第千三百五十五話 弓と獣
タウラル要塞は、アバードが誇る難攻不落の要塞だ。
攻め難く、護りやすい鉄壁の拠点であり、大都市としても機能していた。
かつて、タウラル要塞を中心とするタウラル方面を治めていた領伯ラーンハイル・ラーズ=タウラルが、その難攻不落の要塞こそ大都市にするに相応しいと大改革をなし遂げたのだ。ラーンハイルが領伯としてタウラルを治めなければ、タウラル要塞が大都市化することはなかっただろうといわれるほど、ラーンハイルの影響は強い。
しかし、アバード動乱のおり、タウラル要塞はシャルルム軍の猛攻によって陥落、略奪の限りを尽くされたといい、タウラルの住民感情は最悪にまで落ち込んだ。なにもかもを奪われ尽くしたひとびとは、シャルルムの支配から解放された後も、アバード政府を恨み続けていたという。
そんなタウラルだからこそ、ザイード=ヘイン率いる軍勢によって容易く落とされ、占拠されたということらしい。アバード政府に恨みを持つタウラルの住民がザイードの反乱に協力したのだ。
ザイード=ヘインは、アバードの双璧と謳われた二大将軍のひとりであり、双牙将軍の位についていた。シーラ派の筆頭であり、エンドウィッジの戦いで死亡した双角将軍ガラン=シドールとともにアバードを支えてきた彼がなぜいまになって反乱を起こし、アバード政府と敵対する道を選んだのかは、わからない。
ジゼルコートに通じているからだ、という話もあれば、アバード動乱の事後処理に納得出来ないからだ、という話もある。後者の場合、なにが不満なのか、シーラにはわからなかった。
「ザイード将軍が反乱を起こすとはねえ」
クロナ=スウェンが難しい顔をしながら、腕を組んだ。
ヴァルターのアバード軍施設内作戦会議室に、シーラたちは残っていた。シーラたち。シーラ率いるセツナ軍黒獣隊の幹部たちと、イシカの弓聖サラン=キルクレイド、星弓兵団長イルダ=オリオンだけだ。つい先程まで軍議が開かれていて、そのときにはガンディア解放軍の首脳陣が顔を揃えていたのだが、首脳陣は、ヴァルターを出発する準備もあって、軍議の終了後、すぐさま室内から出て行ってしまった。
軍議は、タウラル要塞に立て篭もるザイード=ヘインらアバード反乱軍に関するものだった。アバード政府からもたらされた情報によれば、双牙将軍ザイード=ヘインは、供回り二百名とアバード軍獣戦団千五百名とともにタウラル要塞を占拠、アバード政府に敵対する意図を見せているという。タウラル要塞に籠城しているということは、何処かからの援軍を期待しているようにも見え、アバード政府は迂闊に手を出せない状況らしかった。
アバードの戦力は、極めて少ない。
シーラ派による内乱とシーラが引き起こした動乱によって、多大な戦力を失ってしまったからだ。動乱終結後、各地で徴兵に励んだようだが、それでも戦力は枯渇気味といってもいいほどであり、その戦力の三分の一ほどをザイードが支配下に収めているのだから、いかんともしがたいという。しかも、ザイードは難攻不落のタウラル要塞に篭もっている。攻め落とすには、数倍の戦力が必要だ。アバード正規軍の戦力だけでは足りないにも程がある。
しかも、ザイード=ヘインはジゼルコートと通じている可能性が高い。なぜならば、ザイードの反乱は、ジゼルコートの謀叛の報せがアバードに届く直前であり、ザイードがジゼルコートからの報告を受けてから行動を起こした可能性が大きいのだという。そして、籠城し、援軍を期待しているというのも、その可能性に拍車をかけている。後ろ盾のないザイードが援軍を期待するとすれば、ジゼルコートの同調者以外には考えにくかった。
ガンディアとの関係を良くするためタウラルを手放したシャルルムが、再びタウラルを手に入れるため、ザイードを唆すとは考えにくい。せっかく関係を改善したというのに、さらに悪化させるようなことをするとは思えない。
ザイードが暴走したという可能性もなくはないが、だとすればなぜこの時機に、という疑問が生まれる。
それも、ジゼルコートに通じていたというのであれば、疑問も生まれない。その場合、どうやってジゼルコートと知り合い、なぜ、ジゼルコートに靡いたのかがわからないが。
「信じがたいが、起きてしまったものは、どうしようもない。俺たちの手でザイードを討ち、タウラルを取り戻す」
それが、軍議の結果だ。
ガンディア解放軍は、ザイードの反乱を放置しないことに決めた。アバード軍の戦力を考えると、アバード軍に任せるのは不可能だと判断したのだ。アバード軍に任せると、ザイード=ヘインからタウラルを取り戻すどころか、アバード軍が大敗を喫する可能性もあるからだ。アバード軍は、ザイードが反乱を起こしたことで将軍不在となっている。全軍を指揮できる人材がいないのだ。指揮官がいなければ、戦うものも戦えない。道理だ。
かといって、解放軍の全戦力でタウラルを奪還するだけの時間的余裕はなかった。タウラルは、ヴァルターからも遠い。ガンディア本土を目指す上で遠回りになる。戦闘を挟むとなると、さらに時間がかかることになる。これ以上、ジゼルコートの跳梁を許してはならないのだ。
そこで、解放軍は一部戦力をタウラル要塞の奪還に当てることにした。
それがシーラたち黒獣隊と弓聖、星弓兵団なのだ。そこにアバード軍が加わることで、タウラルを落とすのに十分な戦力になりうる。
「本当に、討つんですか?」
「ザイードが投降してくれるんならそれもいいが、彼がおとなしく投降するとも思えないな」
「頑固ですもんね」
「ああ」
ザイードは、頑固で融通が効かないところがあった。そこが彼の良いところであり、欠点になりうるところでもあった。しかし、頑固にもアバードの将軍を続けてきた男がどうしてここでアバードを裏切ったのかは、シーラにはまったく納得できなかった。頑固ならば、ジゼルコートの魔手など跳ね除けてしかるべきではないのか。
「それに、許せるもんでもない」
シーラは、冷ややかに告げた。会議室の空気が冷え込んでいるのがわかるが、構わない。ザイードは、これまでアバードを支え続けてくれた人物だ。感謝もしている。セイルを支えてくれていたのだから。そして、だからこそ、許せないという気持ちが生まれる。セイルを裏切り、セイルの期待と信頼を踏み躙ったのだ。セイルがどれほど傷つき、どれほど思い悩んだのか、想像に余りある。
幼い王は、その小さな頭と小さな胸の中で、だれよりも深く、だれよりも大きく、この国のことを考えているのだ。もちろん、幼い彼の視野は狭く、世界も小さい。考えられることなど、たいしたものではないだろう。しかし、セイルはアバードという国を心から愛し、より良くするために日々、研鑽を積み重ねているのだ。良き王となるために。アバードの国王として相応しい人間になるために。
そんなセイルの心を踏み躙ったザイードを、シーラは許せなかった。
ジゼルコートに通じているのであれば、なおさらだ。
なにもかもを裏切っている。
「なんとしても、タウラルを奪還し、セイル陛下の御心を安んじて差し上げなければ」
シーラが告げると、部下たちは静かにうなずき、サランもイルダもそれぞれに首肯した。
会議の後、シーラはセイルと久々に対面した。
以前逢ったときよりも少しだけだが身長が伸びたことを嬉しそうに報告してくる王の姿に、シーラは、なんともいえない幸せな気分になった。シーラは、もはやアバード王家の人間ではない。しかし、確かにセイルはシーラの弟であり、セイルはシーラを姉として見ているのだ。もちろん、人前では姉弟として振る舞うことはないが、ふたりきりのときは、彼が望む限り、姉として彼に対応した。セイルの心労を思えば、彼の我儘に振り回されるのも悪くはなかった。
シーラはセイルにすべてを押し付けてしまったという負い目がある。
彼のためにできることはしてあげたいというのが、シーラの本心だった。
そして、タウラルの奪還もまた、それに当たる。
タウラルを奪還し、反乱者を討つことは、セイルの心労を少しでも和らげることになるだろう。
「ザイード将軍は、わたしの統治が気に入らないのでしょう」
セイルが予期せぬことをいってきたのには、シーラも驚かざるを得なかった。
「わたしは、まだ幼く、政治に携われるほどの能力があるわけではありません。ですから、大臣たちにすべてを任せているのですが、どうやらそれが気に食わなかったみたいで」
「だからといって反乱を起こすほど愚かなことはありませんよ」
「わたしがもっとしっかりしていれば、このようなことには――」
「陛下。陛下はまだ幼い。ですが、幼いなりにもしっかりとなさっているではありませんか。陛下ほど立派な九歳など、ほかにいるものですか」
「姉上……」
「どうか気をしっかり持ってください。胸を張ってください。なにも怖じることはありません。わたくしがついています」
「……頼もしい言葉ですね」
セイルが穏やかに微笑んだ。その微笑みの綺麗さに、シーラは涙が出そうになった。セイルの激動の人生を思えば、なぜそこまで美しく微笑むことができるのだろうと考えてしまう。そしてそんな彼の心を踏みにじるものたちを許せないという感情が湧き上がってくる。
「姉上には、セツナ殿がついていますし」
セイルの続けざまの発言が、シーラの脳天に直撃する。
「セ、セツナは、その、えと、あの……」
「ふふふ」
しどろもどろになっていると、セイルがおかしそうに笑った。その笑い声が余計に気恥ずかしさを増大させる。
「やはり、姉上にはセツナ殿の話を振るのが一番面白いというクロナの言う通りでしたね」
「ク、クロナ……!?」
シーラは、拳を握りしめて、部屋の扉を振り返った。クロナたちは、扉の向こう側にセイルの近衛ととともに待機しているはずだ。クロナが訳知り顔でセイルに囁く様が思い浮かぶようだった。
「あいつ……!」
「クロナを怒らないであげてくださいね」
「し、しかし……」
「クロナもわたしを気遣ってくれただけのことでしょうし」
「それは……わかりますが」
セイルの手前、渋々ながらも肯定する。
「クロナや皆を大切にしてあげてください、姉上」
「もちろんです」
そこは、即答した。
クロナ=スウェン、ミーシャ=カーレル、リザ=ミード、アンナ=ミード、そしてウェリス=クイード。シーラとともにアバードを逃れた五人の元侍女たちは、シーラにとってこの上なく大切なひとたちだった。
彼女たちがいたからこそ、シーラは今日、ここにいられるのだ。
馬車が、揺れている。
小さく、大きく、音を立て、進んでいく。
何度か、夜を越えた。それでもまだ、彼は眠っている。眠り続けている。まるで永遠の眠りについたかのように。
不安はない。鼓動があり、脈打っているからだ。心臓が動き、血が循環している。外傷は少なく、内臓も無事だ。その数少ない外傷も、敵対者たちによって介抱されていた。傷口は消毒され、その上で治療が施されているらしい。敵対者たちの目的は、彼の確保なのだ。殺すことではない。
敵対者たちは、彼の力を買っている。おそらく、彼の力を利用して、なにかをなそうというのだろう。
救済。
この世を救うなどと、大それたことをいっていたが、それが本当の目的なのかどうかわかるはずもない。
息を潜め、彼の目覚めを待つ。
彼が目覚めるときまで、動くことはできない。
彼を護るのが、己の役目なのだ。
従僕としての先輩から与えられた使命。
命に代えてでも護り抜く。
そのためには、いまは沈黙を保ち、状況が好転するのを待つしかなかった。
いまここで暴れることは可能だ。だが、それで事態が悪化することは目に見えている。敵対者が彼に対して使用した能力。肉体の変質。一時的な変容。人間が持ちうる能力などではない。
では、敵対者たちが人間ではないかといえば、そうではなかった。
敵対者たちは歴とした人間であり、そのことは、だれが見ても明らかだった。
あの能力の正体がなんなのか。
判明するまでは迂闊なことはできまい。
たとえ持ちうるすべての力を駆使したとしても、切り抜けられるものかどうか。
ラグナシア=エルム・ドラースは、セツナの髪の中に身を潜めたまま、状況が変化するのを待ち続けた。
馬車は揺れる。
馬車は進む。
目指すはベノア。
ベノアガルドの首都ベノア。
そこでどのような運命が待ち受けていようとも、ラグナシア=エルム・ドラースの決意は変わらない。
主を護る。
セツナを。
ただそれだけのことなのだ。
そして、その覚悟があればこそ、ラグナシア=エルム・ドラースは、セツナの体温を一秒でも長く感じていようと想うのだった。