かせてはくれぬか」
ラグナが、胸を掴んでいた手を離すと、妙に艶めかしい仕草でセツナの顔に手を伸ばしてきた。細く長い指が頬に触れる。両手で顔を挟んできたのは、小飛竜の姿の頃の癖に違いなかった。ラグナはよく、翼でセツナの顔を挟みこむようにしてきたものだ。ひんやりとした翼は、夏場にはちょうどよかった記憶がある。
人間の姿になったいまも、ラグナの体温は低いままらしく、頬を包む両手の冷ややかさにセツナは驚きを禁じ得なかった。人間の体温ではない。
「それとも、わしの変化に驚きの余り声を失うてしもうたか?」
(話したくても話せねえんだよ)
胸中で毒づくが、ラグナに通じるはずもない。たとえば、セツナとラグナの心が通い合っていたとしても、胸中の声を聞くことなどできないだろう。心の中の声は心の中に反響し、消えるだけだ。
「なにゆえ黙っておる。わしがわからぬのか? わしじゃぞ? ラグナシア=エルム・ドラース」
(それは、わかってるさ)
いいたいが、いえない。
もどかしさに身悶えする。
「ふむ……」
ラグナはセツナの苦悶に満ちた表情からなにかを察したのか、右手を頬から離した。
「喋れぬのか?」
(ああ)
うなずくと、ラグナは、しばらく思案した。彼女の目から目を逸らさないのは、少しでもそらせば、彼女の肢体を視界に収めてしまうからだ。いくら彼女がラグナであったとしても、その裸体の刺激の強さは尋常ではない。男ならば反応しないわけがないのだ。
「なるほどのう……つまりは、あやつらの能力というわけじゃな。おぬしのどこにも傷はない。そもそも、あのあと、だれひとりとしておぬしを傷つけようとはせなんだ。むしろ、おぬしを介抱し、治療を施しておったくらいじゃからのう」
(そこまで……)
「とはいえ、おぬしが目覚め、ブソウショウカンジュツを使われてはたまらぬということで、なんらかの方法でおぬしの声を封じたのじゃろうな」
ラグナの推測を聞いて、セツナもそれしかないと思えた。しゃべろうとさえしなければ喉に痛みは生じないのだ。無理に発声しようとしたときだけ、激痛が走る。喉が壊れるのではないかと想うほどの痛み。心の中で毒づくだけではなんともない。つまり、声が出せないということであり、発声できないよう、外部からの力が加わっていると考えるべきなのだろう。
十三騎士は、特異な能力を用いる。シドは雷光を使い、ロウファは光の矢を放った。ゼクシズは炎を、シヴュラは竜巻を生み出した。中には、相手の声を封印する能力の使い手がいたとしても、不思議ではない。
なぜ声なのか。
理屈は簡単だ。
ラグナがいうように武装召喚術を封じるためだろう。
武装召喚術は、声によって呪文を紡ぐ必要がある。呪文を紡ぎ、術式を構築しなければ、異世界とこの世界を繋げることなどできない。それどころか。異世界に語りかけることさえできないのだ。そしてそれは、呪文を必要としないセツナとて同じことだ。
セツナもまた、声なくして武装召喚術を発動することはできない。
セツナの場合、どういうわけか武装召喚というたった一言でいいのだが、それでさえ、発声の必要がある。発声を封じられれば、召喚は不可能だ。
そこまで考えて、セツナは、はっとなった。
(黒き矛はどこだ……?)
セツナは、シドに掴まれ、意識を失うときまで、黒き矛を送還した記憶がなかった。
つまり、黒き矛は、騎士団によって管理されているのではないか。




